はじまり
まだ隅に引っ越し用のダンボールを残したワンルームに、カーテンの向こうから朝の日差しが差し込みはじめた。
消灯された薄暗い部屋が、徐々に明るさを取り戻してゆく。真っ白な布団にくるまったこの部屋の住人は、未だにすうすうと寝息を立てている。
ベッドのそばに置かれた真っ赤な時計の秒針がコチコチと等間隔に音を刻み、ついに長針と短針までをも動かした。
部屋に響いた電子音はスイッチを切られるか電池が切れるかしなければ鳴り止まない設定だ。しばし鳴り続けたその時計は、丸まった布団から伸びた平手を二、三度かわしたものの、ついにそれに捕まっておとなしくなった。
安堵するように布団の中へと引っ込んでいったその手を挑発するかのように、真っ赤な時計は再び騒ぎ出した。
「うわあっ」
素っ頓狂な声とともに、くるまった布団の中から飛び起きた小柄な少女。身の丈には少し大きいだろうTシャツと、ハーフパンツを身に着けた彼女の背中まで伸びた髪にはあちこち寝癖がつき、乱れている。
七時八分を示す時計の目覚ましを切り、両手で勢い良くカーテンを開ける。部屋はきらきらと輝く朝日によって照らされ、人工の光がいらないほど明瞭となってゆくのを実感すると、少女は満足気にうなずいた。
洗面所で顔を洗い、黒くしなやかな髪を梳かし終えた彼女は、あくびを噛み殺しながら食卓についた。トースターから飛び出した食パンを皿に乗せ、マーガリンを少しだけ塗る。沸かしたお湯でインスタントコーヒーを淹れたものの、いざすました顔でそれを飲むと、やっぱり苦いや、といった顔で牛乳と砂糖をたっぷり入れた。
朝食を済ませた少女は、朝のニュースを流しながら着替えを始めた。まずは白い上衣に袖を通すと、左側が表に来るように前で重ね、両端の紐を結んで整える。それから長い帯を上衣のうえから胴に巻き付け、少しきつめに締めると、帯の上に乗るように濃紺の袴を穿き、紐を結び切りで整えた。そして最後に、笹竜胆の紋が入れられている黒い羽織を着て、少女は試しにその場でくるりと回ってみた。
モダンにデザインされたこの和服は、彼女が今日から通うこととなる、「鎌倉第一高校」の制服だ。共学で、男女の制服に大きな違いはあまりなく、男子はズボンのような長い馬乗袴、女子はスカートのような短い行灯袴ということぐらいだ。
前髪をヘアピンで留め、後ろ髪をポニーテールにまとめると、彼女は姿見の前で身だしなみの確認をした。そして、深く息を吸い、
「皆さんはじめまして!佐々木閃です。早口言葉みたいですが、覚えて下さい。よろしくお願いします!」
自己紹介の練習をした。新学期で早速友達を作るには、第一印象が大切だ。大きな声でハキハキと、そして笑顔を忘れなければ大丈夫。閃はそう確信していた。
入学式の案内が入ったリュックを背負うと、閃は玄関で革靴を履き、とんとんとつま先でかかとをはめ込む。そして靴箱の上に置いてある「それ」を掴み取った。
「う重っ」
ちゃき、という音を立てて持ち上げられたのは、一振の刀だった。全長およそ六十センチ程度のずっしりと重い刀を左の腰に差し、閃の身支度はようやく完了した。
「よし!」
わくわくした気持ちを抑えきれない閃は、小さく両手にガッツポーズを作ると、玄関の扉を押し開いた。もちろん不安はあるが、新しい環境、新しい出会い、何より高校生活の始まりだということを考えると、そんな不安は些細なものだった。
踏み出した扉の先で閃の瞳に飛び込んできたのは、街中を美しく染め上げる満開の桜だった。ひらひらと舞う無数の花弁は爽やかな香りとともに風に乗って吹き抜けてゆく。
桜並木の大通りの中をゆっくりと走る路面電車や、高速で空を翔ける懸垂式モノレール。
活気づいた街並みの中を行き交い、あるいは踏切待ちをするたくさんの人力車。道行く人々は皆、腰に刀を帯びている。
「すっごい……」
閃は思わず息を呑むと同時に瞳を輝かせ、腰に差した刀の重さも忘れて駆け出した。
政府指定特別文化振興学園都市「鎌倉学府」。一六の数え年から帯刀が許されるこの街での、一人の少女の波瀾万丈の学園生活が、今まさに始まろうとしていた。