二人
大通りに面した新しい木造アパートを前に、一人の少女が立ち止まった。
軽やかな電子音が奏でられたかと思えば、かちゃりという音とともに玄関の施錠が解除された。
「ただいまー……」
佐々木閃は何気なく呟いてみる。もちろん、そこに返ってくる声は無かった。4月の夕暮れがもたらすひんやりとした静寂は、少女の背筋を静かな不安でなぞった。
そうだ、私は4月からこの鎌倉で一人暮らしなのだ、と自分に言い聞かせて照明スイッチをぱちりと切り替えると、暖色の照明が優しく部屋を彩った。
腰に帯びた刀を紐解き、玄関の台座に置いた閃は、制服を脱がずにベッドへぽふりと飛び込んだ。
そのままごろごろと転がりながらスマートフォンを取り出し、撮った写真を眺め始めた。
そこに写るのは、街を彩る桜や、鎌倉湘南の蒼い海、そして楽しげに笑う黒髪の自分と、決して正面を向いていない金髪の少女だ。写真を取られることを極度に嫌い、見切れたり、ぶれたり、手で隠されながらもその中に微かな含羞が感じられるだけで、閃は思わず頬を緩ませた。
明日から授業も始まる。帯刀してから、はじめての授業だ。基本的な科目は他所と変わらないとはいえ、時間割に「剣術」とあるだけで閃は特別な気分になれた。今日一日でこれだけ楽しかったのだ。これから毎日が新しいことばかりで、楽しいことも沢山あるだろう。そう思うと、少女の頬の緩みは戻る気がしなかった。
直後、バックライトが点いたままのスマートフォンは音もなく少女の手を滑り落ちる。それには、全体がぶれながらも笑う閃自身と、頬を紅潮させながらそっぽを向く坂上吾妻の姿があった。
その持ち主は頬を緩ませたまま、ベッドの上ですうすうと寝息を立てている。
春の鎌倉を、静かな闇が飲み込んだ。
大通りから一本曲がり、さらに進んだ後にまた一本曲がる。年季が感じられる白いアパートが見えてきた。がちゃり、と鍵を開け、暗い室内に白色の蛍光灯が無機質に点灯した。1LDKの部屋にインテリアはほとんど無く、壁一面に自作のラックと、何振りもの刀が飾られているのみだ。しかしそれらの全ては埃を被ること無く、入念に掃除されている。背負っていた大太刀を、ラックの隙間に大きく横たえた。
テレビの前に置かれたちゃぶ台にコンビニで買ったパスタを袋ごと置くと、キッチンから裏返ったコップを持ち出し、冷蔵庫からボトルを取り出す。麦茶を一杯注いですぐに飲み干すと、もう一杯注いでちゃぶ台へ赴いた。
パスタを食べ終え、麦茶をちびちびと口に運んでいると、滅多に使わないスマートフォンの通知ランプが点滅しているのが分かる。
【佐々木閃 が写真を送信しました】
【未読のメッセージ 他 17件 】
ああ、こいつか、と通知欄をタップする。連投された写真と、長めのメッセージが1件。どの写真も、お世辞にも上手く撮れているとは言えない。そのほとんどは、ぶれながらも満面の笑みで枠内に収まろうとする少女と、自分の手だった。
舌打ちとともに息を吸うと、自然とため息が漏れた。しかしなんだか頭がこそばゆくなって、意味もなく頭を掻きむしる。
いつも通りシャワーを浴びて、下着を穿き、Tシャツを着て、明かりを消し、タオルケットにくるまった。
「ええーーっ!!!それってホント!?」
授業終わりの昼休み。少女の黄色い声が、教室中に響き渡った。教室の中心付近の机を、十数人の女子が取り囲んでいた。今日は土曜の半日授業ということもあり、休日を待ちわびた少女たちは心なしかいつもより活発だった。
「ホントだってば、話を――」
話題の中心となっている席に座って半ば困惑しているのは、しなやかな黒髪をポニーテールに結った小柄な少女、佐々木閃だ。
「それでそれで、どうなったの!?」
「やっぱり、二人で登校したの!?」
机に両手を付き、身を乗り出す少女の尋問に、横で机に肘と顎を乗せた少女が質問を被せてくる。
「人混みの中、手を引いてくれたんだって!」
「キャーー!やばーい!!」
今度は別の生徒が振り返って後方に情報を伝達すると、瞬く間にその反響は連鎖した。
「いいなあ~。閃、新入生代表でしょ。絶対覚えてもらえてるじゃん」
隣の席の少女も、羨ましそうに呟いた。
「ねー」
「その後は?その後は?」
「あの、えっと――」
閃は戸惑いを隠しきれない。言えない。今更、その不良の先輩が女子だということを。
「二人っきりでランチに連れて行ってくれたんだって!」
「やだーー!素敵ー!」
閃はこの年頃の少女たちの想像力が凄まじいことをよく識っている。あるひとつの事象が、一筆も二筆も加えられ、二倍にも三倍にもなって膨れ上がり、全く新しい一つの物語を作り上げてしまうのだから。
佐々木閃、高校一年生。他校の暴漢に襲われていたところをイケメンの不良に助けられ、その先輩を虜にした優等生の少女。
閃は友達との会話を楽しみつつも、虚軸へと膨張し続ける事態の収束を願い、瞳を潤ませるのであった。
がやがやとした雑踏の中に、坂上吾妻は一人座っていた。窓からは光が差し込み、無用な眩しささえ感じられる。腹は減っているというのに、スプーンの先のカレーライスはなかなか口に運ばれない。無論それは、彼女が求める辛さに達していないためでもあるが、否応無く耳に入りこんでくる雑音が、いつも以上に気に障っていたことだ。どうして今日はこんなに苛立ちを覚えるのか。確かに今日という日は最悪だ。久しぶりに一週間まるまる出席し、授業中も教室内に留まった。しかし今度は担任から用があると職員室に呼び出され、それまでの時間つぶしも特にやることがないため、滅多に行かない学食で昼食を購入したという経緯だ。
吾妻は一口、スプーンを口に運ぶと、再びため息をついた。原因不明の苛立ち。その正体が孤独であるということに、吾妻は気付きたくなかった。
吾妻の脳裏に一人の少女が浮かび上がる。かつて無いほど自分に懐き、後輩とは思えないほど生意気な口を利き、初対面とは思えないほど親身に自分のことを考え、営業ではないかと疑うほど楽しそうに笑う。何日も前のことなのに、まるで昨日のことのように感じられる。もしも彼女が、自分の隣りに座っていたとしたら、どんな表情をするだろうか。きっとこの、カウンター席の丸椅子の上にちょこんと正座し、
「先輩が食べてるカレー、本当に真っ赤ですね!辛くないんですか?」
「どおわっ!?」
食堂のカウンター席に座っていた金髪の女が突然、奇声を発してひっくり返った。このことが校内新聞のオカルトコーナーに投稿されるのは、少し先のことである。
「先輩!?大丈夫ですか!?」
閃は慌てて声を掛ける。
「大丈夫ですかじゃねえよ!ちくしょう、痛ってえ――」
閃は丸椅子にちょこんと正座したまま、不思議そうに首を傾げた。