ヨーロッパの憲兵
ニコライ一世が即位すると、ロシアは各国に進出していきます。はじめに進出したのが、イラン方面です。
イランでは、18世紀末に建国者アーガー=ムハンマドのもとでカージャール朝が建国されます。
しかし、この新しく建国されたイランの王朝にロシアは牙を剥きました。
1826年に、ロシアはカージャール朝イランに戦争をしかけます。これが、ロシアイラン戦争です。この戦争は、ロシアの勝利で終わりました。
この時、ロシアは不平等条約であるトルコマンチャーイ条約をイランと結びました。
この条約によって、ロシアは治外法権を獲得し、アルメニア地方の大半を獲得するようになります。
更に、前項でお話ししましたが、ロシアはポーランドを分割して支配していました。
そのことに不満を抱いたポーランドの民衆が、反乱を起こします。
しかし、この反乱をロシアは瞬く間に鎮圧してしまいます。
更に、ハンガリー共和国も壊滅させます。
このような降るまいから、ロシアは「ヨーロッパの憲兵」と呼ばれるようになるのです。
しかし、ロシアの進撃はこれだけにとどまりません。
ロシアは、穀物の輸出販路獲得のためバルカン半島、黒海、地中海方面の進出を計画します。
いわゆる、南下政策ですね。そして、上記販路を確保するためにロシアは不凍港の確保を望むようになるのです。
※ロシアのような極寒の地では、港が凍ります。だからこそ、ロシアは更なる南下を求めて、穀物の輸出能力を高めようとしたのです。
しかし、それに対してイギリスはとても警戒するようになります。何故なら、ロシアのこの動向は、イギリスとインドの陸上連絡路を遮る可能性があったからです。
そして、イギリスは、19世紀からロシアの一連の動向を東方問題とよび、ロシアと対立を深めていくのです。
そこで、次回はこの東方問題について詳しく解説したいと考えています。
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