【水】 フユタビⅡ(3) ※
明くる土曜日、午前8時。
「ただい……ま?」
楽しく諸々充実したお泊り付き女子会を終え、意気揚々として帰宅した国枝香奈は、玄関に入るなり、思いがけないものを目にして首をかしげた。
男物の靴が二足。一方は見慣れた浩隆のものだが、もう一方は。
「誰?」
兄・英一は出張中のはずだから、浩隆の職場の同僚か旧友の誰かが来ているのだろうか。いずれにせよ彼が自宅に人を招くのは珍しい。家に上がって廊下を進み、リビングの扉をそっと開けると、カーテンの閉められた窓際にこんもりとした毛布が二つ見えた。
ごく、と緊張を飲み込み、足音を立てないようにゆっくり近づいていく。どうやら当人達はまだ眠りのうちらしい。起こさぬようにゆっくりと静かに歩み寄って様子を窺う。毛布をかけてラグに直に横たわっているのは夫の浩隆だ。穏やかな寝顔に少しの間見入った後、今度はソファに目を移して、その横顔に思わず口元を押さえた。
そうして蘇る光の共演、冬の記憶。
「名杙さん?」
冬の旅――目的地であった仙台で、ひととき邂逅した黒髪の彼。その後偶然にも東京駅で再会し、以降時々連絡を取っていることは聞いていたが、まさかここにこうして居ようとは思いもしなかった――浩隆のパジャマを着て。
どうしたものかと思案していると、ふと彼が小さく唸り、ゆっくりとその瞼が開かれた。
「!」
こちらを認識したのか、寝ぼけ眼は一瞬で失せ、直後勢いよく彼が起き上がる。そうして困惑と共に、その面が瞬時に染まった。
「あ……あの」
心底バツが悪そうに視線を彷徨わせ、そして落ち着きなく髪に手をやり言葉に詰まる彼に、香奈はひとつ息をつき、にこりと微笑みかけた。
「おはようございます、名杙さん」
「え、あ、おはようございます。えっと……」
「香奈でいいですよ。主人が、ヒロがいつもお世話になっています」
妻の嗜みと深々頭を下げる。すると彼も冷静さを取り戻したのか、ソファの上で居住まいを正した。
「お久しぶりです、名杙統治です」
「あ、そうか。名乗り合うのは初めてですもんね」
「ええ。それなのに申し訳ありません。不在の間にご自宅に勝手に上がり込んでしまって」
心からの謝罪に、香奈は慌てて頭を振った。
「そんなの気にしてませんよ。常々ヒロから話をお聞きしていて、もう随分長い知り合いのような気がしてましたし。でも……まさかウチにいらしてるとは思わなくて、ちょっとびっくりしました」
「それはその、色々と事情が」
「要するに、ヒロに引っ張り込まれたんですか?」
「え」
いたずらっぽい、けれど的確に核心を突いてくる問いに答えをためらっていると、「やっぱりそうですか」と腰に手を当てて続けた。
「もうヒロったら。彼、時々強引なくらい勢いづく時があるんですよ。でも後暗いところが一切ないのが分かるから、ついつい要望を受け入れたくなっちゃうんです。付き合えば凄く楽しかったり嬉しくなったりするので、結局逃れられなくなるんですよね」
確かにと昨日の一連を思い起こして同意しつつ、少しこそばゆい気持ちを抱く。そうして改めて、今の自分の格好と状況をどうしたものかと考えた。それを察したのだろうか、香奈が再びの笑みを見せて助け舟を出してくれる。
「詳しい話は後で聞くとして、とりあえず朝ごはん食べませんか?」
「いえそんな、泊まらせて貰っただけでも有難いのに、そこまでお世話になるわけには」
「アタシが用意しますから、名杙さんはヒロを起こして身支度しておいてくださいね」
キッパリと言い切り、早速キッチンへ向かう彼女。笑顔で懐柔し反論を圧すさまは、本当に夫婦そっくりで。
「羨ましい限りだ」
「はい? 何か?」
「なんでもありません」
「そうですか。じゃあ頑張って彼を起こしてください。お願いします」
「頑張る……って?」
シンクの前でそう言った表情の中に、なにやら含みを感じて。それでも始終世話になる手前やるしかないと、改めて眠りのうちにいる彼に向き直った。
「浩隆さん、起きてください。朝ですよ」
傍に膝を落としかがんで声をかける。そうして昨晩、夫婦の寝室に立ち入るわけにはいかないと固辞した自分に、「じゃあ僕もここで寝るね」とわくわく顔で宣言したことを思い出した。キャンプや合宿の時のような近さ、親しく深く交わした会話がとてもーー心地よかった。
「浩隆さん」
なかなか目覚めないその肩を揺さぶると、「んー」と反応した彼がもぞりと寝返りを打つ。
「起きてください。香奈さん、帰って来てますよ」
「ふぁ……かなちゃぁん?」
やはり妻の名前は効果てきめんらしい。少し舌足らずな口調と共に、まぶたが半分開いた。目覚めたことにホッとして、自分に与えられた仕事が半分片付いたような気になったその直後。
「な、うわっ!」
彼が少し起き上がった直後、がばりと腰に抱きついてきて心底驚く。
「浩隆さんっ?!」
「おはよぉかなちゃん。でもおねがい、あと5分ねかせて……」
言いながらぎゅっとしがみつかれ、そのままラグに引き倒される。存外に力強い腕、そして明らかに押さえつけようとしてくる様子に、強い羞恥と混乱で頭が一杯になる。
「香奈さん! これはどういう……」
腹のあたりに再びの寝息を感じつつ、振りほどくこともできずにジタバタともがきながら助けを求める。
しかし返ってきたのは、卵が焼ける音と、明らかに状況を楽しんでいる一言だった。
「頑張ってくださいねー」
この状態でどうしろと。
ほとほと困り果てながら、目の前の大きな眠り王子に内心ため息をつく統治だった。