来訪
5月の鎌倉は、雲ひとつない蒼天を戴いていた。からりとした爽やかな風が肌をくぐり、山間を萌える新緑が桜に替わって街を彩っている。大型連休も明け、軍勢のごとく押し寄せた観光客の数も刹那の落ち着きを見せていた。春夏秋冬に留まらない、十二季とも例え得るほど豊かな表情を見せるこの街の景色は、いつ見ても飽きること無く人々を楽しませる。
一転して、5月も半ばにさしかかった学府には、いつもどおりの日常が訪れていた。風が吹けば多少の肌寒さを感じる時期ではあるが、衣替えの移行期間となった今、暑苦しい羽織を着ずに、半袖の上衣を肩までまくりあげて走る男子生徒が目立つようになってきた。
山道の多い鎌倉は、はるか頭上を行く環状モノレールでは一駅でも、歩いてみるとそれ以上の労力を感じさせる。余裕を残し、心地よく息を弾ませた少年は、物珍しげにあちこちを見て回る観光客に目もくれず、通い慣れた鶴岡八幡宮を横切った。
再び公道に出てしばらく歩くと、それは現れた。鎌倉第一高校。どっしりと構えられた煉瓦造りの校舎に、蒼天を貫く帝冠の如く戴かれた天守。すっかり新緑に染まった桜並木をくぐり、本館の吹き抜けから渡り廊下を抜けて、中庭を臨む。専用に建設された武道館と体育館内の一室を合わせて構内に点在する八の武道場は、生徒の自主稽古や部活動で半数近くが使用中となっていた。
フローリング敷の第三武道場。開放的な室内空間に、木刀の快い打音が鳴り響いていた。
「――っと、ちょっと休憩にしよっか」
「ちっくしょう、強え」
「もうクタクタです……」
片手に持った木刀で自分の肩をとんとんと叩く爽やかな表情をした芽衣の前で、吾妻はその場にごろりと座り込んだ。10本組手。立合稽古で吾妻と閃が交互に芽衣の相手をする。吾妻が2立目と3立目で芽衣に1本取ったが、1立目と4立目はあと1歩のところで及ばず、5立目は為す術も無くやられた。閃の方はというと、きれいな剣術で筋は悪くないが、圧倒的に経験不足といった印象。無論、芽衣から1本も取ることはなかった。閃は少し憂いげに、木刀の柄をきゅっと握る。剣術の強さは、まだ二人に遠く及ばない。
『だから今度は、私が先輩を助けます!』
芽衣の父、字研の前で確かにそう言った。当然、今の実力では吾妻を助けるどころか足を引っ張るのみだ。だからこそ、この鍛錬の機会を大切にしよう。そして、先輩と肩を並べられるほどの剣士になろう。天井を仰ぐいだ閃は「むふー!」と頬を膨らませ、こっそり決意した。
二人が座り込む中、息ひとつ切らせていない芽衣は体力に幾分か余裕がありそうだ。爽やかに汗を滴らせ、ボトル入りの水をこくこくと飲む芽衣のしぐさは、風紀団副団長といった重苦しい肩書を感じさせない、純粋な少女のそれだった。
少女たちの小休止に合わせるように、道場内に別の足音が訪れた。
「よう、来たぞ」
道場内に十分響く声量で、男の声が響いた。やってきたのは、すらりとした体格の少年だった。黒色の袴に、えんじ色の羽織。第二高校の制服だ。毛先で遊びつつも誠実さを感じさせられる程度にふんわりとまとめられた茶髪に、やや幼さを残した柔らかな顔つき。しかしその目は、無意識的にこちらをキッと睨んでいるようでもあった。
「あ?誰だこいつは」
吾妻は胡座をかいたまま悪態をついた。対して閃はというと、やってきた少年の方を興味深そうにじっと見つめていた。
「おっ、来た来た」と、芽衣は少年の方へ駆け寄った。何かを少し話したと思えば、ぐいっと少年の手を引き、閃と吾妻の前まで連れてくる。
「紹介するよ、私の幼馴染、土方新くんだよ!第二高校最強の剣士。彼なら、君たちをトップレベルまで導いてくれると思うよ!」
「芽衣、これは一体どういうことだ」
土方新と呼ばれたその少年は、呼び捨てで、半ば睨みつけるような目つきで芽衣に言い放った。
「突然でごめんね!この子が佐々木閃ちゃんで、この人が坂上吾妻さん。三校戦に向けて、二人にツーマンセルの戦い方を教えてあげて欲しいんだ!」
「突然にも程があるだろ。稽古をつけてほしいというから、お前と立ち合うものだとばかり」
「それもあるんだけど、さ。ほら、ツーマンセルといえば新の得意分野でしょ。だから、私が教えるより適任かなあ、って」
「あのなあ、大前提として、何故敵に戦い方を教えてやらなきゃならないんだ」
聞いていない、といった素振りで話す第二高校の少年に、芽衣は悪びれる様子もなく切り返した。土方新と呼ばれたその少年は、平常運転中の芽衣に半ば呆れるようにため息をついた。
「新なら教えたところで負けないでしょ」
「それとこれとは別だ。道場の外から少し立合を見ていたが、なんだあれは。我流の喧嘩剣術と演舞の型を覚えたての初心者じゃないか。せめて、まともに剣を振れるようになってからにしてもらうぞ」
その少年はばっさりと言い放った。そして売り言葉に買い言葉。胡座をかいて彼を見上げていた吾妻は、むくりと立ち上がった。
「随分と舐められたもんじゃねえか、一度痛い目見ないと分かんねえみてえだな」
「ほう、それが教えを請う者の態度か?」
「んなもん要らねえっつってんだよ!」
凄みを利かせながら突っかかった吾妻は、新と呼ばれた第二高校の少年の前に立ち塞がった。対して彼は半ば呆れるように言い放つ。
「――芽衣、ここは道場だ。私闘ではなく、あくまでも真剣での立合稽古と見なしてもらうぞ」
「はあ、全く……危なかったらぶっ飛ばしてでも止めるからね!」
「東郷先輩……」
「閃ちゃん、よく見てて。これが、この真剣での立合が三校戦でも行われるの。一歩間違えれば大変なことになる真剣での闘い。この緊張感を乗り越えないと、強くはなれない」
今度は芽衣がため息をつくと、不安げな表情で見上げる閃に優しく語りかけた。その不安をかき消すように、芽衣は両腕で後ろから閃をふわりと包み込んだ。
「上等じゃねえか、ぶっ潰す」
吾妻は抜刀した。漆黒の大太刀を、体全体を使って鞘より引き抜く。瞳を滾らせ、静かに息を吐くその様相からは、鬼の如き威圧感を感じさせた。
「大太刀、それにカーボン刀か、珍しいな」
土方新と呼ばれたその少年もまた、抜刀した。表情一つ変えず、銀色の刀身を抜き放つ。ステンレス刀。鎌倉学府では一般的に普及している刀だ。しかし刀身は一般的な刀に比べてやや細く、反りの少ない造りだ。それは刀というより、巨大魚を捌く長包丁のように見えた。
抜刀した二人がゆっくりと後ずさり、間を取り合う。約束もない静寂が道場内に訪れた。静かに、一歩一歩と足を滑らせ、両者は剣先を少しずつ近づけてゆく。剣先と、互いの目を窺う。正眼に構えた太刀を、新はゆっくりと下段に落とした。
吠えながら、吾妻が踏み込んだ。逆袈裟に斬り上げる。微動だにしない新。刃の軌道が、新の頭上をわずかに上回る。彼は大太刀の軌道が見えていた。吾妻はあえて軌道をそらすことで、実力を測ったのだろう。無論、空振りした吾妻に横薙ぎを入れれば新の勝利は確定する。だが、彼はそれをしなかった。それはこの立合が、ただの喧嘩の延長ではなくなったことを新が理解したためだ。『我流の喧嘩剣術』と揶揄された吾妻の剣には確かな実力が伴っていると、その軌道が物語った。新が動かなかったのは、それに対する答えだ。構え直した吾妻に正面から打ち込み、己の剣を受けさせる新。その衝撃に、吾妻は満足げに歯を剥いた。
馴れ合いはここまでだ。それは互いに理解っていた。目の色を変え、吾妻は鋭く下段に斬り込んだ。新は剣先を下段に合わせたが、刃を受けずに足さばきで躱し、追撃の斬り上げまでも身を引いて避けた。土方新と呼ばれたこの少年が、観察力と洞察力において自身を上回っていることは吾妻にとって自明だった。それでも打ち込みを続ける。攻撃を止めた時、何かが来る――吾妻の直感が、そう言っていた。
しかし、吾妻の剣は初撃以降、新に届くことはなかった。その殆どを足さばきと重心移動に躱され、広く薙ぐような攻撃は容易く防がれた。崩せない。ちりちりとした怒りにも似た焦燥が、吾妻の腹を這い上がった。しかしそれも新の計算だ。勝負は傾くか?いや、一方的な優位性はまだ獲得されていない。徐々に吾妻の剣が新の刀を捉えはじめる。
真剣同士の立合。互いに鎬を削ることで生まれる剣の対話は、互いの実力が拮抗し、共に高レベルであるほどより深く、より濃く、より緊密になってゆく。
剣戟を重ねるごとに、徐々に詰まってゆく二人の間合。そしてその時は訪れた。
「当たれ!」
「甘い」
快音とともに、先ほどとは全く違った感触が吾妻を襲った。受けられた手応え。それが無い、というよりも、浅い。芯を捉えていないような、投球を上手く打ち返せていないような、そんな感触。漆黒の刀身が、気味悪く弾かれた。力の差は感じない。むしろ、力では勝っていたようにも感じた。しかし、受けられた大太刀の付け根は、ステンレス刀に噛みつかれ、押し負けていた。踏み込みの間合、堅実な防御。攻防を繰り返すうちに、気づかぬまま刀身長の優位性が失われた。
間合の回復を図る吾妻は身を引こうとするが、すでに押し負けている鍔迫り合い。一歩下がれば一歩踏み込まれる。
ステンレスの刀身が、刃先を滑らせながら徐々に首筋へと近づいてくる。吾妻は大太刀から握る左手を離し、脇差に手をかけた。逆手で脇差を抜き、防御すると同時に肘打ちの容量で踏み込めば今度はこちらのペースに持ち込める。瞬時の判断としては、最適なものだった。が、
「まずい」と感じたときの無意識な表情変化、頬の引きつり、横目で確認した脇差、刹那の確信、離した左手。
少年は目をわずかに細める。土方新の観察眼は、その瞬間を見逃さなかった。
「――っ!」
脇差を抜くはずの吾妻の左手は柄を握ったまま、交差するように新の左手で抑えられていた。鼻先が触れるほどの距離で、互いの目が合う。吾妻が一歩下がり、そして少年はもう一歩踏み込む。吾妻の首筋に、刃の気流がひやりと触れた。
技ありだ。最後まで刃を避けようと精一杯上向いた吾妻が、ゆっくりとため息をついた。
「――負けたよ」
吾妻は観念したようにこぼした。
「あまり見せたくはなかったんだがな。あんた、意外とやるね」
「そっちもな。間合いを狂わされるとは思わなかった」
漆黒の大太刀をゆっくりと鞘に収めると、吾妻は半ば驚くように呟いた。
「正直見くびっていた。改めて、土方新だ。さっきは悪態ついて悪かった」
土方新と名乗ったその少年も長刀を鞘に収めると、偏見なく吾妻を評価した。
「坂上吾妻。あたしも、その、すまん――世話になる」
素直に認められることが想定外だったのか、少し気恥ずかしそうに首を抑えつつ吾妻は前言を撤回した。
ふう、とため息をついた東郷芽衣は、いつもの爽やかな笑顔で口を開く。
「よし、二人の気も済んだよね!新、どう?引き受けてくれるかな」
「――実力は認める。基本戦術は教えるし、練習相手になってもいい。だが俺も二高の選手だ。自分の鍛錬の時間は取らせてもらうし、いつも付きっきりで見るつもりはない。無論、俺が経験上得たテクニックも渡さない」
きっぱり言い切ると、土方新は一呼吸おいてさらに続ける。
「そして、稽古をつけるのは夏までだ。予選突破は約束するが、そこから先は俺たちも調整に入る。本戦が始まる秋からは、一切の協力をしない」
「もっともな意見だね。でも、心強いよ!二人はどうかな?」
芽衣が取り持つ。先に口を開いたのは吾妻だった。
「異論はねえ。もともと、自分たちでやらなきゃならないことだしな」
「私もです。教えて頂く身ですので、本当にありがたいですから」
二つ返事で返した吾妻に追従するように、閃も同意した。放課後の稽古の疲れなのか、真剣を用いてのハイレベルな立合を目の当たりにしたせいなのか、閃は自分の心拍が上昇していることに気づく。普段どおりの快活さは遠のき、無意識的に慎重になっているようだった。
顔合わせを終えた土方新は、曇りがかった空模様を見て「練習開始は後日から」と言い残し、道場を去っていった。芽衣は風紀団の幹部会議とやらで席を外し、道場には吾妻と閃のみが残された。
自分とは対象の優等生・佐々木閃と二人きりになるのは、吾妻は未だに慣れなかった。
「……今日バイトだから、あたしも上がらせてもらうぞ。その、まあ……お前も気をつけて帰れ」
きまり悪そうに閃に呼びかけた吾妻は、そそくさと道場を立ち去ろうとする。
「あの、先輩!」
「ん?」
思い切ったように声を張った閃に、吾妻が振り向いた。しかしその勢いはとうに消え、小柄な少女はしゅんとした表情で俯いている。
「い、いえ、何でもありません!お気遣いありがとうございます!また明日――」
儚げな声で、閃は精一杯の笑顔で応えた。震えるその声色に微かな違和感を覚えつつも、「おう」と返事をすることしか、吾妻には出来なかった。
鎌倉の空を、灰色の雲がのっそりと覆っていた。




