【水】 フユタビ(1)
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「週末なんだけど、ちょっと旅に出ない?」
水曜の夜。相変わらずの唐突な夫の誘いに、国枝香奈は台所から怪訝に問うた。
「どこへ?」
「それはまだ内緒。まぁ数日程度の予定だし、国内には違いないから安心して」
彼――浩隆の、意図的にはぐらかすそれもいつも通りで。洗い物を終え蛇口を閉めて向き直る。
「一体何をするつもり」
「さてね」
しらじらしいことこの上ない。けれど彼がこんな態度を見せる時には、決まって自分にとって何か素晴らしいことが起こるのだ。それこそいつもの手管に乗せられてしまいそうで、悔しいことこの上なかったが、煽られた期待感はもう覆い隠せないほどに膨らんでしまっていた。
「ちゃんとエスコートしてくれるんでしょうね」
最後の抵抗にと上から目線で返すと、彼は心底嬉しそうな笑みを見せて「もちろん」と返してきた。
「ご満足いただけるよう、最善を尽くします」
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旅行の出発はやはり唐突だった。
というのも、金曜の午後3時過ぎ、彼が会社の裏口前までタクシーで迎えに来たからだ。
たまたま仕事にひと段落ついていたからよかったものの、連絡をもらった直後急いで上司に休暇を申請し、案の定吹き荒れた同僚たちからの追究の嵐をなんとかかいくぐって――それこそ着の身着のまま、通勤で使っているバッグや小物類しか持てずに――気づけば今、列車に揺られている。
「まったく、なんで今日出発だってことを予告しておかないわけ」
「ごめんごめん。でもそういう刺激があるから、人生面白おかしく愉快に過ごせるんじゃないか」
しれっと放つ横顔。度が過ぎてるのと心の中で恨み言を次ぎつつ、気を取り直して外を流れていく夕刻の風景に目を移した。
「なんで、仙台?」
東北地方最大の都市。双方の勤め先に限らず、全国各地から人や企業、モノが集まる緑豊かな『杜の都』。
暖房の効いた新幹線の車内から、徐々に近づいてくるビル群を見やり、やがて駅への到着を予告するメロディが流れ始めると、柔らかなそれにほんの少し心の棘が引いた。
「降りればわかるよ」
車体が完全に停止し、立ち上がった瞬間に彼が言う。思わせぶりで得意げなそれに「だったら見せてもらおうじゃない」とこちらも挑戦的に返した。
「寒い」
ホームに降りた途端、素直な感想が口をついて出る。肌を刺すようなぴりりとした冷気。人波に押されて立つ風が、東北の厳しい寒さを如実に物語っていた。
「思った以上だね」
そういう彼の横顔もさすがに凍っている。吐き出す息が、首に巻いたマフラーの色とまるきり同じだ。改めて12月という季節と移動距離を省みつつ、繋いだ手を引かれるまま改札を、そして人のごった返す吹き抜けのコンコースを抜ける。
「こっちだ」
駅前の高架橋の上で放たれたそれに、かすかな焦りを感じ取る。何かを急いているような、けれど高揚を押さえきれないような。そんな気配を感じてにわかにこちらも鼓動が早まった。未だ明かされない画策、初めて見る仙台の街並みを堪能する間もなく、強く手を引かれ速足で歩いていく。
「ねぇ、どこいくの」
一体どのぐらい歩いたのだろう。どこをどう辿ってきたのか、方向も距離感も掴めず苛立ちが募る。はっきりとした答えをくれない背中に、今度こそ文句のひとつも言ってやろうかと思ったその時だった。
「え……」
彼が角を曲がったと同時に、予想外にまばゆい光に包まれる。あまりの眩しさに思わず目を閉じ怯んだが、再びゆっくりと瞼を開けると、美しく幻想的な光景が目の前に広がっているのが分かった。
「なに、これ」
通りに整然と植えられた並木。その一本一本に数百、いや数万とも数えられよう電球が瞬いている。
「やっぱり、点灯式には間に合わなかったか」
隣に並んで立つ彼の、そんな知ったふうの言葉に首を傾げる。
「カナちゃんは『SENDAI光のページェント』って知ってる?」
「え」
「僕らが生まれる前からあった、結構歴史のあるイベントなんだって。前に旅行雑誌で見かけて、いつか一緒に見に行きたいなぁと思ってたんだ。仙台支社に今年転勤になった先輩にたまたまその話をしたら、宿泊先を確保してくれてね。今日から三日間の行程で僕らを招待してくれたんだ」
「そうだったの。でも、そんな贅沢いいの?」
「結婚祝い代わりだって言ってくれてたから、僕は完全に甘えるつもりだけどね」
向けられた柔らかな笑みに、心臓が跳ねて頬が熱くなる。
「ちょっと強引だったし、クリスマスにはまだ早いけど……気に入ってくれた?」
少しだけ申し訳なさそうに、こちらをうかがう様子が覗く。しかし、振り回された怒りを抱いていたはずが、もはや嬉しさやわくわくの方が台頭して今はどうでもよくなっていた。言葉の代わりに、静かに身を寄せて促す。
「どうせ隠れて色々情報収集してたんでしょ? だったらちゃんとガイドしてよね」
「もちろん、よろこんで」
安心したように笑う。優しい明かりを背にしたそれにどきりとしつつ、予感が的中したことに小さな幸せを感じてこちらも笑った。