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閃! ―侍少女学園譚―  作者: 天津石
8/14

決断


 薄暗く月明かりが照らした雲海を、漆黒の槍が切り裂いてゆく。否、それは槍などではなく、先鋭的なフォルムのビジネスジェットだった。3基のエンジンから噴き出す透き通った蒼炎は空に溶け、機体を超音速で撃ち出していた。

 夜明けには目的地の列島に到着する。シルクハットを手に抱えた乗客は、微かな笑みを浮かべながら窓の外を眺めていた。



 車窓からの眺めは、絶景ともいえるそれだった。鎌倉を出て逗子(ずし)を抜けると、眼前には広大な軍港が広がっていた。巨大な艦船が出入りする横須賀港の海は深く、春の淡い空と見事なコントラストを成していた。コンクリートの桟橋のそばで錨を下ろし悠々と佇まう鈍色の艦影たちを見て、まるで子供のように車窓に張り付きながら目を輝かせているのは佐々木閃だけではなかった。

「すっげえ……」

 坂上吾妻(さかがみあづま)は無垢な少年のような眼差しで窓に手を付き、碇泊(ていはく)した艦船たちをきょろきょろと見渡している。

「あはは、やっぱり横須賀と言ったらあれだからね、珍しいでしょ、軍艦」

「すごいです!私、あんなに大きい船、初めて見ました!」

 にっこりと笑う芽衣(めい)に、目を輝かせながら答える(さき)吾妻(あづま)はというと、まだ外の景色に釘付けになっている。

「もうこんなに喜んでくれるなんて、嬉しいよ。二人を誘って良かった!」

 芽衣はまた、弾けるように笑った。こんなにずっと笑っていられる人は、そうそう居ないだろう。その溢れる笑みを受け取るだけで、閃はなんだか嬉しい気持ちになった。

 遠のく艦影を名残惜しそうに見つめる吾妻を気にも留めず、漆黒の列車は横須賀駅を通過して港から遠ざかってゆく。

 やがて海も殆ど見えなくなり、視界に緑が増えてきた頃、東郷家専用列車「なみはや号」は漆黒の車体をホームに滑り込ませ、なめらかに停車した。「衣笠駅(きぬがさえき)」。この駅こそが、列車の最終目的地だった。

「到着だよ!二人ともお疲れ様。次発列車到着までは時間があるから、ゆっくり準備してね!」

 あっという間のような、長い旅路だったような、充実した時間だった。閃たちがホームに降り立つと、はらりはらりと桜の花びらが気ままに眼前を舞い踊った。


「わあああ、すっごい――」

 衣笠駅の駅舎を出ると、どこか懐かしさを感じさせる商店街が広がっていた。大きな雑貨屋からドラッグストア、肉屋に八百屋、魚屋、服の仕立て屋、喫茶店や立ち呑み屋まで。商店街は少し年季を感じさせるものの、依然として活気に満ち溢れているようだった。

「あら、東郷(とうごう)さんちの――」

「芽衣ねーちゃんだ!」

「ほんとだ!芽衣ねーちゃんだ!」

 店先の植木に水を遣っていた花屋の店主が芽衣に気づき、ハッとしたように声を上げると、それに呼応するように商店街を歩いていた子供たちも芽衣に近寄ってきた。

「おうい、芽衣ちゃんが帰ってきたぞー」

 肉屋のおやじがかすれた声で叫ぶ。

「芽衣ねーちゃん!遊ぼ遊ぼ!」

「うん、後でみんなで遊ぼうね!」

 近寄ってきた子供たちは芽衣から金平糖の小袋をもらうと、にっこりと笑って走り去ってゆく。

「おばちゃん!ただいま!また荷運び手伝いに行くね!」

「芽衣ちゃん、おかえりなさい。お友達もようこそ!」

「こんにちは!はじめまして!明るくていい街ですね!」

「へ、はは、ども――」

 今度は芽衣が食堂の女将に挨拶をした。声をかけられて元気に返す閃と、挙動不審にどもる吾妻。女将はにんまりとした顔で頷くと、仕入れのためか、店の奥へと入っていった。

「芽衣ちゃん、これ食べていきな!今朝採れたイチゴだよ」

「ありがとうおじいちゃん!――うん!やっぱりおじいちゃんのところのイチゴは美味しいよ!」

 次に芽衣へ呼びかけたのは八百屋に寄っていた爺さんだ。店に納める予定のイチゴを軽トラの荷台から1パック取り出すと、芽衣に譲り渡した。「美味しいよ、ほら」と芽衣はイチゴを閃と吾妻にも突き出す。「良いんですか?」と閃が爺さんに視線をやると、爺さんは柔らかい笑顔で頷いた。

「……美味しい!」

 しゃくりとした食感と爽やかな甘み、そしてすっきりと抜ける酸味に、二人は頬を緩ませた。

「芽衣ちゃん!これ、お家へのお土産。今回はとびきり旨く漬かったから、ご家族で食べて」

 八百屋の兄ちゃんが、店の奥からまだ店頭に並べていない漬物を瓶に詰めて持ってきた。芽衣はにっこりと笑ってお礼を言うと、八百屋の兄ちゃんも威勢よく「また帰りに寄ってくれよ!」と手を降った。

 店を去りながら振り向いて八百屋に手を振る芽衣。しばらくすると、前から歩いてきたガタイの良い男性が流暢な日本語で話しかけてきた。

「Hey!ミズトーゴー、お嬢さんと会うのは久しぶりだな」

「アレックス!久しぶり!提督は元気?後で挨拶に行くから!」

「……彼氏か?」

 明るい金髪を坊主頭に丸めたその男性を見て、吾妻はひっそりと芽衣に聞いた。

「HAHAHA、残念ながら俺じゃ彼女に釣り合わないのさ!」

「それに、アレックスにはもう奥さんが居て、子供も居るんだよ!すっごく可愛いの!」

 アレックスと呼ばれた男性は彫りの深い顔で豪快に笑い返し、芽衣もなぜか自慢気に補足した。

 まるで街の人全員が芽衣の家族のよう。暖かい街だ。閃は、改めて強くそう感じた。

「すごい……東郷先輩って、街の人気者なんですね!」

「えへへ!私もね、この街のみんなが大好きなんだ!」

 芽衣は自分が好かれていることを認識した上で謙遜も否定もしない。ただ屈託のない笑顔を振り撒き、自らを架け橋にして人と人をつなげる。彼女が鎌倉学府風紀団の副団長として人望を集めていることに、閃は再び納得した。

 商店街を出ると、横須賀らしい山道が整備された道路となって現れた。決して険しくはないが、話をしながら歩けば自然と息が弾む。そんな坂道だった。

 彼女の家はどこだろう。相当なお金持ちだろうから、きっと大きなお屋敷で、目立つ場所に大きく門を構えているに違いない。閃はそんな風に考えながら、吾妻を交え、芽衣との会話を楽しんだ。

「着いたよ!」

「ココ……ですか?」

「ただの交差点じゃねえか」

 芽衣が立ち止まったのは、何の変哲もない交差点だった。

「ここからがうちの敷地だからね」

 そう言って芽衣は、十字路の一方を指差した。確かにそちらに車通りは無く、進入禁止の標識が立てられている。まさか敷地の入口が道だとは思わなかった二人は驚きを隠せなかった。

 それにしてもかなり急な坂だ。これを上るとなると、さすがに少しくたびれそうだ。

 そんなことを吾妻が考えていると、軽快な排気音が耳についた。

「さあ乗って!」

 軍用四駆の運転席から東郷芽衣(とうごう めい)が顔を出した。

「東郷先輩!?」

「これで坂を上るの!ちょっと揺れるけど、我慢してね!」

 芽衣は何も不思議がらずに笑ってみせた。たしかに、私有地を走行するときは運転免許が要らない、なんて話を聞いたこともある。驚かされっぱなしの閃と吾妻は、ひたすらに感心して車に乗り込んだ。

 坂道を登ること数分。ハンドルを握ったまま「あのね」と、芽衣は二人に呼びかけた。

「今日は、二人に会ってもらいたい人が居るんだ!」

「会ってもらいたい人、ですか?」

 閃と吾妻は思わず顔を見合わせた。いったい誰なんだろう、どんな人なのだろう。考える間もなく視界は開け、二人は思わず身を乗り出した。

 目の前に現れたのは、広大な庭園だった。高らかに咲く噴水と、美しい煉瓦敷きのアプローチ。道沿いに整えられた様々な低木が、来客をもてなし続けた。その先に待ち受けていたのは和洋折衷(わようせっちゅう)が見事に洗練された洋館だ。巨大なそれは美しくも機能美を追求しており、堅牢な城塞のようにも見えた。

 白く輝く石畳を滑り、車が寄せられる。見上げるほど大きな扉が重厚な音とともに開かれると、そこには大陸国家の宮殿を思わせるような見事なエントランスが目に飛び込んできた。

 頭上で浮遊する巨大なシャンデリア、左右へ伸びる中央階段と鮮やかな赤絨毯(じゅうたん)、触ることすら気が引ける木製の手すりに、高貴で、それでいていやらしさを感じないほんの僅かな金の装飾。ここが人の家であるとは到底思えないようなインパクトに、閃と吾妻はもう何度目かも分からぬ度肝を抜かしていた。

 芽衣に案内されるがままに東郷邸の中を進む閃と吾妻。芽衣はエレベーターの使用を勧めたが、この屋敷の物珍しさに階段を使うと二人は言って聞かなかった。

 最上階の廊下を歩いていると、吾妻は何かに気づいたように声を上げた。

「おい、これって……マジかよ――!」

「どうしたんですか?先輩」

「み、見てみろ。中庭だ」

 吾妻が驚いたのも無理はない。コの字型に建てられた屋敷にすっぽりと収まるように、見事な日本庭園が構築されていた。見事に造られた水の流れと浮島、架けられた橋と美しい植栽。松、藤、躑躅(つつじ)、竹、紅葉。こんなに素晴らしい中庭は、そうそう見ることは出来ないだろう。洋風庭園とともに表から見た東郷邸はたしかに洋館だった。しかしどうだろう。この日本庭園とともに眺めると、武家屋敷のようにも感じられた。

 二人を案内していた芽衣は、突き当りの部屋の前で立ち止まった。先ほど言っていた人物だろうか。芽衣は息を吸い、扉を3回、ゆっくりと叩いた。

「入ります」

 芽衣が扉を開く。アンティーク調に飾り付けられたその部屋には、柔らかい陽光が差し込んでいた。心地良い音とともに、古時計の振り子がゆらゆらと揺れている。

「君が坂上吾妻(さかがみあづま)くん、そして君が、佐々木閃(ささきさき)くんだね」

 太く暖かみのある声とともに、窓の外を眺めていた初老の男性が振り向いた。

 勇ましい顔立ちと整えられた髭、19世紀の英国を思わせるような気品のある佇まい。

「私は東郷字研(とうごうじげん)。鎌倉学府鎌倉第一高校の顧問だ。娘が世話になっているね」

「東郷、娘って……」

「――東郷先輩のお父様ですか!?」

 閃と吾妻はまた顔を見合わせた。

「驚かせてしまってすまない。娘から、君たちがこちらに来ると聞いて、急いで飛んできたのだよ」

「あの、知っているんすか。あたし達のこと――」

「もちろん、君に頼みがあったから呼んだのだからね、坂上吾妻くん」

「あ、あたし!?――っすか」

「そうだ、君だ」

 面食らった吾妻に、東郷字研は喉の奥を鳴らして息を整える。

「単刀直入に言おう。君には、『三校戦(さんこうせん)』に出場し、優勝してほしい」

「三校戦?」

「そっか、閃ちゃんはまだ入学したばかりだから知らないよね」

 思わず首を傾げた閃に、芽衣が補足する。

「『三校戦』は、鎌倉学府に有る3つの高校の代表者同士で試合をして、各校の優劣をつける大会だよ。まあ、学校合同で行う運動会みたいな物って考えてもらえば大丈夫!」

「あの、三校戦に出場――それに優勝って突然、どういうことっすか」

 吾妻は重たくなった唇を恐る恐る開く。こぼれ出たのは、当然の疑問だった。東郷字研は、想定内だといった顔で、静かに切り出した。

「失礼だが、坂上吾妻くん。君は、現在の出欠状況で高校卒業が見込めると思うかね」 

「それは――」

「もちろん、可能性はじゅうぶんにある。学年通期で成績を上位1割に留め続け、勤怠免除の措置を受けるなどすればね。だが、1ヶ月後に控えた前期中間試験、それ以降も2ヶ月周期で訪れる定期考査と増え続ける科目数。この綱渡りがあまりにも無謀であるということは、君自身も理解しているはずだ」

「……」

 吾妻は返す言葉もなく、ただ口を(つぐ)む。

「すまない、少し言い方が悪かったようだ。だが、君にとっても悪い話ではない」

 字研(じげん)は目を細め、

「君が得意なものを使って、卒業資格を勝ち取るという選択肢がある」

 吾妻の眉が、ぴくりと動いた。

「三校戦に参加・優勝し、『鎌倉学府大学』からの入学招待を取ることだ」

「入学招待……?」

 閃はまた首を傾げた。

「鎌倉学府にある唯一の大学『鎌倉学府大学』には、入学招待制度というものがある。付属高校で優秀な生徒に対し、大学側が席を用意して入学を募る制度だ。三校戦で好成績を収めれば、その制度を活用できよう」

 字研は芽衣とよく似た、にっとした爽やかな笑みを浮かべた。

「なぜそうまでして『三校戦』への出場を勧めるのか、といった顔をしているね」

 吾妻の考えがお見通しだったのか顔に出ていたのか、図星だった吾妻は息を吸い、顔をこわばらせた。

「まず『三校戦』の歴史を簡単に説明しよう。『三校戦』には、3つの種目がある。ひとつは個人戦。最もシンプルな様式で、1対1の試合を勝ち進んだ者が優勝だ。そして団体戦、いわゆる勝ち抜きチーム戦だ。5人の選手を先鋒から大将まで序列を付け、順に試合をするというもの。負けたり引き分けたりすれば選手を次の序列のものに交替し、先に大将を討たれたチームの負けだ。つまり芽衣――私の娘が出場すれば優勝は確実だ。私の娘が負けることなどありえないからね」

「ちょっ――お父さん!」

 芽衣は頬を染めて叫んだ。字研はその様子を満足気に見ては、一呼吸置いて続ける。

「そして最後の種目、これが『ツーマンセル』だ。その名の通り、ペアを組んだ2人が同時に試合場に立ち、2対2の試合を行う。どちらかのチームが2名とも有効打を入れられた時点で決着となる。競技性が高いとして第二高校が提案したルールでね。新設されてから9年、第二高校が首位に立ち続けている。我が第一高校は『ツーマンセル部門』において未だに二番手なのだよ」

「東郷先輩でも、『ツーマンセル』では勝てない、ということですか?」

「いや、そうではない。もともと『三校戦』の種目には、同時に2種目までしか参加出来ないという制約がある。2種目しかなかった頃は問題なかったのだが、今となっては痛い成約だ。規約を変えることも考えたが、それでは第二高校(むこう)の面子が立たないだろう」

 そう、芽衣は『ツーマンセル部門』に出ないのではない。「出られない」のだ。確かに、風紀団副団長としての実力に加えてあの怪力、加えて熟練した体術の心得を持った芽衣ならば、一騎打ちはもちろんのこと、5人抜きだって不可能ではない。そのため、『ツーマンセル』以外の部門でも優勝を狙ってくる第二高校を釘付けにするために、芽衣を外すことは出来ないのだ。

「つまり、『実力・実績トップ』の第一高校が負けている、というのが気に食わないってことっすか」

 吾妻は字研を半ば睨みつけながら、攻撃的な口調で付け上がった。字研の眉が釣り上がる。一瞬、凍気のような感覚が閃の背筋に走った。

 字研がゆっくりと息を吸う。それを見た吾妻は、体勢を崩さないまでも、わずかに怯んだ。

「はっはっはっはっは!!全くもってその通りだ!無論、これは私個人の意思だけでなく、顧問会、ひいては第一高校生徒会の意思でもあるがね」

 字研は豪快に笑うと、先程までの仏頂面を崩して話しだす。

「いやあ、娘の前だからな、威厳を保とうと思ったのだが、これは無理な話だ。坂上吾妻くん、君は最高の人材だ!第一高校の思惑、『初の三冠』そして『第二高校の10連覇阻止』、是非とも果たしてほしい!参加に必要な資格となる成績に関しては顧問会からの『助言』で何とかしよう。だが勿論、試合は全てフェアプレーだ。そこに関しては、君次第だがね」

「ちょっ、あたしはやるなんてまだ――」

「いや、君なら出来る!考えても見るんだ。君のその大太刀を満足に振るえる相手が『三校戦』には山ほどいる。高校最後の夏、腕試しをするには絶好の機会だと思わないかね」

「で、でも、『ツーマンセル』ってことは、二人、もうひとり要るんじゃないっすか?」

「はっはっは!パートナー、居るじゃないか!君のすぐ隣に」

 字研は吾妻の隣に視線をやった。小さな少女の黒髪が、ぴょこっと跳ねた。

「わ、私、ですか!?」

 閃は大きく目を見開き、胸の前で手をブンブン振り回しながら慌てふためいた。

「そうだ、佐々木閃君、聞くところによると、君は入学試験において筆記・実技ともに優秀な成績を収め、特待生として入学し、入学式では答辞も述べたそうではないか!実に関心だ!」

「い、いやいや!偶々ですってば!私、剣術なんて全然……」

「ほう」

 しゅんと斜め下に視線を逸らす閃に、字研は何かを感じ取ったようだった。確かに佐々木閃は鎌倉第一高校入学試験において筆記試験で優秀な成績、剣術実技においても高い評価を獲得している。しかし、その試験の様子を現場で見ていた時とは閃の雰囲気が少し変わっているような気もする。やはり何かの間違いだったのであろうか。と、字研が目を細める。その時、

「――も、でも……!」

 閃は顔を上げた。

「私は坂上先輩に助けていただきました。入学式の日、どうしたら良いか分からない私に、坂上先輩は、見返りも求めずに私を助けてくれました」

「……」

 吾妻は少し感心したように閃を見つめた。小さな少女が、こんなに一生懸命な眼差しで何かを吐き出そうとするその姿に、吾妻の中の何かが、確かに揺れ動いた。

「だから今度は、私が先輩を助けます!」

「お前……」

 吾妻は閃の眼差しを、決して無下にはしなかった。

「閃ちゃん……」

 閃の必死な訴えかけに、芽衣は思わずため息を漏らした。字研からも、思わずふっとした笑みがこぼれた。

「いい心がけだ。芽衣、教鞭(きょうべん)を執りなさい。二人に稽古をつけさせて貰うんだ。お前も彼女たちから学ぶことは少なくないだろう」

「はい、お父さん!」

「坂上吾妻くん、本当に出場するかい?」

「――はい。結局、自分のためでもあるし、こいつの気合にも応えたい。中途半端は、一番嫌いっすから」

「はっはっはっは!君は本当に愉快だ!二人とも、今日はうちに泊まっていきなさい。要人待遇でもてなすとしよう!芽衣、あとは任せる」

 字研は手元の内線電話を取ると、使用人らしき者にぼそぼそと何かを伝え、がちゃりと受話器を戻した。

「はい。お父さん、今日もお仕事?」

「ああ、今夜ロンドンで商談があるからな」

「ロ、ロンドンですか!?」

「ふふ、閃ちゃん、びっくりしてるね、うちのお父さんはいっつもこんな感じなんだ」

 鎌倉第一高校、顧問、東郷字研。彼は閃と吾妻、二人に思いを託し、室内に設けられた階段をのぼっていった。

「二人には特別!いいもの見せてあげる!」

 芽衣はまた、何か企むようににやりと笑って二人を手招きすると、字研の後を追うように階上に消えた。

 屋上のヘリポートには、巨大な回転翼を左右の主翼端に掲げた漆黒の機体がエンジンを始動させながら待機していた。東郷家専用機の一つだ。空気が切り裂かれ、轟音と風切り音が混ぜ合わせられる。

「二人とも、今日は会えて良かった!くつろいでいってくれたまえ!」

「はい、ありがとうございました!」

 閃は字研に対し、ぺこりと大きくお辞儀をした。吾妻も照れくさそうに軽く会釈をする。

「厚木へ!」

 字研は機内に乗り込むと操縦手に行き先を告げ、閃たちに向けてまた紳士らしく一礼し、奥へと進んでいった。

 まもなく扉は閉じられ、2つの回転翼を力強く回したその機体は、ゆらりと空中に浮かび上がっていったかと思うと、回転翼を前傾させ、瞬く間に飛び去っていった。

 風切り音はやがて遠のき、再び静寂が訪れる。芽衣といい字研といい、東郷家の人間はつくづく嵐のようだ、と閃は胸中で呟いた。


 東郷家要人待遇は、筆舌に尽くし難いもてなしだった。昼食は学生でも楽しめるように献立を組み立てた和食懐石。午後は高級車で送迎され、軍港をクルージング。特別に案内してもらった航空母艦から軍用ヘリコプターで飛び立ち、東京湾を一望。ディナーではジャズを聞きながら各国の名料理をバイキング。温泉にサウナ、ジャグジーにマッサージ。夜景を楽しみながら、フルーツジュースとジェラート。東郷家の使用人には個別の寝室を案内されたが、芽衣の提案で大部屋を3人で使うことにした。

「ほへー、最高でした……」

「ああ、アタシ、もう死んでも良いかもしれねえ……」

 ラタンの椅子に沈み、最高級のウイスキーボンボンを舐めながら、閃と吾妻は中庭を臨むベランダでとろけていた。

「ちょっとちょっと二人とも!大げさだって!」

「でもすごかったです!こんな体験ができるなんて!ね、先輩!」

「ぁー……」

 吾妻はまだとろけていた。

「嬉しいな、こんなに喜んでもらえたんだもん」

 芽衣は、中庭を眺めながら何故かしんみりと呟いた。

「自分で言うのもなんだけどさ、あたしね、ほら、お金持ちでしょ。だから、みんなと感覚が違ったりしてるのは分かってるの。でもね、いやらしく思われないために、周りの人より役に立とう、役に立とう、って。ずっとやってきた」

「東郷先輩……」

 閃は芽衣を見つめ直した。

「だから、街のみんなとも仲良く出来てるし、それなりに頑張れてるっていう自信もある。だから、もっともっと働いて、役に立って、みんなに幸せなって貰いたい」

「……」

 吾妻も黙って芽衣の話に耳を傾ける。

「実はね、初めてなんだ、鎌倉学府の子を家に招くの。緊張したんだから!」

 にかっと、芽衣は笑った。閃はそれを聞いて、なんだか今すぐ走り出してしまいたいような心の高揚を感じ、立ち上がって思わず口を開いた。

「私も嬉しいです!お招きいただき、本当にあいがとうごりゃいます!」

「……閃ちゃん?」

 芽衣は不思議そうに閃を見つめた。呼吸が速く、顔も紅潮している。閃はそれを気にすることもなく、ふらふらと後ずさっては足をもつれさせ、

「いてっ!」

 ぽふりと吾妻の膝元に倒れ込んだ。にやけ顔のまま、すうすうと寝息を立てる閃。

「酔っ払っちゃったんだね」

 芽衣は想像以上に消費されたウイスキーボンボンの小袋を見て、あはは、と笑った。

「ったく、調子乗って何個も食うからだよ」

「えへへ……」

 閃は寝言のように笑みを零した。

「遅くなってきたし、私達も寝よっか」

 芽衣は笑った。吾妻は面倒くさそうに、それでいて照れくさそうに閃を担ぐと、ベッドに横たわらせた。

 大きなクイーンベッドに、みんなで寝る。人の家に泊まりに行くのなんて、いつ以来だろうか。三人で川の字になって寝るのがなんだかおかしくなってしまい、吾妻はこっそりと吹き出した。

「ん?何か言った?」

 まだ寝付いていなかった芽衣が、閃の向こう側から問いかけた。

「うっせ」

 吾妻は顔を真赤にしながら、布団を頭まで被った。


 夜が更ける。沈み込んだ身体をしっかりと包み込むベッドの感触は、三人を心地よい夢の世界へと誘っていった。


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