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trip! -the special collaborations-  作者: 霧原菜穂、ジョン・ドウ、水成豊
10/18

【水】 さくらとかりん ※

柔らかな日差しの降り注ぐ午後、国枝くにえだ香奈かなは都内のとある病院を訪ねていた。

自社が新たに開発した製品の詳細説明、それこそが今日ここに来た目的であり、上司や同僚と共に院内の廊下を歩きながら、香奈は心臓が今にも飛び出そうかというほどの緊張を味わっていた。

『きっとうまく伝わるよ。いつものカナちゃんでいれば大丈夫。自信を持ってお勧めしておいで』

今日の事を夫の浩隆ひろたかに話した時には、そんな風に励ましてくれたが、何せ入社以来初めての大役である。チームの仲間と共に作り上げた製品には確かな自負があるが、いかんせん自分が説明の主軸を担うとなると……。

ああ、どうしよう。

社会人のたしなみとして動揺をおもてに出すことはしないが、内心は酷く不安でしょうがない。お守り代わりに持参していた、浩隆とお揃いの万年筆をポケットの中で握り、なんとか気持ちを落ち着かせようとしたその時だった。

ふと聞こえてきた音色。柔らかな旋律と共に、様々な年代の人々の歌声が聞こえてくる。

「お、なんだありゃ」

上司が何事か気づいたらしく、その視線を追う。エレベーターホールの脇、ちょっとしたホール状のスペースに大勢の人が集っていた。大きなその輪の中央に置かれたキーボード、その前に座った長い黒髪の女性が目に入る。自分と同じくらいの年齢だろうか、優しげに、楽しげに鍵盤を弾きながら歌い、手や体の動きを口頭で促している。時々場に笑いが起これば、すかさずそれをすくい上げて次の動作に巧みに取り入れていく。よくあるボランティアの院内コンサートとは異なる様相に、香奈は興味を惹かれてしばしみやった。

「なんか、みんな楽しそう」

和気あいあいとした場の空気に、自然に心がほどけていく。思わず口にしたその時、ふと顔を上げた黒髪の彼女とばっちり視線がかち合って驚いた。

「……よし来たな。行こう」

エレベーターの到着音と共に、上司が宣言する。はっと我に返ってそちらを振り返ると、ぴんと身体に芯が戻った。

「大丈夫だな? 高遠」

ちら、とこちらを覗う上司に「はい」と力強く頷いてから気づく。

先ほどまでの自分が嘘のように緊張がほぐれ、漣立っていた心が落ち着いていた。

これなら、やれる。

湧き立ってきた自信を胸に、香奈は仲間と共にエレベーターに乗り込む。

そうして閉じられていく扉の向こうに彼女を見やりながら、心の中で小さな感謝の言葉をつぶやいた。



********************



「ふーーー……」

2時間後、院内のドリンクコーナーに向かって歩きながら、香奈は安堵の深いため息を吐いた。

製品に関する説明は終わり、相手の反応も上々。とんとん拍子に定期供給に関する契約にまで話が進んだため、実質お役御免となり席を離れたのだ。

携わった製品が相手の要望にうものとなったこと、そして本格導入される見込みが立ち、自社の業績の一部に組み込まれるに至ったことが素直に嬉しい。

帰ったら、報告しよう。

同じ研究者として時にヒントをくれ、プレッシャーに負けそうな時には励ましてくれた浩隆に、今日はただひたすら感謝し、成果を得た喜びを分かち合いたい。浮き立ち、スキップでも踏みたいような心持ちのまま、自動販売機の並ぶ区画に足を踏み入れたその時だった。

「あ、あぁ……どうしよう」

今にも泣き出しそうな、おろおろとした声。先客がいたことに驚いて立ち止まり、その姿かたちを確かめてなおのこと驚いた。

先刻ホールで見かけたキーボードの彼女。そのおもてには憂いが満ちており、携帯を片手に右往左往し落ち着かない。尋常ではない様子に、香奈はゆっくりと歩み寄って声をかけた。

「あの、どうかされました?」

突然のそれによほど驚いたのだろう、びくりと殊更に大きく反応して彼女がこちらを向く。

「何か私にお手伝いできることはありますか?」

「え……えっと、あの、この画面が」

「画面?」

「メッセージを送ろうと思って文章を入力していたんですけど、途中で別な画面に切り替わってしまって」

なにかの拍子に別のアプリでも起動してしまったのだろうか。ほとほと困り果てた様子に「ちょっと見せていただいても?」と聞くと、はいと素直に差し出された。

「ああ……これなら大丈夫ですよ。すぐ戻れます」

「本当ですか?!」

「ええ。私が言うように操作してみてください」

黒髪の彼女は真剣そのもので、香奈の指示を受けながら懸命に指を動かし始める。そうしてしばしの後、元の画面が復帰するや、強張っていた表情がふっと緩んだ。

「よかった……戻れました」

「ここからの操作は大丈夫ですね?」

「はい、やってみます」

再び真剣な表情に戻り、画面に向き合う彼女。やがて眉根を寄せて息を詰めたかと思うと、ひとときの後で深く長い息を吐き出した。

「送信、できました?」

様子を窺いながら尋ねると、今度は無邪気で嬉しそうな笑顔が覗く。

「はい、無事に!」

「よかったですね」

「本当にありがとうございました。是非助けてくださったお礼をさせてください」

「いえそんな。大したことはしていませんし、お気持ちだけで十分ですよ」

「お世話になっておきながら何もしないわけにはいきません。せめて私に一杯奢らせてください!」

その言葉は、まるでこれから飲み屋にでも繰り出そうかという勢いで。

しかし次いだ彼女の行動は――。

タッタッタッ。

ちゃりん。ちゃりん。

「……あの、何がお好きですか?」

カップ式の自動販売機の前で振り返った彼女に、香奈はぷっと小さく吹き出しながらも要望を伝える。

「なら、ホットのロイヤルミルクティーを」

「わかりました! 出来上がるまで少々お待ちくださいね!」

その張り切ったもの言いが微笑ましくて、香奈は畳みかけられる純真さに今度こそ破顔した。



****************



テーブルの上に、ロイヤルミルクティーの入った紙コップが二つ並べられる。

「先ほどは本当にありがとうございました。恥ずかしながら私、機械の操作が大の苦手で」

恥じらう彼女に、香奈は小さくかぶりをふった。

「そんなことないですよ。機能が増えてる分操作がわかりにくい機種もあるなって、私も感じることがありますから」

「そういっていただけると、少し救われます」

かすかな苦笑と共にコップを持ち上げ、彼女がミルクティーをひとくち含む。先ほどの取り乱しようから一転、穏やかに柔らかくなった表情にふと問いかけてみた。

「もしかして、大事なメッセージだったんですか?」

「え?」

「あ、ごめんなさい。初対面なのに立ち入ったことを聞いてしまって……気を悪くされました?」

「いいえ全然。大事な……そうですね、大事な方に送るものでした」

そう言って伏せた目元がほんのり染まっていて。その反応に何となく事情を察しつつ、抱いていた疑問をここぞとばかりに投げてみた。

「ちょっと聞いてもいいですか?」

「はい」

「さっきホールでキーボードを弾いてましたよね? 何かのイベントだったんですか?」

「いえ。あれはこの病院に入院している患者さん向けに、定期的に開催している音楽療法のプログラムなんですよ」

「音楽療法?」

「ええ。音楽の持つ力で心身の保全や回復をサポートすると言いますか……私はそのプログラムを専門に扱う音楽療法士なんです」

言いながらやわらかに笑う。

「私は東北にある別の病院のスタッフですが、療法士仲間に是非にと招待されて今日はこちらにうかがったんです。そうしたら偶然あなたが会場を通って行かれて」

思いがけない言葉に今度はこちらが驚く。一瞬目が合っただけの、しかも自らはピアノを弾いていたあの状況で、まさか通りすがりの自分の顔をしっかり記憶していたとは驚きだった。

「その……素敵な方だなって思って……まさかこんな風におしゃべりできるなんて、思ってもみませんでした」

ほんのりと頬を染めながらの言いように、こちらもにわかに気恥ずかしくなる。

「こちらの病院のスタッフさんなんですか?」

「いえ。私も外の人間で、今日はたまたま商品説明の仕事で来たんです」

「商品……説明?」

「私、化粧品メーカーに勤めてるんですけど、今度医療用化粧品の新製品を開発したので、製品の成分とか安全性とか、そういったものの説明を任されたんですよ」

「医療用の化粧品?」

「ええ。わかりやすい例で言うと……手術跡をカバーするテープやファンデーション、皮膚にダメージを負った方向けの保湿剤とかですね」

「知らなかった。そういうニーズに応える製品をお作りになっている方もいるんですね」

心底感心した様子に、達成感と共に自分の仕事がなお誇らしく感じられる。

「今日の私の持ち分は終わったので、一緒に来た上司に『後学のためにも見学してこい。仕事の相手の情報は自分で稼ぐもんだ』って部屋を追い出されたんです。丁度いいからちょっと休憩しようかなと思ってここにきたら……」

くす、と小さく笑うと、彼女が少し苦い笑みを浮かべた。しかしすぐに真顔に戻り、手にした紙コップの中をじっと見つめた。

「そうですか。それなら私も同じです」

「え?」

「相手を知らずにいては、学術的にどんなによく練られたプログラムだろうとも成り立ちません。本当に求められているものを自ら探り、音楽に載せて提供することが私の仕事です。まだまだ駆け出しの私では、果たして本懐が達せられているものか、随分怪しいものですが」

そういう目にはかすかな気後れがうかがい見えて。それが彼女のしっかりしたプロ意識と確固たる理念の裏返しだと香奈は気づいた。

「心配いりませんよ、きっと」

「え?」

「あたしも駆け出しで、大層なことは言えないですけど……あの時のあなたは、場の声に全身全霊を傾けて、必死に知ろうとしていたように見えましたよ」

「そう、でしょうか」

「そうでなきゃ、あんなにすぐに打ち解けられないと思います。あなたが知りたい、たとえ療法の一種だとしても、楽しくありたいと思う気持ちが伝わったから……だから、みんながそれに応えてくれたんだと思いますよ」

あの時抱いた感想を、嘘偽りなく言葉に表してみる。すると彼女の頬が明るく染まり、目元が嬉しげにほころんだ。

「そんなふうに感じて貰えたなんて嬉しい。ありがとうございます」

まるで花が咲くかのような、ふんわりと広がる笑顔。それを受け止めて、香奈はなおのこと彼女に好感を抱いた。

「まさか初対面の方と、こんなにお話ができるとは思っていませんでした。なんだか不思議です」

「そうですね。本当に、不思議」

そうして小さく笑い合い打ち解け、温かい飲み物で身体と心を癒しあう。静かな無言の時をも共有し、しばしの幸福感の後でふと見上げた壁掛け時計に、彼女が再び慌てふためいた。

「ああ、いけない!」

「どうかしました?」

「新幹線の時間が……もう帰らないと」

そうですかと少々残念な気持ちになる。それが顔に出ていたのだろうか、彼女が一瞬嬉しそうな表情を見せ、それからおずおずとこちらをうかがってきた。

「あの」

「はい?」

「大変不躾なのですが、あなたのお名刺、頂戴できます?」

「え、あたしの、ですか?」

「はい。あなたのような方がお勤めになっていらっしゃる企業なら、それだけで大いに信用できるというものです。それにお話がとっても参考になったので、私の勤める病院でも是非御社の製品をご紹介できたらと。ですからご迷惑でなければいただいて帰りたいんです。こうしてお会いできたのも何かのご縁だと思いますし、それに」

「それに?」

「このご縁を、ここで終わらせたくはないなって」

その言葉に、今度は香奈が感激し頬が熱くなる。

「そんな迷惑だなんて! かえってありがたいお話です」

突然降ってわいた好機に、慌ててポケットから名刺を取り出し、居住まいを正して一枚差し出した。

高遠たかとお……香奈かなさんでよろしいですか?」

「はい、よろしくお願いします。何かありましたら、私に直接ご連絡いただいて構いませんので」

そうして代わりに差し出された一枚を恭しく受け取った。

「宮城県、登米とめ市……えっと」

透名とうなと読みます」

「失礼しました。透名とうな総合病院の……透名とうな櫻子さくらこさん?」

「はい」

屈託ない笑顔、そして人柄によく合った、美しい名前だと香奈は思った。

「あ、そうだ」

言いながら、彼女は品のいい鞄の中をごそごそと探り。

「これ、どうぞ召し上がってみてください。お近づきの印です」

香奈の手を取るや、名刺の上に小さな包みを取らせ「おいしいですよ」と次いだ。

「では、時間ですのでこれで失礼します。香奈さん、色々ありがとうございました」

またいつか、と丁寧に礼をし、彼女は急いで廊下をかけていく。

その背中を見送ってドリンクコーナーに一人残された香奈は、怒涛に過ぎたひとときを胸に抱き、手の中に残ったそれをしげしげと見つめた。

「揚げ……しんこ?」

どうやら餅の類らしい柔らかな手触り、いかにもそそるきつね色の揚げ色に、緊張から解放された腹の虫が思わず鳴く。折角だし食べてしまおうかとあたりをきょろきょろと見回すが、直後思い直してスーツのポケットにそれを仕舞い込んだ。


これを二人でいただきながら、今日の出会いの事も話そう。


脳裏に焼き付いた笑顔に自身の大切な人のそれを重ね、香奈は宵闇に染まった窓の外へと視線を向けた。



さてさて、今回登場のスイーツはこちら↓

「揚げしんこ」

http://motiden.jp/


もっちもちなおもちに包まれたあんこが絶品!

ノーマルな「しんこもち」も、いろんな味があっておいしいのです。ぜひご賞味あれ☆

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