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閃! ―侍少女学園譚―  作者: 天津石
4/14

挑戦



「ああくそ、何だってんだ」

 ベリーショートの金髪を気恥ずかしそうに掻きむしりながら、坂上吾妻(さかがみあづま)はひとり正門近くの塀に寄りかかっていた。彼女は人を待っているのである。無論、普段なら一緒に下校する友達などいないため、一刻も早く学校という場所を抜け出したかった。だが今日は違うのである。

『絶対に待っててくださいね!私、先輩に聞きたいこと、沢山あるんです。絶対ですよ!』

 登校中にたまたま助けた後輩に異様なほど懐かれ、果てには半ば強引にこの街の案内を約束させられてしまったのだ。当然、吾妻にそれを守る義理は無い。しかし不良にしては妙な正義感だけは持ち合わせている坂上吾妻という女は、約束をすっぽかすなどという湿っぽい行為をなんとしてでも働きたくなかった。そもそもアイツはおかしいのだ。朝から他校の不良に絡まれ、それをたまたま通りがかりの不良に助けられ、人混みでは溺れ、刀も一振しか差していない。それでいてどんなどんくさいやつかと思えば、あの強面の校長の前でしれっと新入生代表の答辞を堂々と言ってのけた。朝の電車で話した程度では、彼女が一体何者であるのかは、到底掴めたものではなかった。

 はあ、と一人ため息を漏らす吾妻。どうすっかな、と独り言ちていた矢先に、それは現れた。

「あっ、せんぱーい!」

 佐々木閃(ささきさき)。今朝吾妻が助けたこの学校の一年だ。黒いしなやかなポニーテールをあっちこっちに揺らしながらスカートのような行灯袴をぱたぱたとはためかせてこちらへ駆けてくる。

「せんぱ――むぐっ!?」

 抱きつかんばかりの勢いで突っ込んできた閃の顔面を、吾妻は左手一本で押さえつけた。

 吾妻の長い手に阻まれた閃の小さな四肢はバタバタともがきながらも、それが吾妻の体に届くことはなかった。

「んぐぅ……ヒドイです、先輩」

「お前が突っ込んでくるからだろ!正当防衛だ」

「だって先輩に街を案内してもらうの、とても楽しみだったんですもん」

 閃は頬を膨らませながら吾妻を見上げた。

「だとしても距離感ってものがあんだろ、そもそもなんで知り合って半日も経っていないやつに抱きつけるんだよ」

 吾妻は少し恥ずかしそうにそっぽを向くと、本当に不思議そうな様子でぶっきらぼうに問いかけた。

 それに対し、

「すきんしっぷです!」

 ぴゃー、と両手を広げて突進してくる閃を吾妻は当然のように躱し、

「何がスキンシップだコラ!」

 と思わずツッコミを入れた。しかしツッコミを入れたはいいものの、自分が朝から閃のペースに乗せられっぱなしであることに気づき、吾妻は無駄に悔しくなった。

 そんなやり取りをしながら閃を連れて歩きはじめた吾妻は、いつの間にか不穏な視線を集めていることに気づく。

「おいみろよアレ」

「誰?」

「知らねえのかよ、三年の坂上さんだ。目つけられたら終わりだぞ」

「バカお前、声でかいって!」

 三人組の男子生徒が二人を見ながらささやいた。それに対し吾妻は不機嫌そうに彼らを睨みつけた。

「すっ、すいません……」

 怖気づき、道の端で畏まった男子生徒を一瞥した吾妻は、わざとらしく鞄を担ぎ直して足早に彼らを追い抜いてゆく。

 閃は慌てて吾妻を追いかけた。

「ついてくんな」

「イヤです!ついていきます!」

 早足で歩く吾妻を小走りで追いかける閃。

「さっきの見てわかっただろ。お前はこっちに来なくて良いんだ」

「なんですか“こっち”って!約束したじゃないですか!」

「お前が約束守れって言うならあたしはそれを守る、でもそれでお前の学生生活が台無しになるかもしれないんだぞ。そんなことの責任をあたしは取る気ない」

「じゃあ簡単です!先輩は約束を守ってください!」

 強く言い返した閃に、振り向いた吾妻は我慢しきれなかったように閃の方へ思い切り振り向いた。

「突然斬りかかられるかもしれないんだぞ、今朝みたいに!話が通じねえやつもいる、剣でしか話そうとしないやつもいる。お前にその刀を抜く覚悟があんのかよ」

「それは……」

 閃はうつむきながら、腰の刀の鞘をそっと握った。そして、今朝の出来事を思い出す。あの時吾妻が来なかったら、一体どうなっていたことだろう。閃は思わず肩を少し震わせた。

 それを見た吾妻は、少しきまりが悪そうに舌打ちしながら頭を掻いた。

「今日だけだ」

「え?」

「早くしろ、置いてくぞ」

 きょとんとした閃に対し、顎先で「来い」と合図をした吾妻は、閃に構うことなく歩き始めた。

 閃は慌ててリュックを背負い直し、小走りで吾妻の後に続く。眉に元気をなくした閃の口元が、微かに緩んだ。

 




「あのう……どこまで行くんですか、先輩」

「決まってんだろ、メシだ」

「でももう随分歩きましたよ?美味しそうなお蕎麦屋さんを何件も通り過ぎました」

「もうじき着くから我慢しろ、嫌なら帰っていいぞ」

「帰るのは嫌です!」

「じゃあ耐えろ」

「む~」

 閃が頬を膨らませながら吾妻のあとをついていると、目尻と鼻の奥を槍で刺し貫かれるようなびりびりとした空気が漂ってきた。

「着いたぞ」

「え、ココ……ですか?」

【四川酸辣麺 高木 限界の辛さと旨さを求めて】店の大きさの割にでかでかと掲げられた真っ赤な看板には黄色と黒の文字でそう書かれていた。

 ――間違いない。この刺激臭の正体はこのラーメン屋だ。そしてあろうことか閃の前で立ち止まった坂上吾妻という女は間違いなくこの店で腹を満たそとしている。

「嫌なら帰れよ、あたしはここで食う」

「だ、誰が嫌なもんですか!私も入ります!」

 閃は怖気づきながらも、意を決して重めの扉を自力で開ける。店に入った途端、さっきまで道路に漂っていた気体の何十倍もあろうかと思われる刺激の壁が迫ってくる。閃は入店して最初の呼吸で目元に涙を滲ませた。しかし外で嗅いだ匂いと明らかに違うのは、いかにも辛そうな刺激臭の中に確かな美味しさを感じさせるような香ばしさがあったことだ。ゆえに閃の疑念はすこし晴れつつあった。しかし店内はというと、お世辞にも綺麗な店とは呼べなかった。十二、三席ほどのカウンター席の後ろには、無理やり設置されたようなテーブルが三席。カウンターの椅子とテーブル席の間にある通路は人一人通るので精一杯なほどだ。

 しかし考えを巡らせば、客の増加に伴って後付したとも考えられる。相当の辛さは覚悟せねばならないだろうが、それなりに人気はありそうだ。

 だが、閃にはまだ疑問が残っていた。客が誰ひとりいないのである。人気の店だというのならば、ましてやラーメン屋ならば満席、あるいは行列ができていてもおかしくない。そういえば店員の姿すら見当たらないというのはどういった状態であるのか。

 ちょっとした論理矛盾に陥りかけた閃に解を与えたのは、奇しくも吾妻だった。

「おっさん、来たぞ」

 吾妻は誰もいないカウンター席へ勝手に腰掛け、ぶっきらぼうに呼びかけた。閃も慌てて隣へ座る。しばらくするとカウンター越しの厨房から店主と思しき、髪を頭髪料でガチガチに固めただるまのような男が屈んでいた腰を伸ばして現れた。

「もう来たのかよ、吾妻。開店まであと二十分はあるぞ」

 そのだるまは、七と八の間に居座る長針を覗き込み、ため息を混じえながらもやけに馴れ馴れしく吾妻に応えた。客がいない。それもそのはず、開店時間にすらなっていなかったのだ。

「別にいいじゃねえか、どうせ今日の分の仕込みはもう終わって、客が来るまで漫画でも読もうとでもしてたんだろ」

「ああそうだよ、貴重な休憩時間を潰しやがって」

「大目に見ろよ、常連が来てるんだ」

「開店前にな」

「でも高いヤツ頼むぜ?」

「作るの面倒なんだよ」

「今空いてるじゃんか」

「開店前だからな」

 吾妻とだるまは、まくしたてるように言い合った。お互い少し口は悪いが、吾妻がよほどこの店を気に入っていることが良く分かった。

「そういやそこのちっこいのは?手下か」

「ああ」

「違います!」

 思わず閃が言い返すと、だるまは厳つい顔を緩ませて笑った。

「まあいいや、今日は新しい客として嬢ちゃんが来てくれたんだ、久々に気分が良い。いつもはこうして時間を稼いで客がまとまって入ってくるのを待つんだがな。先に作ってやるよ、注文は?」

 その瞬間、吾妻の目つきが変わった。今すぐにでも刀を抜きそうな勢いだ。閃はその尋常ならざる殺気を感じ取り、思わず肩をすくませた。

 そして、吾妻はおもむろに唇を動かし、息を吸った。

「特盛トリブタサンラータンタン限界超カラビャンビャン麺、ネギヤサイニンニクアブラマシマシ」

「はいよお!特盛トリブタサンラータンタン限界超カラビャンビャン麺一丁!ネギヤサイニンニクアブラマシマシ了解」

 まるで魑魅魍魎(ちみもうりょう)か何かを祓い清めようとする祈祷師(きとうし)のように早口で呪文を唱えた吾妻。あまりの剣幕にびくっと震え上がった閃は、店主による突然の呼応絶叫に追撃され、刹那の心停止を経験した。

「え、えっと――」

「おおそうだった、お嬢ちゃん、注文はどうするよ。悪いがはじめてのお客さんには二種類しか出せねえんだ。辛くないやつとちょっと辛いやつ。大盛りとハーフは出来るから好きな方を選んでくれ」

「じゃ、じゃあ、辛い方、で。量はふつうでお願いします」

「はいよ、サンラータン一丁」

 だるまはそう言うと厨房奥の棚から何かを取り出しながら応えた。さっきの形相とはまるで違った優しい雰囲気に、閃は密かに胸をなでおろした。が、次の瞬間、閃は衝撃の光景を目の当たりにする。

 すちゃ。

 そして彼は振り返る。

 ……。

 ――グラサンっっ!

 突然のグラサンっっ!

 本人のだるまのような図体と相まって見た目がもう完全にアレだ!

 なんか国境付近で葉巻咥えながら小銃持ってる感じのアレだ!

 ゾンビ映画で終盤まで生き延びるけど最後に主人公とヒロインを逃がすために囮になってそのまま死ぬタイプのアレだ! 

 というかそもそも事務所にダンプとかで突っ込んじゃう感じのアレだ!

 しかしそれがラーメン屋の厨房に立って手際よく麺を茹でている。いくらなんでもミスマッチすぎる。

 笑ってはいけない。

 絶対に笑ってはいけない。

 彼は真剣に仕事をしている。きっと辛味成分から目を保護する為の代物だ。

 ダメだ。直視できない。

 この状況を乗り切るため、一人では力不足であると確信した閃は助けを求めるために吾妻の方へ視線を送った。が、

 菩薩。

 それはもう菩薩だった。厨房の奥の、そのまた遠くの世界を見つめるような半目に、閉じた口元と微かに上がった口角。そのとてつもなくアルカイックな表情は、すべてを通り越して無に至った顔だった。

「先輩……」

 なんかもう色々な意味で涙を浮かべた閃は声を絞り出しながら吾妻に呼びかけた。

「見るな」

「え?」

「奴の顔を見るな、というか上半身を見るな。手元だけを見続けるんだ」

 吾妻は菩薩スタイルを崩さずに閃に助言した。そうか、手元だけを見れば良いのだと気づく。

 そこから先は短かった。鉄鍋の中で踊る肉と野菜。時々立ち昇る炎の熱が頬を焼き、香ばしい肉と甘い野菜の香りが鼻腔をくすぐる。そしてともに炒められる赤と青の唐辛子。おそらく秘伝かなにかであろう朱色の粉が鉄鍋に下ると、鉄鍋の中で炎が再び大きく膨らみ、さっきまでのうまそうな香りから一転、鼻と喉を焦がす刺激臭へとたちまち打って変わった。

 すでに目の辺りが痛くなってきているような気もするが、刺激臭の波動が収まる頃には、香辛料で引き立てられた肉と野菜の旨そうな香りが店内を支配した。

 麺が茹で上がり、返しと出汁であわせられたスープの入ったどんぶりに投入される。上には炒められた野菜と肉が盛り付けられ、湯気とともに香辛料の強い香りを噴き上げた。

「あいお待たせ、特製酸辣湯麺(サンラータンメン)だ。今日は特別に豚を一切れサービスだよ」

「あ、ありがとうございます!」

 閃に差し出されたどんぶりから、とても旨そうな香りがたちこめる。吾妻のほうは、まだ出来上がらないようだ。

「先食えよ、美味いぞ」

「では、お先にいただきます」

 割り箸を手に取り、ぱちんと割る。閃はまず、その赤々としたスープの中に沈む麺を一本、おそるおそる口に入れた。そしてゆっくりと咀嚼する。

 ほどよい麺の弾力としっかりとした小麦の風味。香り豊かなスープと相まって非常に、非常に。

 辛い。痺れるような辛さだ。口の中が溶岩のごとく燃え上がった。

「か、からいれす……」

「ははは、そうだろう。だがな、騙されたと思って食い続けてみな。あとから来る旨さで箸が止まらなくなるぞ」

 店主のだるまが笑いながら言う。この辛さでうまみを感じる余裕があるのか。そう思いながらも、閃は意を決して次の麺をまた一本すすった。

 辛い。やはり辛い。舌が燃え上がりそうだ。目尻に涙が溜まる。しかしどうだろう、先程感じた痛みにも似た刺激のようなものは感じない。むしろスープに含まれる確かな酸味が残る刺激を打ち消し、体が次の麺を欲しているのがわかる。思い切って、箸に絡んだ四、五本の麺を一気にすする。辛い。熱い。しかしその中に感じる鶏ガラの確かな旨味、そのスープに浸かった甘みたっぷりの野菜、口どけの良いチャーシュー、どれもが一つのどんぶりの中で個性を保ちながら共生している。

 美味しかった。ひいひい言いながら辛さを我慢して食べるものばかりだと思っていた閃はまんまと意表を突かれ、気がつけば具一つ残さず完食していた。

「どうだ?――って、聞くまでもないようだな」

 だるまのような店主は、腕を組んだまま片目を開け、口角を吊り上げた。

「美味しかった、です。すごく!」

 閃は目を輝かせながら言った。しかし、肝心の吾妻が注文した激辛メニューはまだ上がっていない。その直後、目鼻を覆いたくなるような刺激を伴った空気が閃の顔面に容赦なく叩きつけられた。

「ぶっ!?」

 ひりつく目を気にかける余裕もなく、閃の視界に映った想像を絶する“それ”が彼女の目をさらに見開かせる理由となった。

 大きなどんぶりから受け皿へ溢れんばかりに注がれたマグマの如き紅蓮のスープ、その中からところどころ茨のようにうねりながら姿を見せる極太の平麺。それだけにとどまらず、岩山のように無骨に積み上げられた大量の野菜と、それを防御するように鶏と豚、二種類の厚切り肉で装甲を施している。さらにとどめとばかりに上から回しかけられた大量の酢と、それを固着させるために振りかけられた粉末唐辛子と黒胡椒。そして頂上に盛り付けられたのは、見るからにおぞましいような、どす赤黒く染まった肉味噌だ。

 こんな地獄のようなメニューを、三年生とはいえ一人の女子高校生が食べ切れるのか、閃には想像すらできない。無論、だれであろうとそんな事はできないだろう。

「待たせたな、来い、吾妻」

 そう言って吾妻のテーブルに炎の砦を築いた店主のだるまはまるで挑戦者を相手取る門番のように、仁王立ちしてみせた。

「望むところだぜ、おっさん」

 そう言った吾妻はまるで抜刀するかのように眼前で箸をぱきりと割り、静かに息を吸うと、またゆっくりと吐き出した。

「いただきます」

 手を合わせてからの吾妻は、目にも留まらぬスピードで野菜の城を攻略し始めた。山盛りの野菜を箸で豪快に掴み、はふはふと口に運ぶ。体温が上昇しているのか、ときどき白い吐息を吐き出しながら髪をかき上げ、さらに野菜に箸を伸ばす。そして肉。幾重にも折り重なった肉の装甲を起用に剥ぎ取って、ぱくり。口どけ柔らか味しっかりの豚肉と、歯ごたえ抜群スパイシーの鶏肉、そして自然な甘みと濃縮された旨みを併せ持つの野菜をルーティーンで食べることによってその圧倒的な量でも飽きを感じさせない。

 ある程度の野菜と肉を残したまま、吾妻は麺に手を付けた。ラーメンと呼ぶには太すぎるうえに平たい大量の麺。それらをスープの中からダイナミックに取り出し、大口を開けてかぶりつく。咥えきれなかった麺を一気にすすり、口全体でしっかりと味わう。吾妻の額から汗が滲み出る。湯気立ちのぼるスープと麺を容赦なく口に入れ、体中で汗をかく。髪はしっとりと濡れ始め、艷やかな雫がうなじを伝い落ちる。

 そしてここから次のステージだ。残った野菜に乗っていた肉味噌をスープに解くと、噴き出すマグマの海は大地を侵す溶岩のような赤黒い色に変わった。

 特性スパイスに漬け込まれた肉味噌は、ツンと鼻をつく辛味を持つものの、肉本来が持つ甘みまでは死んじゃいない。それが辛いスープの中で麺に絡めば、甘みと旨みが引き立てられ、さらに食欲をそそられる。

 旨い。吾妻の顔じゅうに汗がたらたらと浮き上がる。しかしそれでも吾妻はその炎を喰らうことをやめなかった。

 やがてすべての麺と具を片付けた吾妻。コップ一杯の水をクイッと飲むと、今度はどんぶりを両手で持ち上げ残ったスープをワイルドに飲み始めた。いちど飲み始めると、どんぶりから二回ほど口を離して息継ぎした以外に彼女が休む様子は無かった。

 吾妻がふぁさりと頭を振って髪からきらめく光をこぼす頃には、山のように積み上げられた灼熱の城塞がほんの僅かな赤い池を残して彼女の胃袋にきれいさっぱり収まっていた。

「……ごちそうさん、今日も最高にウマかったぞ」

 吾妻は何かひとつ山でも登りきったような笑顔で店主に言った。

「そいつは良かった。俺の辛さに付いてこられるのは吾妻、お前くらいだからな。だがこれで終わりじゃねえ、俺は究極を目指し続ける」

「ああ、望むところだ」

 吾妻と店主のだるまは、まるで少年漫画の主人公たちのように拳を突き合わせた。店員と客という関係をも超越したように見えるその光景は、閃にとって新鮮でどこか懐かしく、それでいて憧れるような、胸をそわつかせる感覚を彼女に与えた。

「今日はやはり気分が良い。お代はナシだ。その代わり、開店前に出ていってくれよ」

「ありがとよ、今度は金、払わせろよな」

「そのつもりだ」

 最後の言葉を交わした吾妻は、閃を連れて店を出た。火照った体を鎮めるように、少し冷たさを残した春風が髪をなでてゆく。


 現在の時刻は午前十一時。鎌倉学府での閃の生活は、まだ始まったばかりだ。








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