表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
世界史講義録 ロシア史への誘い  作者: 鸛
ロシア史基礎編
10/75

ヨーロッパの憲兵

ニコライ一世が即位すると、ロシアは各国に進出していきます。はじめに進出したのが、イラン方面です。


イランでは、18世紀末に建国者アーガー=ムハンマドのもとでカージャール朝が建国されます。


しかし、この新しく建国されたイランの王朝にロシアは牙を剥きました。


1826年に、ロシアはカージャール朝イランに戦争をしかけます。これが、ロシアイラン戦争です。この戦争は、ロシアの勝利で終わりました。


この時、ロシアは不平等条約であるトルコマンチャーイ条約をイランと結びました。


この条約によって、ロシアは治外法権を獲得し、アルメニア地方の大半を獲得するようになります。


更に、前項でお話ししましたが、ロシアはポーランドを分割して支配していました。


そのことに不満を抱いたポーランドの民衆が、反乱を起こします。


しかし、この反乱をロシアは瞬く間に鎮圧してしまいます。


更に、ハンガリー共和国も壊滅させます。


このような降るまいから、ロシアは「ヨーロッパの憲兵」と呼ばれるようになるのです。


しかし、ロシアの進撃はこれだけにとどまりません。


ロシアは、穀物の輸出販路獲得のためバルカン半島、黒海、地中海方面の進出を計画します。


いわゆる、南下政策ですね。そして、上記販路を確保するためにロシアは不凍港の確保を望むようになるのです。


※ロシアのような極寒の地では、港が凍ります。だからこそ、ロシアは更なる南下を求めて、穀物の輸出能力を高めようとしたのです。


しかし、それに対してイギリスはとても警戒するようになります。何故なら、ロシアのこの動向は、イギリスとインドの陸上連絡路を遮る可能性があったからです。


そして、イギリスは、19世紀からロシアの一連の動向を東方問題とよび、ロシアと対立を深めていくのです。


そこで、次回はこの東方問題について詳しく解説したいと考えています。


以上




評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ