靄雪(もやゆき) 【2018分町ママ生誕祭】※
※この短編は、2018年分町ママ生誕祭向けに執筆したものです。
※諸般の都合により、一時的にこちらに置いておりますが、近いうちに別の場所へ移します。
2月28日、午前6時。
意識――と呼べようもの――が現実に立ち戻ったとき、目の前には真っ白なあさぼらけの世界が広がっていた。
宮城県塩釜市にある名杙本家、その綺麗に整備された庭先に立ち、分町ママは改めて辺りを見回した。屋敷の屋根にも、敷地を囲む灌木にも、そしてその向こうに望む街並みも。視界にとらえうるいたるところが白い静謐さで覆われていた。
「どうりで。いやに静かな夜だったものね」
雪は音を吸収する。ものの行き交い、人の生きる音、その何もかもを静かしめると同時に、ひたすらの無垢に世界を導く。その中に身を投じていると、まるで自分という存在の輪郭を失ってしまったかのような、そんな感傷が湧き上がってくる……気がした。
「なにを」
そう改めて自嘲し、すぐさま己を取り戻す。
『親痕』となって名杙家に、この世に絆されて随分時が経った。肉体は既になく、今この器には多くの記憶を止めることはできない。生きていた頃の記憶は既に遠く霞み、ましてや感傷に浸るだけのくっきりとした『思い出』など今更持てようはずもない。
それこそ今目にしているこの季節の雪と同じ。
陽が当たれば溶け、いつの間にか失われて、そこにあったことすら忘れ去られる定めなのだ。
「……馬鹿だわね」
どこかひややかに、誰にともなくうそぶく。
すべて、わかっていたことだ。そしてそれを、自分も受け入れたはず。
だからこそ、今ここに在る。
「充分なのよ、それで」
強く、言い置くように発したその直後、一陣の風が通り過ぎて辺りの木立を撫ぜていく。そうしてほとほとと落ちてくる、枝に積もった雪。重みが失せてぴんと弾かれた枝末が、宙に細かな雪の粉をはたき、辺りを白い靄で包む。
思わぬ出来事に視界を奪われ立ちつくしていると、徐々に靄は晴れ、入れ替わりに昇ってきた陽の光が庭に射し込んできた。
「……それでいいの」
自然口をついて出た許容。
何事もなかったかのように辺りは静けさを取り戻し、庭は今日も清々しい朝を――巡る季節の移り変わりを迎え入れる。
それと同じ。
きっと今この内で揺れる想いも、やがては靄雪のようにとけて、跡形もなくなるのだろう。
「それで、いいのよ」
この身の定めを受け入れ、そっと微笑む。
そうしてゆったりと服の裾を翻すと、朝の支度の音が聞こえ始めた母屋へと向かって行った。