東方問題② クリミア戦争
クリミア戦争は、聖地管理権を口実とした戦争ですが、実質的には「ロシアの不凍港獲得」が目的となった戦争です。
聖地管理権とは、どのような権利でしょうか?これはイスラム教とキリスト教の聖地であるイェルサレムの管理権と考えて頂きたく思います。
16世紀、聖地イェルサレムはオスマントルコのスレイマン一世に認められて、フランスが管理していました。
ところが、フランス革命が起きたときにキリスト教そのものが否定され、フランスの聖地管理権が宙に浮いた状態になります。
この隙をついて、ロシアが聖地管理権を獲得します。ナポレオンがエジプト遠征をしたときにロシアは見返りとして聖地管理権を獲得しました。
ところが、フランスでは1852年に皇帝ナポレオン三世が即位するとカトリック教徒からの支持を集めるため、聖地管理権をオスマントルコに認めさせます。
こうして、オスマントルコ領内には聖地管理権問題により、ロシアの「ギリシャ正教徒」とフランスの「カトリック教徒」が定住します。
そこで、ロシアはこの聖地管理権問題をめぐって、「ギリシャ正教徒を保護する」という口実でトルコ領のモルダヴィアとワラキアに侵攻を開始します。※実質的には、不凍港が欲しかったと改めて強調します。
これに対して、トルコが宣戦布告したことで1853年にクリミア戦争が開始します。
この様子を見ていたイギリスやフランスは、ロシアの勢力拡大を怖れてクリミア戦争に参戦します。
もともと、イギリスとフランスは百年戦争やフレンチインディアン戦争、七年戦争と長年戦い続けたライバルですが、ロシアを南に行かせるものかという想いは同じでした。
そこで、クリミア戦争勃発時、イギリスとフランスはタッグを組むのです。
このイギリスやフランスの加勢によって、ロシアはクリミア戦争で負けてしまいます。
そして、戦後のパリ講話会議では、ボスフォラス海峡とダーダネルス海峡を外国軍艦が航海することを禁じるとともに、黒海に軍事施設をおくことを一切禁じられるのです。
こうして、ロシアの南下政策は挫折するのです。※ちなみに、敵だったイギリスとフランスはこの戦争を通じて、両国間の友好が深まるのです。
この敗北は、ロシアにとって大きなショックを与えます。1855年にニコライ一世が亡くなりましたが、一説によると絶望の果ての自殺であったとも伝えられています。
そして、時代はアレクサンドル二世の時代にシフトします。
このクリミア戦争の時代に活躍した有名人が二人います。
一人は、ナイチンゲールです。ナイチンゲールは、戦場の野戦病院で敵味方関係なく看護を行ったことで有名です。
その献身ぶりからクリミアの天使とも呼ばれました。
クリミア戦争後、ナイチンゲールは看護におけるあらゆる問題を政府に提出しました。
これにより、イギリス看護婦制度の基礎を築きます。また、ナイチンゲールの看護活動に感銘を受けたアンリ=デュナンが国際赤十字社を作ったことも覚えておきましょう。
もう一人の有名人は、トルストイです。
クリミア戦争で最大の激戦となったのが、セバストポリ要塞でしたが、このセバストポリ要塞にトルストイも参加します。
そして、トルストイは、ロシア文学「戦争と平和」を後に書き記します。




