記憶
じっとりとした夜が、肌にまとわりつく。短く切った金髪をかすかに揺らしながら歩く坂上吾妻は、胸中に空虚な苛立ちと奇妙な心臓の高揚、そして拭いきれない恐怖を同居させていた。
先程まで吹いていた海風は消え去り、砂浜に砕ける波とまばらに通過する自動車の走行音のみが、夕凪の静寂に抗っている。
普段は背に結ぶ大太刀を弓手に持って歩く彼女の背に収まるのは学年が二つ下の少女、佐々木閃だ。
普段は後輩を背におぶることなどしない吾妻が現にその行動を取っているのは、背負う少女が気絶にも近い深い眠りに支配されていたためだ。
閃が眠っていることと、吾妻の胸中に存在する複数の感情は、先に発生した同じ事象に起因していた。
佐々木閃が見せた、凄まじい剣戟。突如として現れた、鎌倉学府大学最強と称される男――宮本覇亜に挑まれた決闘で、一歩も引けを取らなかったのだ。
閃の小柄な体と比較してあまりにも巨大な彼の肉体から感じられる迫力と威圧感。獅子のように逆立つ灰白色の短髪と凍り付くような青い目。
これまで数々の喧嘩を繰り返してきた坂上吾妻は本能的に直感していた。この男が放つ覇気はまがい物ではなく、その強さは別格のものであるのだと。
覇亜の挑発に乗ることのなかった閃が真剣を抜くことはなく、あくまでも使用されたのは彼から投げ渡された木刀だったが、あの攻防はまさに死合と言って差し支えないものだ。
宮本覇亜の氷のように深く青い双眸と、佐々木閃の炎のように眩く赤い眼光が、刹那に交わり、離れ、ぶつかっていた。互角かと思われた鍔迫り合いの末、閃が仕掛ける。
巻き落としは覇亜に読まれ、逆に木刀を巻き上げられた閃。
手に握る得物を失い、咄嗟に飛び退いた閃を逃がすまいと踏み込んだ覇亜。
決定打とばかりに彼が振り下ろした木刀は、闇に走った銀閃によって遮られた。否、切り裂かれていた。
佐々木閃が、真剣を抜いたのである。
その剣閃は目に止まらぬほど速かったが、男が手に持っている木刀の断片が二つ、地に落ちる打音を奏でていた。つまり、閃が木刀を斬ったのは一度ではなく、二度だ。
自身にはまだ及んでいなかったはずの閃の剣筋は、あの大男との対峙の時は、全く別の剣士が立っているようにも思えた。
覇亜と相対した際に見せた、閃の赤く血走った虹彩。坂上吾妻が覚えたのは、恐怖だった。
嫌な汗が噴き出してくるのが分かる。背に感じる少女の体温は高く、彼女もまた恐怖あるいは己の内に秘めたる存在に震えているようにも思えた。
自宅にたどり着いた吾妻は、依然として深い眠りに落ちる佐々木閃をそっとベッドに横たえる。
彼女の額に手をやる。ひどい熱だ。気を失ってもなお苦しそうな表情で呼吸するその少女に吾妻は胸を痛めた。
しばしの沈黙。医者に診てもらうまでもない、この発熱は過度な疲労によるものだ。
吾妻に出来ることはしばらくの間横たわる閃の隣に座して額を拭うことのみだったが、自身に蓄積された疲労を無視することは出来なかった。
「クソッ」
吾妻はかすかな苛立ちを覚えた。それはすべて自身の力不足に起因していることが明確で、その感情は心中を渦巻くたびに増大していった。
あの宮本覇亜という大男も、自分が止められなかった故にこのような事態となっているのだ。しかし分かってしまう。吾妻が今何度彼に挑んだところで、彼に勝てる絶対的な確信は得られない。それほどの異質な強さを、あの男は持っていた。
苛立ちと無気力感から、吾妻はその全身をだらしなく床に投げ出した。
ひやりと体温を奪うフローリングがやがて自身の熱を返して不快感をもたらす前に、吾妻の意識は闇の中へと落ちていった。
その眠りは深かったが、少女にとっては微睡みのようにも感じられた。泡沫の如く現れる記憶が少女の脳裏を巡ってゆく。心地よく揺れる背の体温と、耳馴染む夏虫の音。それは全く異なる情景を思い起こすのに十分であった。
兄の背は、常に少女の前にあった。どこまでも広がる青空とまばらな雲。吹き抜ける風に乗ってやってくる土と青草の香り。水路を遮る水草の隙間を縫って流れるささやかな水音。重力に囚われず静止と前進を繰り返す蜻蛉たちは手が届きそうで、こすれ合う草の音を乗せた風はさらさらと髪を梳いていった。
兄と手を繋ぎ、拾い上げた木の枝を兄の真似事のように縦に横にと振っていた。
「閃」
眼前で囁く、優しい声。彼女よりずっと年上の兄の姿は朧げだ。幼いながらも見続けてきた背中に伸びる長く美しい髪と、儚げに笑う口元だけは鮮明に覚えていた。
しかし、それだけだ。彼女の中に眠る、兄の姿、声、笑み。十分な記憶を残すには彼女はあまりにも幼すぎた。
だから、彼女が兄を思い出す時は決まった景色が広がっている。
なんということはない、良く晴れた夏の日。だがそれは、彼女が思い起こす在りし日の記憶として十分なものだった。
極限まで疲弊した肉体と精神。その拠り所となるべき記憶は少女の無意識に語りかけ、彼女を刺激した外的要因に膜を張るように深層意識を再構築する。
「お兄ちゃん……」
少女は声にならない声で呟く。
服の裾を掴むように、少女は小さな手をぎゅっと握っていた。
蛍光灯。無機質なその光が、虚ろな瞼を刺激する。じっとりと湿気のこもった空間は熱帯夜に蒸され、着替えることも忘れて眠ってしまった身体に制服がじわりと張り付いている。
吾妻はその不快感と依然残っている眠気の間で葛藤していたが、首筋を伝う汗の感触についに辟易した。
身体を起こそうとした吾妻は、その動作が外的要因によって阻害されていることを知覚する。
「お、おい……」
吾妻の胸元をぎゅっと握りながら、閃が寝息を立ててたのだ。昨晩の苦しそうな表情ではなく、どこか安堵したような、そんな表情だ。
しかし、相変わらずの寝相の悪さだ。昨日の夜は間違いなく彼女をベッドに横たえた。それが今、ベッドからいくらか離れたフローリングの上、そして吾妻を飛び越えるように移動しているのだ。
常人ならベッドから落ちたとなればその衝撃で目を覚ますだろうが、彼女の場合はただ鈍感なのか、それほどまでに疲労が溜まっていたのか、考えるに複雑だった。
起こすべきか、このまま寝かせておくべきか。そんなことを考えていると、吾妻の胸元でもぞもぞと動く気配があった。
「んあ……先輩?」
「やっと起きたか……」
吾妻は身体を起こし、気だるげに頭を掻いた。
「私、寝てたんですか?ずっと」
「ああ、昨日の晩、あいつとやり合った後に糸が切れたように眠っちまっただろ」
「すみません、あまり覚えてなくて……」
閃は弱々しい声で呟くと、力なく俯いた。
普段の元気な閃とは違う、思いつめたような表情。
「なあ、本当に大丈夫か?」
吾妻は閃の顔を覗き込む。閃の額に手が触れた。少しだけ温度差のある、ひやりとした掌に、額の熱がじわりと伝わるのを実感した閃。吾妻の表情は、きっと吊った普段の目ではない、姉が妹に語りかけるような、優しいそれだった。
閃は吾妻の予想外の行動に思わず目を見開き、言葉を詰まらせた。
「まあ、疲れが溜まってんだろ。飲むか?麦茶」
「は、はい、お願いします」
閃の返答を待たずに、吾妻が立ち上がっていた。数歩歩いた先の冷蔵庫から、半分ほど残った分量が窺える半透明の汎用容器が取り出されていた。
色がついたプラスチック製の小さなコップに冷たい麦茶が注がれる。持ったコップ越しに感じる麦茶のひんやりとした感触が心地よく、乾き火照った喉を通過する冷涼な液体が全身に染み込むように体を冷やす。
ぷはあというごく自然な溜め息を発すると、閃はまたしゅんと口を噤んでしまった。
いつもなら立て板に水のごとく口の回る閃がすぐに黙り込んでしまうので、吾妻は調子を狂わされる。
それから少し、沈黙が続く。吾妻はなんの気なしにスマートフォンの画面を確認してはすぐに置いたり、冷房をつけるためにエアコンを探したりと、落ち着かない様子で過ごしていた。
閃もまた、緊張したような様子でちょこんと座っている。そんな二人の窮地を救ったのは、やはり閃に起因する生理現象だった。
「あ……」
きゅう、と、子猫の欠伸のような音が鳴り、閃は顔を赤らめて自身の腹を押さえた。
「そうだな。まずは飯、話はそれからだ」
そう言って吾妻は立ち上がると、「素麺で良いか」と、閃に対して同意を求めない質問を投げかけた。
キッチンに立った吾妻は慣れた手つきで一連の動作を完了した。その場を離れ、沈黙を破る口実が欲しかったのだ。
沸かした湯に泳がせた麺を引き上げると、ざるの中に流水を落とす。十分に冷やされた麺は器に盛り付けられ、小さな椀には目分量で希釈されたつゆと氷、その縁にはチューブの紫蘇梅が塗りつけられた。
「ほら」
「ありがとうございます」
閃は座したままぺこりと頭を下げると、律儀に手を合わせ、小さく口を動かした。
吾妻もどかっとその場に座り、麺を椀に取ると黙って麺をすすった。
つるつるとした喉越しと爽やかな梅の酸味。決して多くの量を求める気はなかった消極的な朝食において、必要十分な満足がもたらされていた。
閃よりも随分早く麺を食べ終えた吾妻は、気を使って急いで食べ進めようとする閃に対して「いいからゆっくり食え」と小さく言った。
「ごちそうさまでした、ありがとうございます、先輩」
「おう」
閃の声に反応した吾妻が食器を片付けようと立ち上がりかけた時。
「すみません、先輩」
「なんだ?」
「お話します。昨日のこと、それから……」
閃が顔を上げる。
「私の、家のことを」
神妙な面持ちの少女は覚悟を決めたような鋭い眼差しでもう一度口を開いた。




