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そこに棲むモノ

作者: 成実希

 蔵の分厚い扉を開けると、冷んやりとした空気が外へと流れ出してくる。女の冷たい指

先で頬を撫でられたような気配に、藤澤光輝〈ふじさわ・こうき〉は身震いした。

 光輝の家には江戸時代に造られたという土蔵がある。一階部分のなまこ壁が独自の幾何

学模様を描き、当時の左官職人の腕と藤原家の繁栄が偲ばれる。しかし内部は、年代物の

家財道具から使わなくなった光輝のおもちゃまでが雑然と置かれ、ただの物置と化してい

た。

 光輝は急な階段を登り、二階の窓を押し開けた。蔵の中に溜まっていた埃がふわっと舞

い上がり、外から射し込んだ光にキラキラと輝く。

 「たまには掃除しろよな」

 光輝はTシャツの襟ぐりを鼻の上まで持ち上げてマスク代わりにし、母の知香子〈ちか

こ〉が二階に仕舞ったという古い花器を探した。知香子は「母さんの力じゃ、重くてムリ」

と同情を誘うような目で光輝に言ったが、ムリなのはきっとこの埃の方だろう。ちゃっか

りしているところは、祖母の志乃〈しの〉にそっくりだ。

 何段にも積まれた桐の箱を一つ一つ丁重に開けていると、階下で内扉が開く音がした。

手すりから覗くと、姉の知紗〈ちさ〉だった。手伝ってもらおうと顔を出しかけると、知

紗が誰かの手を引っ張っている。光輝は咄嗟に茶箱の陰に隠れた。

 蔵の扉が閉められ、窓からの光だけが階下を薄っすらと照らす。

 「ここなら誰も来ないし、声だって漏れないよ」

 「けど、ホコリっぽくない? 俺、アレルギーなんだよなぁ、ハウスダスト」

 「ユキオん家だって、掃除してないでしょ」

 知紗がそう言って拗ねてみせると、ユキオという男は少し躊躇ったものの、「まあ、い

いっか」とTシャツを脱いで上半身裸になった。知紗もブラウスのボタンに手をかけてい

る。

 「ウソだろ」

 姉の喘ぎ声など、聞きたくもない。

 「ニャー」と鳴いてみようかと思ったが、いつもは閉めっぱなしの蔵で猫の鳴き声とい

うのは嘘くさい。ネズミならいるかとも思ったが、いざ鳴こうと思うと鳴き声を聞いたこ

とがないことに気づいた。

 光輝は慌てて辺りを見回し、持ってきていたペットボトルのトマトジュースを手に取る。

他に方法が思い浮かばず、ジュースを片手いっぱいにこぼすと、二人の頭の上を目掛けて

振りまいた。

 「冷たっ!」

 ジュースの水滴が、ユキオの肌に的中したらしい。

 「雨漏りしてない?」

 外は雲ひとつない青空だった。

 「この期に及んでそんなこと言う? そんなに嫌なの、私とヤルの?」

 「いや、まあ、というかさあ‥‥」

 言葉を濁しながらも知紗のボタンに手をかけたユキオの顔色が変わった。

 「なあ、このシミ何? さっきまで無かったよなあ」

 知紗の白いブラウスに赤いシミが点々と付いている。

 「ほんとだ、何だろう?」

 「やっぱやばいわ。悪いけど、俺、帰る」

 ユキオは素早くTシャツを着ると、知紗を振り返ることなく出て行った。

 「あーあー、もう。何が、やっぱやばいだよ。勝手に決めつけんな」

 知紗は赤いシミの匂いを嗅ぐと、鼻を膨らませて大声を上げた。

 「コーキーっ! 出てこないと、後で酷いからねーっ!」

 知紗を本気で怒らせたら怖いことは、光輝もよく知っている。口が立つ上、手も早く、

光輝は未だケンカで勝ったことがない。特に自分の身は自分で守ると、知紗が合気道を習

い出してからは、極力怒らせないように気も遣ってきた。だけど‥‥。

 「仕方ないだろ。思春期の弟がいるのに、男を引っ張り込んだりしてさ」

 光輝の姿を見ると、知紗の怒りはさらに増大する。

 「居るなら居るって言いなさいよ!」

 「外の鍵、外れてただろ。それに、言うタイミングなんかなかったし。入ってくるなり

さあ‥‥」

 弟に見られていたことに羞恥心を覚えたが、知紗はそれをも怒りに変えた。

 「このブラウス、どうしてくれるのよ。お気に入りだったのに。弁償してもらうからね。

ジュースのシミなんて落ちないんだから。ああ、もう最悪。アンタのおかげで、全部台無

し。ほんと、いろいろ、どうしてくれんのよ」

 「ジュースだって、よく分かったね」

 光輝が心の中でそう呟いた時、知紗が「えっ?」と、頭上を仰いだ。

 パラパラと赤い水滴が降ってくる。光輝は目の前にいて、しょぼくれた顔で黙って自分

の文句を聞いている。トマトジュースが、知紗のブラウスに新たなシミを作った。

 「ウソっ。ナニ、やだ」

 知紗は突然取り乱し、光輝を置いて蔵を飛び出した。

 「何だよ、急に。ワケ分んねぇ」

 そう言って光輝が振り向いた時だった。

 トマトジュースが正面から顔にぶちまけられ、目を開けると自分と同じ年くらいの少年

が、空のペットボトルを持っていた。

 「えっ?」

 光輝の思考が停止する。

 「えっ?」

 少年は、不思議そうに光輝の目を覗き込んだ。

 「誰?」

 反射的に言葉が口をついて出る。

 「見えるのか?」

 少年は驚いたようにそう聞いた。

 「いやいやいや、何言ってるの? っていうか、おたく誰?」

 「ほおー、見えるのか。コウキ君だよなあ。コウキ君かあ。次はチサちゃんの子供かと

思っておったが、コウキ君だったとはなあ。久しぶりだな、コウキ君」

 興奮した少年は、中年のオヤジのような口調で捲し立てた。見た目と言葉遣いのギャッ

プに戸惑いはあったが、根本的な疑問が光輝の頭を支配する。

 「だから、誰だよ。俺、アンタに会うの初めてなんだけど」

 「そうか。あの時はまだ子供だったからな。覚えてなくとも無理はない」

 妙に泰然とした態度に腹が立ち、光輝は思わず少年の肩を掴んだ‥‥はずだった。だが、

その手は空を切り、勢い余って前につんのめった。

 「えっ?」

 腰が抜けるとはこういうことか。足腰に全く力が入らず、立ち上がれない。ほふく前進

で蔵の扉まで行こうとするが、冷気が脚にまとわりついて前に進まない。下手な平泳ぎの

ように脚をかき続けるうちに、少年は光輝の顔の前に回り込んでいた。

 「待ってくれ。怪しいモノではない」

 「いやいや、充分怪しいだろ」

 光輝が体の向きを変えると、少年も瞬間移動する。

 「お前が恐れるようなモノではない。この蔵で、子供の頃に一緒に遊んだではないか。

お前の勉強も見てやった」

 「人違いでしょ。俺、知りませんから。お願い、助けて。ここから出して」

 「助けるも何も‥‥」

 少年はそう言いかけて、蔵の中を見回した。そして思い立ったように、「その古い腕時

計をお前の腕にはめてくれ」と言った。

 「はめたら逃がしてくれますか?」

 光輝はただこの場から立ち去りたかった。こんな理屈で考えられないこと、本来は信じ

ないタチなのだ。なのにいざ自分の身に降りかかると、手も足も出ない。思考も停止して、

言うなりになるしかなかった。

 ほふく前進で少年が指差す方へ向かうと、小さな桐の箱から金色のメタルバンドの腕時

計が飛び出していた。自分の趣味ではなかったが、そんな文句を言っている場合ではない。

寝そべったまま左の手首にはめると、止まっていた針がくるくると回り出し、六時十分を

指して止まった。いつの間にか、扉の外から夕陽が射し込んでいる。

 「ウゲッ」

 光輝が泣きそうな声を上げる。もうこれ以上、不可解な体験など真っ平だ。

 「いいか。これからずっと付けていろよ。一日中、ずっとだ。外したら、お前に憑いて

やるからな」

 少年は威圧的にそう言った。最初に姿を現した時より、何だか強気になっている気がす

る。だがここは、言うとおりにすべきだろう。それに扱いを誤って憑かれるより、分から

ないことは聞いておいたほうがいい。光輝はふと浮かんだ疑問を投げかけた。

 「風呂も、ですか?」

 光輝がおずおずと尋ねると、少年は答えた。

 「風呂は‥‥まあ、いい。濡れると良くないからな」

 至極まっとうな答えだった。

 「だが外していいのは、風呂とこの蔵の中だけだ。いいな」

 「はい‥‥。あのー、もう立てますか?」

 「ああ、もちろん立てる。お前が勝手に腰を抜かしたのだからな」

 「いや、だって、さっき脚を‥‥」

 言い訳がましい言葉を並べながら、光輝はゆっくりと立ち上がった。そして、「それじ

ゃあ、戻りますね」と扉に向かって後ずさりした時、少年が強い口調で呼び止めた。

 「待て。まだ行ってはならん。私を連れて行け」

 そう言うと、少年の姿は一瞬で光の粒子の集合体に変化し、腕時計の中に吸い込まれて

いった。

 「ええーっ?!」

 光輝は気の抜けたような声を出し、再び腰を抜かした。


 心なしか時計をした左腕が重い。

 高校の制服に不釣り合いな金色の時計が悪目立ちして、光輝は左手首を隠すように教室

へと向かった。

 「おはよっ!」と、後ろから追い抜いてきたクラスメイトが、教室の入り口で言う。中

央で輪を作っていた男子たちが、「オスッ」「おはーッ」と口々に返した。その声を素通

りして、光輝は窓際の席に着いた。

 自分に挨拶されたなどと間違っても勘違いはしない。小学生の頃からずっと経験してき

たことで、『いじめ』というのとは少し違う。ただ少しコミュニケーション能力に欠ける

という理由でクラスの中では下に見られ、同じように下に見られている者たちとも特に仲

がいいわけではないというだけだ。

 やたらとグループを作らなければならない義務教育時代に比べれば、高校は自由がきく。

現に二年生の今まで誰とも話さなくても、学校生活に何の支障もない。ただ授業以外に声

を発しないと、用があって声をかけるのにも勇気を奮い起さなければならないのが情けな

かった。

 男子の騒ぎ声に混じって、鈴を転がしたような可憐な声が入り口の近くで聞こえ、光輝

は顔を上げた。倉田緑〈くらた・みどり〉が長い髪をふわりと靡かせ、教壇の近くに集ま

っていた女子に挨拶していた。

 毎朝、緑を見るたびに「今日こそは!」と決意するのだが、昼休みが終わる頃には緊張

感で疲れ、放課後には「明日でいいか」と気持ちが萎える。自分でも気づかずに目で追っ

ているようで、近頃では目が合うと明らさまに背を向けられていた。

 「あの女に惚れているのか?」

 不意に頭の中で声がした。

 「はあ?」

 思わず声に出してしまい、近くにいた男子たちに怪訝な顔をされる。

 「情けない男だな。惚れた女に声もかけられぬとは」

 「違うから。そういうんじゃないから」

 光輝は頭の中で答えた。

 「私に任せろ。女ひとり手玉に取るなど容易いことだ」

 「手玉ってナニ? 何する気? これから授業だから。頼むから、学校で怪奇ショーな

んてやめてよ」

 「心配するな。そこらへんの分別はある」

 「オバケにどんな分別があるんだよ」

 その言葉が余程気に障ったのか、「無礼なことを言うな」という声を最後に、頭の中の

声は消えた。そして腕時計を押さえた右手の指の隙間から、蔵の中で見たのと同じ光の粒

が飛び出したかと思うと、緑の頭の中に吸い込まれていった。

 「ダ‥‥メッ‥‥」

 おかしな声を発して空〈くう〉を見つめる光輝に、男子たちがニヤケ顏で振り返る。

 「イケナイ妄想はトイレでねー」

 一人が揶揄うと、小さな笑いが起こった。どうやら光の帯は他の者には見えなかったら

しい。光輝は反論する言葉をうまく組み立てられそうになく、「ごめん」と言って、その

場をやり過ごした。

 その日はいつも以上に、緑から目が離せなかった。オヤジの声で「手玉に取る」と言わ

れ、不愉快な想像だけが頭を支配する。「変なことしてみろ。一生、蔵に閉じ込めてやる

からな」と怒ってはみるものの、相手の正体も分からず、何の手出しもできない。下手に

手出しして蔵に閉じ込められるのは、自分の方かもしれないのだ。

 いつものように静かに授業を受けていた緑の態度が急変したのは、四限目の授業が終わ

った時だった。昼休みで生徒たちがバラバラと教室を出て行くと、緑はオヤジのように

「アチーッ」と制服の上着を脱ぎ、シャツのボタンを外し始めた。そして「疲れたー!」

と大きく伸びをすると、その場に倒れた。

 緑と仲の良い女子より先に駆けつけたのは、光輝だった。

 自分の上着を脱ぎ、シャツがはだけたままの緑の上半身に掛ける。「倉田さん、倉田さ

ん」と声をかけて肩をゆするが、緑は意識を戻さない。光の粒が現れないということは、

まだアイツは緑の中にいるのだろう。オヤジ状態の緑が意識を取り戻したら、これ以上何

をしでかすか分からない。

 光輝は緑を背負った。だが、運動とは一切縁のない細い体が不安定によろける。それで

も両足を踏ん張り、不安そうな女子に「家に電話して」と言い残すと、光輝は保健室へと

急いだ。

 幸い保健室に先生はいなかった。光輝は緑の体をベッドに寝かせると、胸元にかけてい

た上着を取り上げた。はだけた白い胸元からピンクのブラジャーが覗く。シャツのボタン

を留めた方がいいだろうかと手を伸ばしてみる。だが途中で目を覚ましたら弁解のしよう

がないと思い、再び自分の上着を掛けると、さらにその上から掛け布団をかけた。

 すると、緑の中から光の粒が飛び出し、光輝の腕時計の中に納まった。

 「何をしている。手篭めにするなら今だぞ」

 「しないよ。するわけないだろ。彼女は大事な人なんだよ。頼むから、もう彼女に取り

憑いたりしないでください」

 光輝が必死で頼み込むと、「まあ、お前がそう言うなら」と、頭の中の声は案外あっさ

りと引き下がった。

 ひとまずホッとして保健室から出ようとしたところに、緑の友達が養護教諭を伴って入

ってきた。先生が布団を捲ると、光輝の制服がそのまま掛かっている。

 「これって、君の?」

 彼女は光輝にそう聞いて、もったいぶるように上着を手渡した。

 「へえー、紳士なんだ。っていうか、絶食系? それともただの‥‥」

 「ヘタレ?」という言葉を彼女は飲み込んだ。

 「男子と二人っきりだって聞いたから、慌てて走ってきたのに、ちょっと損した気分」

 白衣の下の薄手のカットソーの胸元を揺らしながら、まだ二十代そこらの養護教諭は脈

をとったり心音を聞いたりして、「貧血かしらねえ」と学校医に連絡した。


 翌日登校すると、緑の周りに女子が集まっていた。いつもと変わらぬ様子を確認した光

輝は、不審がられる前に目を逸らした。だが女子たちの視線が自分の動きを追っているの

を感じる。「おかしなことはしてなかったはずだ」と、昨日の行動を振り返るが、自信が

ない。緊張で足がもつれ、机につんのめりそうになった。情けなさに、思わず照れ笑いが

浮かぶ。ああ、もう、不気味以外のなにものでもない。

 すると、女子に促された緑が、机の前に立った。

 「藤澤君、昨日はありがとう。私、何も覚えてないんだけど、助けてくれたって聞いて

‥‥」

 「俺、いや、アイツのせいだから」と言いたい気持ちをこらえて、光輝は、「体‥‥大

丈夫?」とだけ聞いた。

 「うん。一応、病院で検査してもらったけど、問題ないって」

 「そう、良かった」

 光輝は心から安堵した。緑の体調のことだけではない。教室の雰囲気からして、彼女の

評判を落とさずに済んだようだった。それにアイツが取り憑いても、すぐに人格が変わっ

たり、人命に関わったりしないことも分かった。

 「当たり前だ。私にも分別があると言っただろ」

 不意に頭の中に声が聞こえ、光輝は思わず左手首の腕時計を握った。緑のことがあった

から、昨夜風呂上がりに付けるのをよそうかと思ったのだが、「外したらお前に憑く」と

いう言葉を無視できずにいた。

 急に緊張した面持ちになった光輝に、緑もキョトンとする。

 この表情だ。あの時もこんな顔で俺を見つめた後、満面の笑顔を見せたのだ。

 話すなら、今しかない。

 「倉田さん、ちょっと、聞いてもいいかな」

 「なに?」

 「多分、十年以上、前のことなんだけど‥‥」

 そこまで言って、緑を取り囲んでいた女子たちが自分たちを注目している様子が見えた。

 「ごめん。また、‥‥今度」

 そうだ。こんなところで聞けるような話ではない。緑と話せた嬉しさに舞い上がってし

まったが、もっと落ち着いて話すべきことだ。

 光輝の言葉に緑は小首を傾げると、用は済んだとでもいうように足早に女子の輪の中に

戻っていった。


 光輝が通う県立高校は、今年、隣町に建つ私立学校の生徒の転入を受け入れた。

 十年ほど前、市街地の外れに大規模な新興住宅地が開かれた折に、人口増加を見込んだ

学校法人が小中高一貫教育の学校を創設したのだが、生徒数が予想ほど増加せず、経営破

綻したためだった。

 これを機に、県内唯一の男子校だった光輝の高校は共学に転換。一時は卒業生や一部の

地元の人々の反対運動もあったが、いつの間にか立ち消えになっていた。

 それは、すでにこの町の住人の半分以上が、生まれ育った土地を捨てて出て行ったこと

と無関係ではない。

 住宅地の開発に伴って、多くの人々が土地を離れ、新たな居住地を求める人々が移住し

てくる。だが新興住宅地を終の住処にする人は少なく、四、五年もすれば新たな流入者を

迎えた。そうして人の入れ替わりが激しくなると伴に、歴史ある宿場町の名残は徐々に薄

れ、学校も伝統を守るだけでは運営できなくなっているのが実情だった。

 光輝は、共学になって転入生を迎えたところで、今の学校生活に変化があるとは思えな

かった。だから何の期待もしていなかったのだが、教室に転入生が入ってきた時、数名の

女子の中に、記憶の底の方に眠っていた面影を見つけた。

 それが、倉田緑だった。

 大きな瞳をキラキラと輝かせ、前髪を眉の下あたりで真っ直ぐに切り揃えた黒髪の乙女

は、子供の頃に出会った女の子とそっくりだった。

 どこの家の子か、何という名前だったかも覚えていない。だが金魚の絵柄が入った赤い

着物を着ていたことだけは、今もはっきりと思い出すことができる。そして、たった一度

会ったその少女と、将来の約束を交わしたことも‥‥。

 子供のたわいない思い出といえばそれまでだが、緑を見て以来、光輝はその少女のこと

がずっと頭から離れなくなっていた。もしかしたらそんな夢を見ただけなのかもしれない

し、テレビや漫画のワンシーンを自分の記憶としてすり替えてしまったのかもしれない。

だがたまに、その時の少女が夢に出てくる度に、彼女と指切りをした時の感触がよみがえ

ってきて、やはり現実にあった記憶なのだと胸を高鳴らせていた。

 あの時のことを、緑に何て言おう。淡い初恋のような気持ちを、彼女に伝えることがで

きるだろうか。その前に、彼女は自分のことを覚えてくれているだろうか。

 ただ淡々と過ごしてきた学校生活が、緑の登場によって、期待と不安と自己嫌悪という

自分ではコントロールできない感情の日々に変わっていた。


 光輝が食卓につくと、サラダのボウルを抱えた知香子が、金の腕時計を見て言った。

 「また余計なもの、引っ張り出してきたわね」

 「これ、お父さんの形見じゃなかった?」

 咄嗟に隠した光輝の左腕を持ち上げて、知紗が言った。

 「余計なものなんて、言わないでちょうだい。元々はお祖父さんの時計よ」

 先にビールで晩酌を始めていた志乃が不満を口にする。

 「まずかった?」

 母が毒付くのを久しぶりに聞いた光輝は、恐る恐る尋ねた。

 「まずくはないけど、縁起の良いものでもないのよ」

 投げ捨てるように言う知香子の言葉に、志乃は黙ってビールをあおった。光輝はトレー

ナーの袖を伸ばして時計を隠した。

 光輝が知る限り、藤澤家はかつてこの辺り一帯の土地を有する大地主だった。だが祖父

が早くに病死したため、祖母は遊ばせていた土地を売って、母との生活費に充てたらしい。

そして趣味で習っていた日舞の師範となり、家の応接間を稽古場にして教室を開いた。

 一人っ子だった母は30代半ばで結婚し、高齢出産で知紗と光輝を生んだ。だが結婚生活

十年足らずで父が事故で亡くなり、藤澤家は再び一家の大黒柱を失った。若い頃に華道の

師範免状を取っていた母は、それ以来、祖母と同じように教室を開いたり、イベントなど

に出向いたりして生活費を稼いでいる。

 知紗も光輝も何不自由なく育ててもらったが、かつての藤澤家を知る土地の人たちから

は、『没落した家』と見られているようだった。そのためか祖母と母の教室に来る生徒以

外は人の出入りがほとんどなく、この町に残る他の名家とは明らかに一線を画していた。

 母の「縁起の良いものでもない」という言葉の意味するところが、光輝にはそんな事情

と無関係ではない気がした。


 「お願いだから、今日は大人しくしていてください」

 光輝は教室の前の廊下で、腕時計を握って頭の中でそう念じた。

 ここのところ、アイツが頻繁に話しかけてきていた。光輝の視線の先を感じとるのか、

目に入ったものや考えたことの全てに反応する。

 廊下ですれ違った女生徒の容姿や、教師の授業の仕方。パソコンを起ちあげれば、その

メカニズムについて。学級会が開かれれば、人の意見に文句を言う。あまりの鬱陶しさに

無視を決め込むと、「憑くぞ」という低音の脅し文句が響く。おかげで授業中に指されて

もまともに答えることができず、『勉強もできない奴』というレッテルが加えられそうに

なりつつあった。

 「お前がつまらなさそうにしているからだ」と、頭の中でアイツの声が響く。光輝の頼

みは、今日も聞き入れられそうになかった。

 「学校なんて、基本的につまらないものなんだよ。面白くなくていいの。変に目立っち

ゃう方が、よっぽど困る。俺、勉強くらいはできないとマズイんだよ」

 「何を言ってる。ただ年が上だというだけで偉そうにしている奴らに教わらなくとも、

お前は本を読むだけで理解できるだろう」

 「そうだけど‥‥いや、それじゃあダメなんだよ。学校っていうのはさあ‥‥」

 「ああ、分かった分かった。本当にお前はネチネチとした男になりおって。私は、面倒

な人間は好かん」

 「それは、こっちのセリフですぅー。俺だって、アンタがいなかったら‥‥」

 「ああ、疎ましい。それなら、他の者に憑いてやろう」

 そう声が響いたかと思うと、腕時計から光の粒子が飛び出し、たまたま教室から出てき

た大黒碧〈おおぐろ・あおい〉の背中に吸い込まれていった。

 「ああっ!」

 思わず叫んだその声に、大黒は一瞬動きを止め、振り向いて舌を出す。

 光輝はとんでもない失言をしてしまったことに、今さらながら後悔した。

 大黒はクラス委員で、生徒からの信頼も厚い。背も高く、利発そうな顔立ちで、彼と付

き合いたいと公言する女子も多い。没落した藤澤家に比べ、大黒家は今も地元の名家で、

跡取りである碧はクラスのヒエラルキーにおいても別格だった。

 まずい。アイツは「惚れた女を手篭めにする」などという奴だ。大黒をおやじキャラに

してしまったら、女子に何をしてしまうか分からない。そうなれば彼はこれまでの人望を

一気に失ってしまう。

 下手をすれば、緑に取り憑いた時より悪い状況になりそうで、光輝は焦った。

 それに緑の時は昼休みまで何の変化もなかったが、大黒に取り憑いた時の態度を考える

と、すでに大黒の意識を乗っ取っている可能性もある。あのまま優等生の大黒が普段と違

う行動をとれば、教師も生徒も不審に思うはずだ。

 こうなったら、大黒に張り付いているより他にない。

 光輝は授業中、廊下側の席に座る大黒を窓側の席から注視した。その間の席に座る女子

が、光輝の視線を感じておもむろに片手で顔を覆い、その視線を遮る。

 教室移動の時は、「一緒に行かないか」と声をかけ、体育の授業の前は大黒のロッカー

を開いて、体操着を手渡した。

 その僕〈しもべ〉のような行動に、大黒に憧れている女子たちは不愉快そうな顔をした

が、気にしている場合ではなかった。

 だが実際に張り付いてみると、緑の時よりはるかに気が楽だった。緑に付きまとえば、

ストーカーまがいの汚名を着ることにもなりかねないが、大黒は男だ。更衣室にもトイレ

にも一緒に行ける。あとは倒れた時にどうするかだが、意識を取り戻す前に、アイツに戻

ってもらうよう頼み込むしかないだろう。そのためには何かしらの条件をのむことになる

かもしれないが、やむを得ない。長身で適度に筋肉のついた彼を背負って歩く自信は、光

輝にはなかった。

 午前中の授業が終わり、いよいよかと光輝は身構えた。幸いここまで、大黒が授業で発

言をする機会はなく、体育でのサッカーの試合も無難にこなした。だが問題はここからだ。

 弁当を手に、光輝はそれとなく大黒に近づいた。

 「ここ座ってもいいかな? 俺の席、直射日光が暑くて」と、周囲に聞こえるように、

もっともらしい理由をつけてみる。

 大黒は、「どうぞ」と、隣の席の椅子を引いた。

 「男子にも優しいのか。これは、モテるよな」と、心の中で呟いて、光輝は今さらなが

ら気づいた。アイツが現れていないということは、これまで接していたのは大黒本人の意

識だということに。

 光輝は急に、目に見えない境界を超えてしまった所在無さを感じた。

 「ええっと‥‥ごめんね。なんか、付きまとっちゃってる、みたいな、感じで‥‥」

 光輝の声が上ずる。

 「全然。だけど、急にどうしたのかなって、疑問ではあったよ」

 大黒は表情を変えることなく、そう言った。

 「藤澤君っていつも一人だし、人を寄せ付けないオーラを出してるから」

 「えっ、俺が?」

 「そう。だから、人と関わるのが面倒とか、僕たちのこと、ガキっぽくて相手にしたく

ないのかと思ってた」

 自分に対するイメージが想像とあまりにかけ離れていることに、光輝は驚いた。

 女系家族の中で男子一人の光輝は、幼い頃から大事に育てられた。それは、今思い返せ

ば異常とも言えるほどだった。保育園も幼稚園にも行かず、教諭免許を持った母親くらい

の年の先生が毎日家を訪れて、授業らしきことをしてくれた。小学校に入っても知香子が

車で送り迎えしたので、同年代の子供と登下校したことがない。そのうえ家に帰っても、

知香子や志乃が仕事の時は、蔵の中に閉じ込められた。それが悪さをした罰でないことは、

光輝自身も分かっていた。そもそもいたずらを教えてくれる友達もなく、いたずらを仕掛

ける相手もいない。そうした少年時代が、ひ弱で人見知りの性格にしてしまったのだと、

光輝はずっとコンプレックスを抱いていた。

 不意に黙り込んだ光輝を気遣うように、大黒は続けた。

 「まあ僕も一人でいることが多いから、同じような雰囲気出しちゃってるのかもしれな

いけど」

 「いや、大黒君のは俺とは別だよ」

 光輝は即座に否定した。その言葉に、大黒が片眉をあげて光輝の表情を探る。

 「どう違うの?」

 「その‥‥一人でも全然平気、っていうか‥‥」

 「そうかなあ。だとしたら、藤澤君も同じだと思うなあ」

 「いや、違う。全然、違います」

 大黒は少し考え込んで、「まあ、いいか、どっちでも」と話に無理矢理ケリをつけると、

「今日みたいな藤澤君も、いいと思うけどなあ」と、暢気な口調で言った。

 「えっ?」

 光輝が大黒の顔を見ると、彼は柔和な笑みを向けた。

 ダメだ。女子でなくても吸い込まれてしまいそうになる。

 あまりの照れ臭さに目を背けようとした時、大黒が長い舌を出して「ベーッ」と言った。

そして、「はあ?」と光輝が声を上げた瞬間、光の粒子が大黒から光輝の腕時計へと戻っ

て来た。

 「どっちだよ」

 頭の中で尋ねるが、返事はない。かといって、大黒にもう一度本心を聞くのは恥ずかし

過ぎる。

 「大黒君‥‥体、大丈夫?」

 一瞬動きの止まった大黒を、光輝は覗き込んだ。

 「ああ、うん。昼食食べて、急に眠気が襲ってきたみたいだ。でも、もう平気。さあ、

次は古文だね」

 大黒が倒れることなくアイツが戻って来たことに、光輝は胸をなでおろした。

 

 「あの男は、お前のことを気に入っているようだな」

 放課後、帰り支度をしていた光輝の頭の中で声がした。

 「ということは、さっきのは大黒君の本心だったということだね」

 嬉しそうに返す光輝に、「さあな」という素っ気ない返事が返ってくる。

 「なんだよ、教えてくれてもいいだろ。折角いい感じに‥‥」

 「ほおー、お前が惚れているのは、あの男か」

 光輝の思いを遮って、楽しそうな声が響く。

 「いや、違う。それ、勘違いです。本当に違うから」

 この流れの後に起こることが想像できて、光輝は左腕を制服の下に突っ込んだ。だが金

時計を隠したところで、抑えられるわけはない。

 「それではもう暫し、あの男に憑いてやろう」

 脳内に声を残響させて、光の帯は再び大黒に向かっていった。

 「だよなー‥‥」

 学習能力のない自分に呆れ果て、光輝は大黒が帰っていくのを見送った。

 家の中でおやじキャラが現れたところで、家族なら笑って済む話だろう。そもそも家で

の大黒がどんなキャラクターなのかまでは分からない。あの優等生キャラだって、学校の

中だけのことかもしれない。でなければどこで息抜きをするというんだろう。自分ならと

っくに人格崩壊しているはずだ。自分が心配するのは、学校にいる間だけでいいだろう。

 それにもし‥‥このまま大黒に取り憑いたとしたら、厄介払いができる‥‥かも。

 そんな邪な考えさえ浮かんでくる。

 「久しぶりに、古本屋のハシゴでもするかなあ」

 心の中で呟くが、当然ながら返事はない。ふと返事を待っている自分に気づき、「いや

いやいや。これが本来の自分だから」と頭を振った。

 「大黒君、ごめん」

 胸の前で小さく手を合わせて、光輝は教室を出て行った。


 大黒の家は、市街地の中でも一等地にあった。石垣塀に囲まれた重厚感のある屋敷で、

立派な瓦屋根が黒光りしている。家の近隣には大黒の名を冠した病院や保育園、地場産業

の石材所や造園業者などが散在して一つの町を形成し、今も名家の隆盛を誇っていた。

 広い間口の数寄屋門に向かうアプローチの途中で、大黒は急に足を止めた。止まるつも

りはないのだが、足が動かない。突如体から力が抜け、立っていられなくなる。家人を呼

ぼうとスマホを取り出したところで、彼は意識を失った。


 光輝は商店街の古本屋にいた。日に焼けた少年漫画の背表紙を、棚の端から全てチェッ

クするつもりでいたのだが、本のタイトルがいっこうに頭に入ってこない。目だけは動い

ているので、上の段から下の段へと移動はしているのだが、記憶が欠落していることに気

づき、また上段から見始めるという繰り返しだった。

 「やっぱり、まずかったかなあ」

 小さな本屋で思わず声に出してしまい、周囲を見回す。

 その時、携帯電話のバイブが胸を震わせた。

 「うわぁ!」

 滅多にかかってこない電話に驚いて、慌てて店の外に出る。だが古い液晶画面には、相

手の名前も電話番号も表示されていなかった。嫌な予感がして通話ボタンを押すと、聞こ

えてきたのは大黒の声だった。

 「早く来い」

 それはまさしくアイツの口調だった。

 「来いってどこに?」

 「この男の家だ。ここはダメだ、奴がいる」

 「奴って誰?」

 「いいから早く来い。来ないと、お前に一生憑いてやる」

 大黒の苦しそうな声に、光輝は動揺した。

 「大黒君は? 無事なんだろうな!」

 その質問に答えることなく、電話は切れた。


 大黒は、アプローチの途中に設えられた大きな御影石にもたれかかっていた。

 慌てて駆け寄ると、光の塊が光輝めがけて突進してくる。その勢いに体が弾かれ、敷石

の上に尻餅をついた。

 「遅い! 早く来いと言っただろ!」

 突如、頭の中にアイツの声が戻ってきた。

 「だから、走ってきたよ」

 「お前は足が遅すぎる! 鍛え方が足りんのだ! もう少しで消えるところだったでは

ないか!」

 「消えるって、何が?」

 アイツの声が答えを躊躇っている。

 「‥‥何でもない。もう疲れた! 帰るぞ!」

 「ダメだよ。意識が戻るのを待って、家の中まで連れて行かないと。このまま放ってお

けるわけないだろ」

 「あの男は大事無い。すぐに目覚める」

 「何勝手なこと言って‥‥」と、体を起こして大黒に歩み寄ろうとするが、体が前に進

まない。見えない壁にからだ全体が押し返されているようで、特に時計をはめた左腕は後

ろの方へ引っ張られる。

 「何、これ?」

 声は答えない。

 「なあ、どういうことだよ!」

 光輝は思わず叫んだ。

 「この家には、家守〈やもり〉がいる」

 声は忌々しげに言った。

 「ヤモリって、爬虫類の? ええっ? もしかして、苦手なんだ、ヤモリ」

 光輝の言い方に腹が立ったのか、脳を揺らすほどの大声が一喝した。

 「たわけ! 家守というのは、江戸の昔、地主の土地を管理していた者のことだ。その

者の意識が住みついておるのだ」

 「意識が住みつくって‥‥この家にもオバケがいるってこと?」

 「まったく。お前は、自分が理解できないことを何でも化け物のせいにしてしまうのだ

な。オバケではない。いわば、家を守る神だ」

 「神って‥‥」

 光輝は口ごもった。家には立派な神棚があるし、初詣には神社にも行く。だけどそれは

ただの行事であって、願い事が叶うなどと思ったことはない。信仰心の欠片もない光輝に

とって、それは人間が都合よく作り出した概念にしか思えなかった。

 だがそんなことを口にして、ヤモリとやらまでに憑かれてはたまったものではない。

 「神様が他人を家に入れないようにしてるってこと?」

 できるだけ機嫌を損ねないように、頭の中で聞いてみる。

 「そうではない。邪気のあるものを、家の中に持ち込まないようにしているのだ」

 「邪気って、もしかして‥‥」

 光輝が言い淀んでいると、意識を取り戻した大黒が体を起こした。光輝の姿を見つけて

重い足取りで近づいてくる。光輝は敷地の中に入るのを諦め、大黒が来るのを待った。

 「大黒君、大丈夫?」

 「うん。何だろ。急に力が抜けて、意識を失ってたみたいだ。塾の勉強で疲れてたのか

なあ」

 「そ、そうかもね」

 胸は痛むが、ここは流すしかない。左腕を背中に隠して、光輝は相槌を打った。

 「藤澤君は、どうしてウチに?」

 ぼーっとした表情で、大黒は尋ねた。

 「ええっと、たまたま、かな。たまたま通りがかったら、大黒君が倒れてて。今、ちょ

うど今、声をかけようとしたところ」

 光輝の声が上ずる。

 「嘘が下手だな」と頭の中で響く声を無視して、大黒にどうかバレませんようにと願っ

た。

 「そうかあ。心配かけたね。お詫びにコーヒーでも入れるよ。上がっていって」

 いつもの穏やかな微笑みで、大黒が誘う。

 その言葉に、子供の頃からどれほど憧れただろう。

 互いの家を行き来して、相手のお母さんに「お邪魔します」と声を掛ける。夢中で遊ん

でいると、「おやつになさい」などと言って、ケーキやクッキーを持ってきてくれる。

 妄想の中でのシーンが、突然実現しそうになって、光輝は言葉に詰まった。だがここか

ら一歩でも動いたら、家守が何をするか分からない。

 「いや、今日はちょっと用があるから、また今度。ごめんね、ありがとう」と、慎重に

後ずさりして立ち去ろうとする光輝の背後で、女性の声がした。

 「碧〈あおい〉!」

 振り返ると、小さな子供を抱いた女性が立っていた。小柄な体に大きな荷物を肩にかけ、

化粧っ気のない顔から汗が噴き出している。見たところ二十歳前後で、十代と言っても通

るほど幼い顔立ちをしている。

 「お友達?」

 光輝の顔を見て、女性が尋ねる。左腕がピクンと動いた気がした。

 「は、初めまして、藤澤光輝と、い、言います」と、つっかえながらも挨拶すると、

「碧の姉の史花〈ふみか〉です」と、女性は名乗った。

 「姉さん、どうしたの? 珍しいね」

 「今日は、お祖父ちゃん達もお父さんも出かけてるっていうから」

 そう言いながら史花がアプローチに踏み入った途端、抱いていた子供が泣き出した。

 「もう、いつもこうなのよ。自分が嫌われてるって、分っちゃうのかしら。はいはい、

泣かないの。今日はお祖母ちゃんしかいないから、大丈夫よ」

 「姉さん。勇希〈ゆうき〉の前でそんなこと言うなよ。可哀想だろ」

 大黒が嗜めると、史花は「そうね。悪いのはママだもんね」と子供にいじけてみせる。

 二人の間の空気の居心地の悪さに、「それじゃあ」と、光輝は手を振って帰りかけた。

すると子供が、突然、ケタケタケタと笑い声をあげた。どうやら振り上げた左腕に反応し

ているらしい。光輝がもう一度手を振ると、再び、ケタケタケタと可笑しそうに笑う。

 何がそんなに可笑しいのだろうかと、振り上げた腕を見て驚いた。左手首から先がクマ

のキャラクターの人形になっている。「ええっ?!」と、大きな声を出しそうになって、

光輝は慌てて口を押さえた。

 大黒と史花は何も見えないらしく、急に機嫌を直した勇希に「どうしたのかしらねえ」

と、顔をほころばせていた。

 「お前か?」

 頭の中で、光輝は質問した。

 「お前とは何だ。早く中に入れてやれ」

 声は不機嫌そうなのに、クマは愛嬌ある顔で笑っている。いったいコイツは何者なんだ。

そう思ってしまうと、「コイツとは何だ」と臍を曲げられてしまいそうなので、光輝は

「ここで手を振ってるから、中に入ってよ」と、大黒たちに笑顔で言った。

 大黒は「今度来た時は上がってってくれよ」と言うと、史花の背中に手をあてて数寄屋

門の奥へと消えていった。

 「忌み嫌われた子だな」

 頭の中で声がする。

 「どういうこと?」

 「禍をもたらす子だと、家守が判断したのだろう。その気を感じ取って泣き出したのだ」

 「あんなに可愛い子なのに? 子供が災いをもたらすなんて、聞いたことないよ」

 「あの家の存続を脅かすものなのだろう。生まれてはいけなかった子、なのではないか

な」

 「そんな‥‥。家守って、神様なんだろ? 子供にどんな罪があるっていうんだよ」

 「家の富を守り、その家の永劫の繁栄を叶える。そのためにはどんな邪気も寄せ付けな

いのだ」

 さっき史花が言っていた、「嫌われている」という言葉が光輝の頭に浮かぶ。理由は分

からないが、家族に嫌われる子供などいていいはずがない。

 だが、「邪気」という言葉を聞いて、もう一つ思い出した。

 「どんな邪気も寄せ付けないってことは、さっき大黒君が倒れたのは‥‥」

 意味深に話す光輝に代わって、声が答えた。

 「そうだ。私を邪気だと判断して、あの男から引き剥がそうとしたのだ。ええいっ、思

い出しても腹が立つ。もう少しで私は‥‥」

 じっと聞き入る光輝の中で、声が止む。

 「それで、消えそうになったんだあ。憑いた人間から引き剥がされると、消えちゃうん

だあ」

 弱点を見つけて、光輝はニヤリと笑った。

 「そんなことは、よほど力の強いやつでなければない。この家の家守は特別だ」

 精一杯強がっているのが、声で分かる。

 「大丈夫だよ。面白半分で人に憑いたりしなければいいんだから」

 光輝の皮肉に無言を決め込んだようだった。静かになった頭の中に、光輝はふと尋ねて

みた。

 「アンタは、家守とは違うの? 家とか家族とか、守ってくれないのかなあ。大黒ん家

みたいに金持ちじゃなくてもいいんだけどさ。母さんと祖母ちゃんが、もうちょっとだけ

楽になるとかさ。そういう神様、ウチにはいないのかな」

 「残念ながら、今のお前の家にはいないな。私はあの蔵に住んでいるが家守ではない。

人か物にしか憑けないのだ」

 光輝を哀れむように、その声は穏やかに響いた。その思いが伝わってきて、光輝の心に

重石をつける。

 「なーんだ。全然ダメじゃん」

 わざと明るい声でそう言うと、「帰るぞ」と、優しい声が頭の中で言った。


 光輝が玄関の扉を開けると、知紗が上がり框に腰を下ろし、編み上げのブーツに紐を通

していた。季節外れのノースリーブのニットに、フェイクレザーのミニスカート。金メッ

キのチェーンのネックレスをつけて、髪をたて巻きにしている。

 「いかにも、ナンパ待ちしてますって感じだね」

 古い建物にそぐわない恰好に光輝が悪態をつくと、知紗は「デートよ、デート」と光輝

を睨みつけた。

 「このあいだの男? 気が小さくて、ハウスダストアレルギーって分かりやすい嘘つい

て、姉貴から逃げた」

 「逃げてないわよ。アンタねえ、母さんたちにチクらないでよ。バラしたら、ぶっ飛ば

す!」

 「ヤルことヤッてるくせに紹介できないんだ」

 「ガキがあ、生意気なこと言ってんじゃないわよ。その時が来ればするわよ。やっとモ

ノにできそうなんだから、邪魔しないでよ。地元出身じゃなくて、こっちの大学通ってる

男なんて、そうそういないんだから。それにカッコイイし、モテるし」

 「どんな条件だよ。地元に居たいの、居たくないの?」

 それまで機関銃のように喋りまくっていた知紗が動きを止めて、「男のアンタには分か

らないわよ」と呟いた。

 「夕食は、アンタ一人だからね」

 紐を結んだブーツの具合を確かめるように両足を踏み鳴らすと、知紗は投げ捨てるよう

に言った。

 「二人とも仕事?」

 「そう。お母さんは公民館、お祖母ちゃんは奥で教室」

 「姉貴は気楽だな。こんな時間からデートなんて。せっかく東京の短大出たんだから、

もっとバリバリ働けばいいのに」

 「働きたいからって働けるもんじゃないのよ。それに、ちゃんと朝からバイトしてきた

もん。学生のアンタに言われたくないわ。‥‥っていうか、今日は珍しく絡んでくるわね。

私に絞められたいわけ?」

 「いえ、行ってらっしゃいませ」

 あえて丁寧な言葉で知紗を見送ると、光輝は鞄を持ったまま台所に行き、冷蔵庫の中を

覗いた。

 「肉も野菜もあるなぁ。二人とも帰ってきたら飯にするだろうし、カレーでもつくっと

くか」

 ドアを閉めながら、ふと気づく。この頃、独り言が多くなっている気がする。

 「アンタのせいじゃないんですかね」

 腕時計を見ながらそう呟いて、光輝は米を研ぎ始めた。


 美術の時間、二人組になって互いの肖像画を描くように、教師が指示した。

 他の生徒が組み終わってからどうするか考えようとじっとしていた光輝に、大倉が声を

かけた。

 「藤澤君、一緒にやらない?」

 スクールカーストに逆らうような大黒の言動に、生徒の視線が集まる。

 光輝のクラスは男女とも奇数で、こういう場合、男女がペアになることもある。カース

トの底辺にいる光輝だけでなく、大黒も普段から誰ともつるむことがないため、女子にと

ってはペアになるチャンスでもあった。それを光輝に持って行かれたという雰囲気が、な

んとなく美術室に漂う。

 「俺、美術1だけど、いいのかなあ」

 声をかけられて嬉しい気持ちと、クラスの中で目立ちたくない気持ちが、光輝に妙な言

い訳をさせた。アイツが取り憑いていた時は、周囲の目など関係なく大黒にくっついてい

たのに、理由を失ってしまうと、やはり立場の違いをひしひしと感じる。

 「成績は関係ないよ」

 爽やかな笑顔で、大黒が答える。大黒に誘われて断る者はいないが、それ以前に、相手

が断れない雰囲気作りが上手いのだろう。にも関わらず、事ある度に断っているのが申し

訳なく感じられた。

 「でも、俺、カッコ良くなんて描けないし」

 「カッコ良く描く必要なんてないよ、デッサンなんだから。早くそこに座って、イーゼ

ル立てて」

 及び腰の光輝を、大黒が誘導する。光輝は腹をくくって、スケッチブックを広げた。

 描き終えたデッサンは、案の定悲惨なものだった。目鼻の大きさやバランスを欠いた顔

は、ちっとも大黒の特徴を捉えていなかった。

 だが互いに見せ合うように教師に言われ、渋々大黒に見せると、「想像よりちゃんと描

けてるよ」と言って、彼はハハハと笑った。そして「僕のは、これ」と、大黒が描いた光

輝の顔を見せてくれた。

 それは、口角を上げてにっこり笑った光輝の顔だった。誰か他の人の顔のようで、こそ

ばゆい。こんな表情、家族が撮った写真にもないだろう。

 「これ、俺?」

 「そう。この間、勇希を笑わせてくれた時、こんな感じだったよ」

 「それにしても、出来すぎ、かな」

 「多少はデフォルメしてるかもね」

 そう言って、大黒はまたハハハと笑った。ユーモアが板についているところも光輝とは

違う。

 「この間は、変なところ見せてごめん。でも助かったよ」

 「ユウキ君、だっけ? あの後、大丈夫だった?」

 「うん。笑い疲れたのか、急に眠ってしまって」

 その言葉に、光輝は頭の中で「アンタか?」と短く尋ねた。だが返事はなかった。

 「あんな風に笑うの珍しいって、姉さんが言ってたよ。‥‥そうだ。今日の放課後、時

間ある? 僕、塾まで少し時間があるから、ちょっと寄ってってよ」

 「じゃあ、お言葉に甘えて‥‥」

 少し照れながら返事をすると、そのあとの授業はほとんど頭に入らなかった。


 大黒家のアプローチの手前で、光輝は緊張した。腕時計は学校に置いてきたが、この間

のように、見えない壁に押し返されたらどうしようかと不安になる。

 アイツがいないのに入れなかったら、自分に邪気があるということになるのだろうか。

 学校で人の輪に入れないのは慣れているが、ここで弾き出されたら、大黒のためになら

ない存在だと判断されるようで不安になる。

 知らずに左手首を握っている光輝を見て、大黒は尋ねた。

 「あれ、腕時計してなかったっけ?」

 光輝はドキッとした。

 「ああ、うん。学校で外してそのままにしてきたみたい」

 「取りに帰る? 大事なものなんじゃないの?」

 「そんな風に見える?」

 「うん。あの時計してくるようになって、いつも手首を触ってるから」

 大黒が自分のことをよく見ていることが、光輝は意外だった。

 「ロッカーの中に入れてあるから、明日で平気」

 「そう。じゃあ、行こうか」

 大黒の後ろを、重心を低くして身構えながら歩く。だが光輝を阻む気配は全くなかった。

 学校で大黒に誘われて二つ返事で承知したものの、光輝は腕時計をどうすべきか迷った。

初めの頃に、「外したら憑く」と脅されていたことが頭にあった。だが緑や大黒に憑いて

も、アイツは無茶をしない。それにそもそも、風呂に入る時は外している。「憑く」とい

うのが、単なる脅しのようにも思えていた。それに、アイツが消えてしまうのを恐れてい

るのなら、無理に持って来ない方が良いように思えた。

 「明日、ちゃんとつけるから。引っ剥がされるよりはいいよな」

 そう心の中で言って、教室のロッカーの中で静かに外した。頭の中は無音で、光輝の体

にも異変はなかった。

 大黒の家は外から見るイメージそのままで、長い廊下の両側に幾つもの部屋が並び、黒

光りした太い柱と細かな細工が施された障子戸が、名家の風格を感じさせた。古くても手

入れが行き届いているのは、今も維持するだけの財力を有しているからだろう。家守の力

が強いと言ったアイツの言葉を、光輝は思い出していた。

 「立派なお家だね」

 「広いだけだよ。使わない部屋は物置になってる。藤澤君の家も広いでしょ。確か、江

戸時代の蔵があるって誰かに聞いたことがある」

 「蔵はあるけど、もうボロボロ。家だって改築して昔より狭くなったらしいし、俺の部

屋は床が傾いてるよ」

 「古くからの家は何かと大変だよね。宿命っていうと、大袈裟だけど‥‥」

 大黒の声のトーンが低くなった気がして、光輝は話題を変えなければと焦った。だが普

段クラスメイトと雑談することがない光輝は、こういう時に何を話せばいいのか分からな

い。焦れば焦るほど頭が真っ白になって、嫌な沈黙となる。

 すると大黒が、自室に備え付けのミニキッチンでコーヒーを淹れながら、光輝に言った。

 「藤澤君って、倉田さんと仲いいの?」

 「えっ?」

 光輝の声が裏返る。咳払いをして、落ち着くための時間をかせいだ。

 「そんなことない‥‥けど、どうして?」

 「この前、教室で話してたでしょ。彼女が男子と話してるの初めて見たから、ちょっと

意外だなって思って」

 「あれは‥‥彼女を保健室に連れてった時のお礼を言われただけ。彼女と話したのは、

あの時だけだよ」

 そういえば、アイツが大黒君に取り憑いたことに気をとられて、倉田緑に大事な話を聞

いていない。光輝は急に、忘れていた宿題を思い出したような気分になった。

 「そうか。藤澤君が仲いいなら、君に間に入ってもらえないかなと思ったんだけどね」

 「間に入るって‥‥?」

 疑り深い口調になっているのが、自分で分かる。大黒が好意を持ったら、相手が誰であ

れ、断る者などいないだろう。大黒がコクる前に、何とか話だけでもしなくては。光輝の

気持ちが騒つく。

 「大黒君、もしかして、倉田さんのこと‥‥」

 大黒は首をかしげて、言い淀む光輝の言葉の続きを待った。彼はどうもその手の話題に

疎いらしい。そして言葉が続かない光輝を見かねて、大黒は話の先を続けた。

 「ほら、彼女に限らないけど、女子はみんな転入組だから、話すとしても前の学校の男

子だけでしょ。いまいちクラスのまとまりに欠けるというか、一体感がないよなあって、

ちょっと考えてたんだよね」

 さすがクラス委員。考えることが違う。

 光輝は、下世話な感情で早合点した自分が恥ずかしかった。だが、いずれにしても自分

が間に入ったところで上手くいくはずがない。

 「大黒君が直接話したほうが、いいんじゃないかな」

 「僕が? そうかなあ。クラス委員なんていう肩書きがあると、偉そうに聞こえて、反

発されるんじゃないかと思うんだけど」

 大黒が自分の人気に気づいていないことが、光輝は不思議だった。真面目で成績も良く

て、スポーツも人並みにできる。スペックが高い上に人望も厚く、家は資産家と全てが揃

っているのだから、鼻持ちならない自信家になってもおかしくない。なのに自分を過小評

価するところがあって、どんな相手でも受け入れる大らかさがある。自分が大黒のような

キャラなら、何の悩みもなく緑に話しかけることができるだろう。

 もしかして、大黒君なら力になってくれるんじゃないか‥‥。

 そんな思いが、ふと光輝の頭をよぎった。

 「実はさあ‥‥、倉田さんって、もしかしたらなんだけど‥‥その、幼なじみなんじゃ

ないかと思うんだよね。いや、全然確かじゃないから、思い違いってこともあるんだけど

‥‥。でも、ずっとそんな気がしててさあ。でも、どうかなあ、違うかなあ、なんて思っ

たりしてさ‥‥」

 回りくどい光輝の話を、嫌な顔をせず聞いていた大黒は、「確かめてみたら?」とあっ

さりと答えを出した。

 「そ、そうなんだけど‥‥。人に話しかけるの、正直、苦手で‥‥。それに、ほら、や

っぱり、女子には話しかけづらくてさ。幼なじみって言っても、一回会っただけだし。そ

れがすごく可愛い着物着て、おかっぱ頭でさ。指切りしたんだよね。でも、そんなこと覚

えているのって、向こうにしてみたらキモいのかなって。相手が俺じゃあ、がっかりする

んじゃないかなって。ああ、でも、自分から言わなきゃダメだよね。大黒君が言うように、

確かめればいいんだよね。うん、やっぱり、確かめてみるよ。明日、明日こそ、話しかけ

てみる」

 大黒に否定されたり、呆れられたりするんじゃないかという不安が光輝を饒舌にする。

そのうち自分でも何を話しているか分からなくなり、大黒に頼ろうとしていたことが情け

なくなっていた。大黒は途中で何か話したそうにしたが、自分の中で話を完結させてしま

った光輝を、ただじっと見つめていた。


 「倉田さん‥‥」

 放課後、光輝は帰り際の緑に消え入るような声で話しかけた。

 朝からずっと緑の行動を目で追っていたが、いざチャンスが巡ってきてもいつものよう

に気持ちが萎えてしまう。そんな自分を大黒が見ているかと思うと、自己嫌悪はいつにも

増した。

 そのチャンスが、靴箱の前で再び巡ってきた。大黒が近くにいてくれたら心強いのだが、

担任に呼ばれて職員室に行っている。職員室へと続く廊下をチラチラ見るが、戻ってくる

気配はない。珍しく一人でいる緑は、もうローファーに履き替えていた。

 今しかない。

 光輝は勇気を出して、緑の名を呼んだ。

 緑は躊躇うように振り向き、俯いた。だが、光輝が黙ってしまうと、「急いでるから」

と目も見ずに言って、小走りに帰って行った。

 「あっ‥‥のっ‥‥」

 やっと奮い起こした勇気が、その反動で空気が抜けた風船のように萎んでしまう。

 その場にへたり込んだ光輝に、職員室から戻ってきた大黒が「どうかした?」と尋ねた。

惚けたように大黒を見上げた光輝は、タイミングの悪い救世主の登場に泣きつきたくなっ

たが、「なんでもない」と、力なく立ち上がった。

 初めて大黒の家に行って以来、光輝は大黒と行動を共にすることが増えた。帰りも途中

までのわずかな距離を一緒に帰ったり、大黒が塾に行くまでの時間、彼の家で過ごしたり

することも多かった。女子の視線は相変わらず痛かったが、大黒の大らかさが、それを忘

れさせてくれた。そして、いつ大黒の家に誘われてもいいように、時計を学校に置いて帰

るのが習慣になっていた。

 いつにも増して元気のない光輝を、大黒は家に呼んだ。そして暫く使ってないゲーム機

を取り出そうと押入れの奥を探していると、突然、部屋の襖が開いた。

 「あおいー、いるー?」

 同じ高校の制服を着た大柄な女子が仁王立ちで立っている。

 光輝は呆気にとられ、体を仰け反らせた。

 「入って来る時は、先に声をかけろって、いつも言ってるだろ」

 部屋の奥から、大黒が小言を言った。

 だがその女子の視線は、足元で縮こまっている光輝に向いていた。

 「アンタ、藤澤光輝だよね」

 頭の上から凄まれ、光輝は小さく頷いた。すると、目鼻立ちのはっきりした顔がぬうっ

と近づき、右手で肩を掴んだ。

 「最近、緑をストーキングしてるらしいじゃない」

 迫力のある言い方に、光輝はブルブルと首を横に振る。

 「一度くらい保健室に運んだからって、調子にのってんじゃないわよ」

 「ご、誤解です‥‥」

 「何が誤解よ。朝から晩までずーっと緑のこと追っかけて」

 「追っかけては、いないけど‥‥」

 「はあ?」

 殴りかかりそうな勢いの女子の二の腕を、様子をうかがっていた大黒が掴んだ。

 「落ち着いて、玲子〈れいこ〉。そんな怖い顔で迫ったら、まともに話もできないよ」

 「怖い顔にもなるよ。緑、怯えてるんだよ」

 大黒に止められて、玲子という名の女子は、漸く光輝の肩から手を離した。

 「怯えてる?」

 光輝の頭に、靴箱の前で声をかけた時の緑の姿が浮かぶ。様子がおかしかったのは、自

分をストーカーだと思ったからか。やっぱり、緑には挙動不審に映ったのだ。

 最悪だ! 

 光輝にとって、唯一の甘酸っぱい思い出が、ガラガラと音を立てて崩れていく。

 放心状態の光輝に代わって、大黒は玲子に説明した。

 「藤澤君は倉田さんに確認したいことがあったんだよ。だけど話しかけづらくて、タイ

ミングを計ってたんだと思うよ。そうだよね、藤澤君」

 光輝はコックリと頷いた。

 「何よ、確認したいことって」

 なおも玲子は食いさがる。正義感が強くて頑固な玲子の性格を知っている大黒は、光輝

に言った。

 「藤澤君、彼女は遠野玲子〈とおの・れいこ〉。僕のいとこで、転入組。玲子がそんな

風に言うってことは、倉田さんと仲いいってことだろ?」

 玲子が「うん」と、頷く。

 「よかったら、玲子に話してみたら? 彼女はこう見えて口が固いよ」

 「こう見えてって、何よ」

 「ガサツに見られるって、自分で言ってただろ。だいたい初対面の人間に掴みかかって

脅すなんて、普通の女の子ならしないと思うけどな」

 「だって、卑劣な男には先手必勝でいかなきゃ、女子に勝ち目はないもん」

 「玲子なら大丈夫。それに藤澤君はそんな人じゃないよ」

 玲子がブスッと頬を膨らませる。

 光輝は二人の様子に、漸く顔を上げた。

 「仲いいんだね」

 「同じ学校だったし、女子が少ないから、自然と仲良くなっちゃうんだよね」

 あれだけ怒っていたのが嘘のように、玲子は答えた。

 「いや、そうじゃなくて、二人‥‥」

 大黒と玲子を交互に指差す光輝に、大黒は笑いながら言った。

 「兄妹同然に育ったからね。生まれながらの腐れ縁、かな」

 「腐れ縁なんて、よく言うわよ。ひ弱なお坊っちゃまの面倒をみてあげてたんじゃない」

 「分かったよ。僕たちの事はもういいだろ。で、どうする、藤澤君。僕はもう塾の時間

だから出かけるけど、玲子に話してみる?」

 光輝は躊躇いがちに頷いた。

 玲子は最初の印象と全く違い、途中で口を挟むことなく真剣に話を聞いてくれた。光輝

が言葉に詰まれば代わりに言葉を探し、不安になって目を見れば相槌を打ってくれる。そ

ういう時の雰囲気が大黒とそっくりで、二人の関係が羨ましくなった。

 ただ少女の姿について話した時、「金魚の柄ねえ‥‥」と、何かを思い出すように空を

見つめたのが少々気になった。

 光輝は、翌日から緑を目で追うのをやめた。玲子が緑に確かめてくれると約束してくれ

たからだが、これ以上、緑の心証を悪くしたくなかった。子供の頃のことが事実だったと

しても、光輝の今の印象が悪ければ、彼女にとって最悪な思い出になってしまう。せっか

く玲子という強力な助っ人を得たのだから、あとは彼女に任せておいたほうが良い結果に

なるに決まってる。

 週明けの放課後、緑が帰った頃を見計らって、玲子が教室にやって来た。

 「残念だけど、人違いじゃないかなあ。緑、覚えてないって言うのよ。着物の柄にも記

憶がないし、髪型も違うみたい」

 「俺のこと、気味悪がってるから‥‥とか、かなあ」

 光輝は最大の不安を口にした。

 「それはないよ。誤解は解いておいたから」

 「あ、ありがとう‥‥」

 何より力強い言葉に、玲子の手を握りしめそうになり、それを隠すために慌てて礼を言

った。

 「だけど、その着物ってさあ‥‥」と玲子が何かを口にしようとした時、「その子の名

前を聞いておけば良かったね」と、大黒が光輝の肩を叩いた。

 やっぱり自分の勘違いだったのか‥‥。

 あの幼い子が緑だったという確証は初めからなかったのだから、それが明らかになった

だけでも良かったのだと思い込もうとしたが、長い間抱いていた期待が脆くも崩れ去った

ショックは大きかった。

 落ち込む光輝を慰めようと、大黒と玲子は学校の裏のバッティングセンターに連れて行

った。だが球の速さに腰が引けて、元気になるどころではない。光輝が打席から出てくる

と、大黒も打つのをやめた。

 「ゲーセンの方が良かったかな」

 大黒の問いかけに、光輝は「ううん」と首を振った。

 「嬉しいよ。俺のために、ここまでしてくれて」

 「玲子は自分がやりたくて連れてきたんじゃないかな」

 大黒は打席から離れようとしない玲子を指差して微笑んだ。

 玲子は高速のボールをバンバン打つ度に、ガラス戸の向こうでまったりとしている男子

たちに向かって力拳を握って見せた。

 「その女の子のことだけどね‥‥」

 大黒が珍しく歯切れの悪い言い方をする。

 「うん?」

 「藤澤君、その子について‥‥」

 大黒が言いかけた時、玲子が打席から戻ってきた。大黒が口を閉ざす。

 「何、大黒君?」

 それきり話すのをやめた大黒に、光輝は尋ねた。

 「いや。‥‥そのうち見つかるさ」

 大黒ののんびりした言い方に、光輝も「そうだね」と答えた。

 帰り道の途中で二人と別れると、光輝は急に頭の中が空っぽになった気がした。誰かと

いることに慣れてしまって、一人でいる時にどんなことを考えていたのか思い出せない。

自分の気持ちの在り処を見失い、思考する言葉もなくしてしまったような気がして、頭の

中に響くアイツの声を最近聞いていないことに気づいた。

 そう思うと、時計を外した左手首が物寂しい。

 光輝は学校へと引き返すと、ロッカーから金の腕時計を入れた缶ケースを取り出した。

 ケースの蓋を開け、ハンドタオルに丁寧に包まれた時計を、夕暮れの薄明かりの中に翳

してみる。昼間つけている時は派手に輝きすぎる金色が、教室の暗さに同調する。その存

在感を消した鈍い質感が、アイツが取り憑く前のただの古時計ように見えた。

 「なあ」

 光輝が声をかけても、アイツは答えない。

 「今日は家に持って帰るからさ、久しぶりに何か話してよ」

 そう話しかけても、時計はただ正確に時を刻んでいるだけだった。

 光輝は急いで学校から帰ると、時計を持って蔵にこもった。

 「なあ。いなくなっちゃったのか? もしかして、消えちゃった? それなら、ここに

置いていこうかなあ。もう出てこないなら、持っていっても仕方ないし」

 揶揄うように言っても、何の反応も返ってこない。

 「まっ、俺はいいけどさ」

 そう呟いて、元々入っていた桐の箱を手に取る。

 「本当に、置いてっちゃうよー!」

 すでに時計から飛び出して蔵のどこかにいるのではないかと、大きな声で叫ぶが、光輝

の声が反響するだけだった。

 「何だよ。振り回すだけ振り回して。ほんと、勝手だよな」

 文句を言いながら桐の箱に納めると、時計は本来の価値を取り戻したように立派に見え

た。

 「大事な形見なんだからな」と、絹の布で包む。

 「祖父ちゃんが、父さんに譲ったんだってさ」と、蓋をする。

 「もう二度と出てくるなよ」と、元あった場所に置こうとして、光輝はその手を止めた。

 「ああ、もう、俺、何考えてんだろ」

 桐の箱に入れたまま、光輝は時計を持って蔵を出た。


 県立図書館の隅の方に設けられた地元の書籍を集めたコーナーで、光輝は『憑き物』に

関する文献を漁った。

 学校の図書館には満足な資料がなく、ネットで調べてみても漠然とした説明しか得られ

ない。アイツが『憑く』と言ったのだから憑依するものなのだろうが、光輝自身は一般的

に伝承される負の印象をもてずにいた。ただこうした憑き物がその土地土地で異なるよう

なので、地元の歴史や民俗について調べれば何か分かるのではないかと思ったのだった。

 だが、光輝の身に起こっていることを説明する文献はなかった。アイツが大黒の家には

家守がいるというので、この土地に何代も続く家ならではの現象かもしれないと、地元の

名家についても調べたが、地誌に残るような話はなかった。

 これといった収穫もなくロビーで缶コーヒーを飲んでいると、二十歳くらいの三人の男

が喫煙コーナーで話している声が聞こえてきた。

 「もう、彼女と別れたの?」

 「まだ。あの女、結構押しが強くてさあ。っていうか、知ってたら近づかなかったよ」

 「彼女、ビジュアルは悪くないよね」

 「アッチの方もいいって言ってたよな」

 「あっ、それやめて。なんか吸い取られた気がするから」

 「やらしー」

 「バッカ、違うって。寿命だよ寿命。あそこの家に婿に入った男はみんな早死にしてる

んだって。なあ、そう言ってたよな」

 「うちの祖母ちゃんがね。今じゃあ町に残ってる家も少なくなってるし、古いことを知

ってる年寄りも減ってるけど、ちょっと前までは有名だったって話だよ」

 「偶然だろ。そもそも昔は寿命が短かったから」

 「いや、それがさあ、あいつの弟も消えたらしいんだよ。現代の神隠し、ってやつ?」

 「当時はそこそこ金持ちだったらしいから、誘拐だったんだろうけどね。うちの祖母ち

ゃんは神隠しだっていうんだよ」

 「それはヤバイね。別れるにしても、恨まれないようにしないと」

 「だからさあ、この間、わざわざ公園に呼び出して話そうとしたんだけど、あいつの家

の蔵に引っ張り込まれてさ‥‥」

 そこまで話すと、男は身震いした。

 「何、どうしたの?」

 「いや、何でもない」

 「また、吸い取られた?」

 「だから、違うって。もう戻るぞ」

 彼女と別れたいと言っている男に話の続きをせがみながら、男たちは閲覧室に入ってい

った。

 話の中心となっている男が、知紗に連れられて蔵に入ってきたユキオという男であるこ

とを、光輝は見逃さなかった。

 あれは、自分の家のことだろうか。だが、弟が消えたと言っていた。噂話が大きくなる

にしても、あれでは完全な出まかせだ。

 知らない人が聞いたら本気にするのではないかと考えると、光輝は苛立った。


 家に帰ると、道着を着た知紗が玄関で仁王立ちしていた。

 嫌な予感がして、「あっ、忘れ物」と光輝が踵を返すと、強い力で腕を掴まれた。

 「ちょっと付き合って」

 感情を抑えた低い声が、かえって恐ろしい。

 案の定、光輝は知紗に引き摺られて、祖母が日舞の教室にしている奥の部屋に連れて行

かれた。すでに投げる気満々でいるらしく、普段は部屋の隅に積まれている畳が敷かれて

いる。

 「待った。ムリムリ、ムリだから‥‥」

 光輝が抵抗する間もなく、掴んでいた場所を腕から手首へと持ち変えると、知紗は四方

投げで光輝をするりと投げ飛ばした。受け身のとれない光輝は、肩から畳に打ち付けられ

る。

 「勘弁してよ。俺、何かした?」

 文句を言いながら立ち上がると、再び知紗は光輝の手首を掴む。光輝は抵抗の仕方が分

からず、右へ左へと投げられるままになっていた。

 「攻撃してこない相手を投げていいのかよ」

 痛みで痺れてきた肩をさすりながら光輝が抗議すると、知紗は「ごめん」と言って俯い

た。

 「何かあった?」

 「‥‥フラれた」

 知紗は口を窄めた。

 光輝は図書館でユキオたちが話していたことを思い出した。

 「それがさあ、メールだよ。メールで、『別れてください。お願いします』って。何そ

れ、って感じでしょ。私が離さないみたいじゃない」

 知紗は胸に詰まっていた一言を吐き出して、栓の蓋でも抜けてしまった炭酸水のように

言葉を溢れさせた。

 「そりゃあ、私の方から告ったし、誘うことも多かったよ。けど、学生だからと思って

デートのお金出したり、部屋の掃除してやったり、いろいろ尽くしたのにさ。メールでバ

イバイって、失礼じゃない。こんなことになるなら証文でも書かせておくんだったよ」

 多分あの男は、また蔵の中に引っ張り込まれるのが怖かったのだろう。相手が嘘つき男

でも、光輝にはその気持ちが分からなくもない。しかも男に対する半端ではない執着ぶり

に、同情心さえ沸き起こる。

 「また、別の男見つければいいだろ」

 何の気なしにそう言うと、知紗の顔が急に強張る。「しまった」と思ったが、もう遅い。

 「そう簡単に見つからないのよ、ウチは。だからお祖母ちゃんもお母さんも晩婚だった

んじゃない。しかもお祖父ちゃんは元々病弱で、お父さんは農家の四男。何の資産も持た

ない男を婿にしたんだよ。男運がないってどころの話じゃないよね」

 「祖父ちゃんと父さんのこと、そんな風に言うなよ」

 「そんな風も何も、事実でしょ。この土地の人は、みんな知ってるわよ。婿はみんな早

死にするって、縁起が悪い家だって。あいつも、きっと誰かから聞いたんだよ。だから、

外から来た男を探したのに。ほんと、余計なお世話」

 光輝はふと、男たちの噂話を思い出した。

 「なあ、俺が誘拐されたって、あの噂なに?」

 「えっ?」

 知紗は一瞬考え込み、光輝の反応を確かめるように言った。

 「それは、アンタのことじゃないんだけど‥‥お母さんに聞いてないんだ‥‥」

 「何も」

 「そうかあ、てっきり聞いてるとばっかり思ってた」

 「だから、何の話?」

 「アンタには五歳上にお兄さんがいてね、三歳の時に行方不明になったきりなの」

 思いもよらない事実に、光輝は言葉を失った。

 「当時はまだ資産家だと思われてたんだろうね。でも犯人からの連絡もないし、町中探

し回ったんだけど見つからなくてね。古くからの伝承みたいなのが残ってたこともあって、

近所のお年寄りは神隠しだって騒いじゃって。でも警察が言うには、男の子を狙った誘拐

じゃないかって。新興住宅地の裏の山向こうって、今も棚田が広がってるでしょ。あの辺

り一帯って、昔から農家が人手不足で、今でいう人身売買とか誘拐とかがあったんだって。

だから広範囲で調べたらしいんだけど、何も手がかりが出なくって‥‥」

 知紗は男たちの噂話を裏付けるような話をした。

 光輝は、図書館で読んだ地誌に載っていた内容を思い出した。どこの地域で起こったか

などの記載はなかったが、神隠しと言われる事案が多く、人々が立ち入ってはならない禁

足地が定められていたという。

 「どうして、俺に内緒にしてたのかな」

 「内緒というか、話題にしなかっただけじゃない? いなくなって暫くは、話題にする

とみんなが悲しむから私も口に出さなかったし。それが、習慣になっちゃったんだと思う。

それに二年後には、アンタが生まれたからね」

 「二年後ってことはさあ‥‥」

 光輝はわずかな知識で考えた。知紗は思春期の男子が何を考えているか容易に想像でき

て、思わず頭を叩いた。

 「イテッ!」

 「変なこと考えてんじゃないわよ」

 「いや、だってさ。そんなに簡単に忘れられるもんかなって」

 「そんなわけないでしょ。あの後ずっと、家の中お通夜みたいだったわよ。父さんはげ

っそりと痩せこけるし、母さんは泣き通しだし。でもね、それくらい男の子が欲しかった

ってことじゃないかな。お母さん、私を産んだ時にはすでに高齢出産だったから、相当焦

ってたと思うよ」

 「それって跡取りが欲しかったってことだろ。今時、男が跡を継ぐなんて古くない?」

 「ウチは女系家族で代々苦労してるからさ。お祖母ちゃんもお母さんも一人っ子だし。

だから、アンタはやり過ぎってくらい大事にされたんだよね。『箱入り娘』って言葉があ

るけど、ウチの場合は『箱入り息子』って感じ? いや、アンタの場合は、『蔵入り息子』

だね。いつもお祖母ちゃんかお母さんが付きっ切りで、二人が仕事の時は蔵に入れてたか

ら。私が外で一緒に遊ぶって言っても、お許しが出なかったもん」

 「蔵で一緒に遊べばよかっただろ」

 「やだよ。暗いし、汚いし、不気味なんだもん」

 「なのに、今では男を‥‥」と口を滑らせた光輝を、知紗は睨んだ。

 「兄貴がよかったなあ、俺。そしたら八つ当たりで投げられなくて済んだのにさ」

 光輝が悪態をつくと、「あの子がいたら、アンタなんか生まれてたかどうかね」と、知

紗は仕返しした。

 畳にしこたま打ちつけた肩が、じんじんと痛んできた。


 噂話が事実であったことを、光輝は受け止めきれずにいた。

 行方不明の兄がいたことも、そのことについて誰も口にしないことも、自分が何も知ら

ずに生きてきたことも、全てが釈然としなかった。

 だが、思い当たる節がないわけではない。小学校に上がる頃まで、クラスメイトや近所

の人たちが遠巻きにして自分を見る視線を常に感じていた。家の敷居を跨ぐのは全て女性

で、母や姉とは普通に話をするが、自分には好奇の目が向けられていたような気がする。

知紗の言う「縁起の悪い家」で、二番目に生まれた男の子がどんな風に成長するのか、い

や成長できるのかを、この土地の人々はある種の興味を持って見ていたのではないだろう

か。

 あの頃の心許ない感情が、ひたひたと胸に迫ってくる。

 光輝はかすかな期待を抱いて蔵に入った。

 蔵の内扉を閉めると、腕時計から光の帯が溢れ出し、少年が姿を現した。

 「どうして、ずっと返事してくれなかったんだよ」

 光輝が尋ねると、少年はいつもの口調で言った。

 「お前が望まなかったからだ」

 「何度も声をかけただろ。急に静かになるんだから勝手すぎるよ」

 「お前には話し相手がいただろう。お前が必要としなければ、私は姿を現すことができ

ない」

 少年は静かに言った。

 「私のことが見えるのは、言葉をもたない者たちだ。生まれたばかりの者たちは、己の

気持ちを伝える術がない。お前の母も姉も、幼い頃は私が見えたのだ。だが自在に言葉を

操れるようになって、私のことも忘れていく。もう必要ないからな」

 蔵の中に、寂しそうな声が響く。

 「兄さんも、ここに来たのかなぁ」

 「ああ、確か、ハルキと言ったかな。一度だけ、チカコに連れられてきた。だがこれが

いたずら坊主で、少しもじっとしていない。大事な茶器を壊されそうになって、チカコが

すぐに連れ出した。私にはさして興味も示さなかった」

 「どうしていなくなったのか、知ってる?」

 「いや、知らん。私に分かるのは、この蔵の中のことと憑いたものの周りで起こる事だ

けだ。だがシノやチカコが来るたびに、あの者たちが抱えている苦渋の思いは感じていた」

 「兄さん、今どうしてるのかな。みんなもう、諦めちゃってるって事なのかな。姉貴は、

兄さんがいたら俺は生まれてなかったって言うんだよね。ねえ、どう思う?」

 「お前は、生まれない方が良かったとでも思ってるのか」

 「そうじゃないけど‥‥。兄さんの代わりに生まれた、みたいなさ‥‥」

 幼稚で、取るに足らない悩みだと、光輝にも分かっている。だが、誰かに拗ねてみたか

った。

 少年は、フッと笑って言った。

 「人間は不思議だな。生まれてきた意味を問い、何かを成し遂げられなければ死んだほ

うがマシだと嘆く。そのくせ死を恐れ、長生きしようともがく。命を得てから死ぬまで、

一生悩み続けるのだからな。悩んだところで高々百年の人生ではないか。まあ、その儚さ

が、私には羨ましいがね」

 「羨ましい?」

 「ああ、羨ましいねえ。お前には、終わりのない孤独が想像できるかい。誰にも求めら

れなければ、姿さえ持たない。時間の流れもない闇の中で、意識だけが漂い続けるのさ」

 「いつから、ここにいるの?」

 「さあ、いつからかな。気が付いたらここにいて、どこにも行けなくなっていた」

 光輝には、超自然に関する知識がほとんどない。だが、幽霊についてよくいわれるよう

に、何か叶えられない望みを少年が抱えているのではないかと思った。

 「成仏したいとか、そういうことかな? 何か未練を残して死んだとか、死んだことが

受け入れられないとか‥‥霊的な?」

 「お前はまた、私を化け物にしようとしているのだな」

 「そうじゃなくてさ、アンタの正体が分れば、その『終わりのない孤独』ってやつを、

何とかしてやれるんじゃないかと思ってさ」

 光輝がそう言うと、少年は目を見開いた。

 「してくれるのか」

 「できることならね」

 「そうかあ。コウキ君、君はなかなかの人格者だな。いやー、そうかそうか。それなら

そうと、なぜ早く言わんのだ」

 ついさっきまで臈たけた大人のような口調でいた少年が、嬉しそうに小躍りする。少年

の話に不覚にも同情してしまったことを、光輝は若干後悔した。

 「ただね、ほら、アンタが何者か分からないと、どうしていいか‥‥」

 光輝の言葉を遮って、少年は言った。

 「私と婚姻すればいいのだ!」

 「はあ?」

 光輝は自分の耳を疑った。

 「コンイン、って?」

 「婚姻は婚姻だ。コウキ君、私と生涯を誓い給え!」

 少年が大きく一歩近づいてくる。実体はないはずなのに、光輝の体に風圧がかかった。

 「いやいやいや、無理です」

 「無理なことがあるものか」

 「いや、無理。絶対、無理。だって、人間じゃないじゃないですか」

 「かつては人間も、動物や物の怪と婚姻しておったのだぞ」

 「ウソ! それ、フィクションですよね。民話の世界とか、そういうやつでしょ」

 「うーん、真偽のほどは定かではないが」

 「ほらあ、自分で認めちゃってるじゃないですか。それにねえ、男同士の結婚は、今の

時代だってそこそこハードルが高いんですよ。こんな田舎の町でなんて、ムリです、ムリ」

 「姿は何にでも変えられる。今のこの姿は、お前が望んだものだ。お前は、同い年くら

いの男を望んでいたのであろう?」

 確かに、そんな友達がいたらいいなあと思ったことは否定しない。だが、決して結婚相

手ではない。『男を望んでた』なんて妙な言い回しに、光輝はどぎまぎした。

 「女と夫婦〈めおと〉になりたいのなら、お前がただ望めば良いのだ。私にとっては姿

などどうでもよい」

 「いや、だからね‥‥」

 光輝は少年を説得するのに躍起だった。だが少年は何かを考えるように眉間に皺を寄せ

ると、光輝の唇に指をあて、その言葉を遮った。

 「お前は酷い奴だな。約束を交わした相手も覚えてないとは」

 光輝の唇から全身へと冷気が伝わる。

 「約束って‥‥まさか‥‥」

 「あれは、私だ。お前が、赤い着物を着た少女を望んだのだ。お前が探していたのは、

私なのだよ」

 「そんなあ‥‥」

 体の力が一気に抜ける。

 「今こそ、あの時の約束を果たすのだ。さすれば、お前の望みを叶えてやろう」

 少年は、舞台俳優のように大きく両手を広げ、光輝の体を包み込んだ。


 室温が急激に下がったように感じられた蔵の中で、突然、携帯電話が鳴った。

 少年が、ピクンと弾かれたように飛び退いた。

 「助かったぁ」と、心の中でため息をついて、光輝は尻のポケットから携帯電話を取り

出した。液晶画面には、玲子の名前が表示されている。ボタンを押すと、玲子は相手が光

輝であることを確かめもせず、慌ただしい声で要件を切り出した。

 「勇希君がいなくなったの。お願い、探すの手伝って!」

 玲子につられて、光輝も声のトーンが高くなる。

 「いなくなったって、どういうこと?」

 「碧の家で遊んでて、気が付いたら姿が見えなくなってたって。今、碧と史花さんが近

所を探してるけど、見つからないの。まだ二歳だから、そんなに遠くに行かないと思うん

だけど、どこにもいないのよ」

 光輝の頭に、行方不明になったという兄らしき子供の姿が浮かぶ。

 「警察は? 警察には通報した?」

 玲子が返事を躊躇うのが分かった。

 「‥‥それがね、まだ、してないの」

 「そんな。誘拐かもしれないよ。大黒家のことだから」

 「そうだけど、誘拐を決定づける電話があったわけじゃないし、おおごとにしたくない

って。‥‥ほんとは、藤澤君にも言うなって、碧に口止めされてるの。きっと、嫌な思い

をするだろうからって」

 「それって、兄さんのこと?」

 玲子はしおらしく「ごめんね」と言った。

 「気にしないで。俺が生まれる前の話だから」

 自分が今まで知らなかったことを、大黒や玲子が知っていたことに、光輝は戸惑いを感

じた。だが、知紗が言うように周知の事実なのだとすれば、自分だけが拘っていても仕方

がないようにも思えた。

 勇希について何も知らない光輝が、どこを探せばいいか玲子に尋ねようとすると、目の

前の少年が「家守の仕業だな」と呟いた。

 勇希と会った時に「禍をもたらす子」だと言った声を思い出す。

 通話口を手で覆うと、光輝は少年に「どこにいるか分かる?」と聞いた。少年は、一言

「知らん」と返事をしたが、光輝の意識が電話に向くと、もったいぶるように言った。

 「だが、気配が残っていれば、辿ることはできるかもしれん」

 光輝は「大黒の家に行くから、必ず家の前で待っててくれ」と玲子に言って、電話を切

った。

 「じゃあ、時計に戻ってくれる?」

 光輝は声を掛けたが、少年はじっとしている。

 口の利き方が悪かったかと思い、「すみませんが、時計に憑いて一緒に行ってくれませ

んか」と言い直すが、まだ、じっと考え込んでいた。

 「あのー、ちょっとだけ急いでもらってもいいでしょうか」

 すると漸く、少年が口を開いた。

 「探してやってもいいが、条件がある」

 嫌な予感がする。

 「条件、ですか‥‥」

 「ああ。さっきの話の続きだ。お前が夫婦の誓いを立てるというなら、行ってやろう」

 今ここで、その話は勘弁して欲しかった。だが、無視することもできない。

 「他の条件じゃダメですか?」

 「ダメだな」

 「ちゃんと成仏できるように、他の方法を探しますから」

 「断る。お前と夫婦になる。これはお前の宿命なのだ、観念しろ」

 「いやー、でも、マジでそれだけは‥‥」

 「ええーい、ぐずぐずしておると、あやつの気配が消えるわ!」

 少年は痺れを切らせ、腕時計ではなく光輝の体に憑いた。

 「優柔不断な男になりおって」

 光輝は蔵を飛び出すと、大黒の家に急いだ。

 

 玲子が大黒家のアプローチから通りの左右を見回していると、光輝がフラフラになりな

がら走ってきた。

 「藤澤君、ごめんね」

 「運動不足だな」

 両膝に手をついて、肩で息をする光輝に、玲子は状況を説明した。

 「史花さんはアパートに戻る道を探してて、碧は本家の周りを探してる。私はこれから

商店街の辺りを探しに行くつもり。だから、藤澤君は‥‥」

 玲子の言葉を無視して門の方を指差すと、光輝は言った。

 「あれを持って来い」

 「あれって、自転車のこと?」

 「そうだ」

 光輝の態度がいつもと違って横柄になったように感じたが、玲子は光輝に従った。

 光輝は自転車に足をかけると、「お前は、もう行け」と、玲子に命令した。玲子は戸惑

いつつも、「じゃ、じゃあ、お願い」と、商店街へ向かった。

 玲子の姿が見えなくなると、光輝は自転車に足をかけたまま、バタンと倒れた。

 「痛ってぇ」

 光輝が意識を取り戻すと、大黒の家の前にいる。体がぐったりと疲れていて、何故か自

転車のハンドルを握っていた。

 「それに乗って、早く追いかけんか。気配が消えてしまうだろう!」

 頭の中で声がして、少年が自分に憑いていたのだと理解した。

 「自転車なんて、俺、乗ったことないよ」

 「お前は足が遅すぎる。それでは間に合わんぞ」

 「そんなこと言ったって‥‥」

 「ほんに、お前というやつは!」

 苛立った声で一喝すると、腕時計に納まった光は再び光輝の体に入っていった。

 憑かれた光輝は、よろけながらペダルを漕いだ。

 勇希の気配は、大黒家が有する近隣の土地を抜け、郊外の住宅地の方へと向かっていた。

 「どこまで行ったのだ」

 不安定な上半身をハンドルで支えながら、光輝の足は何とかペダルを漕ぐ。

 住宅地に入っても気配は薄く漂い続けた。強い気配が感じられないのは、もっと遠くに

行ってしまったからだろう。いつ途切れてもおかしくない気配を、まともに自転車に乗れ

ない光輝の体で追うのは、パワーを要する行為だった。

 それでも何キロか走り、光輝の体自体がどうにも邪魔で仕方なくなった頃、勇希の気配

が住宅地の先の小高い山の中に向かっているのを感じた。

 自転車に腰掛けていた光輝の体が、またしてもバタンと倒れる。

 「痛ってー。もう、俺の体から抜けるなら、そう言ってよ。ああ、肩打ったぁ。肘も擦

りむいてるよぉ」

 「お前は運動神経が悪すぎる。おかげで、私は精も根も尽き果てたわ」

 頭の中の声が息を荒くしている。

 「俺の体使ったのに、どうしてアンタが疲れるんだよ」

 「体はお前のでも、動かしたのは私だ。女々しいことを言ってないで、早く山に入れ」

 「山って、ここにいるの?」

 「おそらくな」

 光輝は辺りを見回した。道路の向こうに新興住宅地の家並みが続く。

 「二歳の子が、こんなところまで来られるかなぁ。家守が取り憑いたにしても、ここま

で歩いて来られるもんなの?」

 「家守は家から離れることはない。大方、外に弾き出されたところを、雑多な物の怪に

捕まったのだろう。大人には見えぬものが、まだ見える年頃だからな」

 「それでも、こんなところまで来るかなぁ」

 山の入り口から登山道と思われる細い道がひとすじ山中に伸びていて、その手前に二本

の杭が打たれ、注連縄のようなものが張られている。片方の杭には看板が針金で巻き付け

られており、そこには、『何者も入るべからず』という文字と、何枚もの札が重ねて貼ら

れていた。下の方の札は周りが擦れて原形をとどめず、茶褐色に焼けて、かなり古いもの

のように見受けられる。

 さほど勘が良くない光輝でも、近寄らないほうがいい場所であることは察しがついた。

 「ここ、アンタみたいなのがいそうな気がする」

 「お前は本当に失礼な奴だな。私を有象無象の物の怪と一緒にするな」

 「っていうことは、やっぱり、何かいるんだ」

 「禁足地だからな。何かしらいるかもしれんが、人間が勝手に定めたものだ。いつから

人間が入ってないか知らんが、良きものにとっても悪しきものにとっても住みよい場所に

なっているだろうな」

 光輝は、図書館で読んだ地誌の記載を思い出した。そういえば、こんな場所の写真が小

さく載っていたような気がする。

 「入られたとして、出てこられるかな」

 「入るのが怖ければ、あの男を呼べばいい」

 「そうか」と、光輝は携帯電話を取り出したが、大黒の名前を画面に表示して手を止め

た。

 どう言って大黒を呼び出せばいい。いくら仲良くなったからって、声の主のことは説明

できないし、第一、勇希君がここにいる確証もない。

 光輝が迷っていると、頭の中で声がした。

 「行くかどうかは、お前の自由だ。だが、私は約束を果たしたからな。お前が引き返し

たとしても、私との誓いは果たしてもらうぞ」

 そうだ。もう、ここまで来てしまったのだ。婚姻の約束はともかく、勇希君がいる可能

性があるなら、何とか見つけ出してやりたい。兄さんのようなことにはさせたくない。

 光輝は腹を決めた。

 「注連縄って結界なんでしょ。アンタは一緒に入れるの? それとも腕時計外してった

ほうがいい?」

 「このままで構わん。それに、私がいなければ探せないだろう」

 「そうだね」

 光輝は注連縄に向かって柏手を打つと、杭の脇から山の中に入った。

 ところが一歩踏み出した途端、前日の雨でぬかるんだ土で足を滑らせた。

 「うわっ」

 思わず声を上げると辺りの枝葉が揺れ、全方向から不規則に風が吹いてくる。

 「声を出すな」

 頭の中で声が言う。

 「何か見えても目を合わせてはならん。お前は雑魚どもにもから揶揄われやすいのだ」

 「揶揄われやすいって、どういうことだよ」と、心の中で抗議しようとして、光輝はつ

い「からか‥‥」と口に出してしまった。

 すると四方八方から空を切り、薄ぼんやりとした雲のような塊が現れた。それぞれ明確

な姿形はないが、二つの目が塊の中を自在に動き、光輝の体を舐めるように這い回る。

 光輝は頭が真っ白になり、体を強張らせた。

 「言わんこっちゃない。こいつらは遊び相手を探しておるのだ。無視して奴らの間を突

っ切っていけば良い」

 「突っ切るって、この変な目ん玉にぶつかっちゃうよ」

 心の中で、光輝は言った。

 「避ければ見えていることの証になるぞ」

 「アンタの力で、払い除けてよ」

 「そんな力は、私にはない。それに一度払い除ければ、ずっと纏わりついてくる。無視

するのが一番なのだ」

 少し立ち止まっただけなのに、雲のような塊は数を増し、その分、目玉の数も増えてい

る。ぼんやりしていた輪郭も徐々にはっきりとしてきたように見える。このままでは状況

は悪化するだけだろう。

 光輝は目をつぶり、棒のように固まった足を何とか前進させた。そして、躓きながら手

探りで歩き続けると、「もういいぞ」と、頭の中で声がした。目を開けると、視界はクリ

アになっていた。

 「日が暮れると、タチが悪いものが増えてくるかもしれん。先を急げ」

 光輝はその声に従って、山の中に入っていった。

 長い間人が入っていない山は荒れ放題だった。登山道らしき道はすぐに消えて獣道にな

った。笹竹が縦横無尽に伸び、足に突き刺さる。傾斜も思いのほか急で、緩んだ地面を覆

う草の層に何度も足を取られた。こんな場所を幼い子供が歩いたとしたら傷だらけになっ

ているに違いない。焦るあまり大声で勇希の名を叫びたくなったが、何とか心の中だけに

留め、頭の中に響く声の指示に従ってひたすら歩いた。

 「兄さんも、こんな風にいなくなったのかな」

 歩いても歩いても先が見えず、どこまでも続きそうな様相に疲れ、光輝は問い掛けた。

 「会いたいか?」

 「どうかなあ‥‥よく分からないや。たださ、さっきみたいな奴らについて来たとして、

奴らだってずっと傍にいるわけじゃないだろ。何にも見えなくなったら、それはそれで寂

しかったんじゃないかなって思ってさ」

 「それは、私が見えなくなった時のことを言っておるのか?」

 「違います。兄さんとか‥‥勇希君とか‥‥」

 「隠さずとも良い。だから婚姻すれば良いのだ。私なら、お前の命が尽きた後も共にお

るぞ」

 「だーかーらー」と声に出しそうになって、光輝はキュウッと口を結んだ。

 「その斜面を降りろ」

 声の調子が急に強くなる。

 木の幹を次々と掴みながら光輝が斜面を下ると、木々の茂みに隠れるように小川が流れ

ていた。そして、奥の岩場で小石を投げて遊ぶ勇希の姿が見えた。

 駆け寄ろうとする光輝を、声が制する。

 「動くな。坊主の周りに何モノか漂っている。ここで手を振れ。坊主に何かついてきて

も、さっきのように無視しろよ」

 「分かった」

 光輝は言われた通りに、左腕を振った。左手は、初めて勇希と会った時のようにクマの

人形になり、手を振る度にカラコロと鈴の音を響かせた。すると、勇希がこっちを見て危

なっかしい足取りで駆け寄ってきた。途中までついて来た雲のような塊も、勇希が別のも

のに興味を持ったことを知ったかのように、すぅーっと離れていった。

 「良かった、無事で」

 勇希を両腕で優しく抱きしめると、光輝は心の中でそう言った。


 目的地からワンブロック手前でタクシーを降りると、光輝は眠っている勇希を抱いて、

史花のアパートに向かった。

 山を降りて玲子に電話すると、迎えに行くと言われたが、すぐに戻るからと、光輝は史

花のアパートの住所を聞き出した。迎えに来られたら、勇希が遠くまで歩いてきたことも、

光輝が禁足地に入って探したことも説明しなければならない。それに、そのまま大黒の本

家に連れて行かれたら、勇希の身にまた何か起こるかもしれないと思った。

 アパートの前まで行くと、史花は大黒や玲子と一緒に玄関の外で待っていた。

 史花は眠ったままの勇希を受け取ると、大事そうに抱きかかえて、光輝に何度も礼を言

った。

 「どこにいたの?」

 泣きながら勇希に頬ずりするばかりの史花に代わって、玲子が聞いた。

 「新興住宅地に向かう公園。滑り台みたいなのの陰に隠れてた」

 光輝は、アパートに向かうタクシーの中で見つけた公園の話をした。

 「どうしてそんなところに行ったんだろう。姉さん、連れてったことある?」

 大黒の問い掛けに、史花は首を横に振る。

 「見つからないはずだよね。私たち、逆の方向探してたんだもん。だけど、藤澤君、そ

れ‥‥」

 光輝の泥だらけのスニーカーと汚れたチノパンを見て、玲子は言った。

 「子供って、狭いとこ好きでしょ。側溝とか家の間とか見て回ってるうちに、こんなに

なっちゃった」

 光輝は予め用意していた答えを、淀みなく話した。

 沢で勇希を見つけた時、小石遊びをして手が濡れている以外、勇希には何の汚れもなか

った。勇希の気配を追って歩いたのだから同じ道を通っているはずなのに、すり傷ひとつ

ない。それは手足に無数の切り傷やすり傷を負った光輝と対照的だった。

 「ああ、そうだ。自転車、チェーンが外れたから、置いてきちゃったんだ。修理してか

ら返すね」

 光輝の説明に納得いかない様子の玲子たちの気を逸らすために、光輝は話題を変えた。

大黒は、「そんなのウチでやるよ」と言ったが、なんとか押し切った。

 自転車は禁足地の近くに置いてきた。勇希を抱いたまま光輝の家まで押して帰るつもり

だったが、直ぐにへばってしまい、タクシーを捕まえた歩道のガードにそのまま立てかけ

てきてしまったのだ。誰かに持って行かれる前に、取りに戻らなければならない。

 「それじゃあ」と帰ろうとする光輝を、玲子は「それ、手当したほうがいいよ」と引き

止め、「史花さん、薬箱借りますね」と家の中に入って行った。

 彼女に続こうとした玲子を、光輝は呼びとめた。

 「あのー、たまたま見つかりましたけど、もしかしたらってこともあるし‥‥。直ぐに

通報したほうがいいかなって、思うんです、勇希君のためにも」

 史花の体が固まったまま動かなくなる。そして、振り向きもせず、「そうね。ごめんな

さいね」と言って、家の中に消えていった。

 「俺、帰るね。手当はいいって、遠野さんに伝えて」

 光輝がそう言ってアパートに背を向けると、大黒は「送るよ」とついてきた。

 「辛いこと、思い出させたよね。すまない」

 黙ったまま歩く光輝に、大黒は言った。史花への言葉は、肉親を失った者の心からの訴

えなのだと、大黒は思った。

 「いや、ただのお節介だよね。母親がいいって言ってるのに、何も知らない赤の他人が

さ。でも、どんな事情があるか知らないけど、子供には関係ないんじゃないかって、思っ

てさ」

 「忌み嫌われた子」という頭の中の声が、光輝を捉えて離さなかった。大黒はその疑問

に答えるように打ち明けた。

 「父親が分からないんだ、勇希」

 「えっ?」

 「いや、姉さんが言わないだけなんだけど。高校生の時に妊娠したから、相手のことを

庇ってるんだと思う」

 「‥‥ごめん」

 光輝はそれ以外の言葉が出てこなかった。

 史花の住まいを見れば、大っぴらにできない事情が、どれほどのことか想像できそうな

ものだった。大黒の本家から駅一つ隔てた何もない隣町。二階建ての古いアパートは、外

壁が所々剥がれおち、外階段は錆び付いたまま。そのボロアパートの日当たりが悪い一階

の部屋に、史花親子は住んでいた。それが何を意味するか、もっとちゃんと考えるべきだ

ったのだ。

 「産むなら勘当するって、両親も祖父母も大反対でね。姉さんは一人で産むって、家を

出て行った。勇希が生まれてからは、やっぱり可愛いんだろうな。母親は態度を軟化させ

て、勇希を連れて遊びに来いって言うようになった。でも、父親も祖父母もまだ許してな

い。大黒の名前に傷をつけたって言ってね。勇希もそういう雰囲気を感じとるのか、家に

来てもぐずってばかりで、母にも懐かないんだ。今時、こんな頑なな家ってあるのかなっ

て思うよ。もっと普通の家に生まれたら、姉さんも勇希も幸せだったんじゃないかな、っ

てね」

 時が経って家族が許したとしても、家守がいる限り、勇希があの家にあたたかく迎えら

れることはないだろうと、光輝は思った。それなら、いっそ‥‥。

 「わざわざ家に呼ぶことはないんじゃないかな。お母さんに史花さんのアパートに来て

もらうとか、別の方法が‥‥」

 「父親みたいなこと言うんだな」

 厳しい口調で、大黒が言う。

 「少しずつ、家族に慣れさせようとしてるのに。父親は『そんなに会いたいなら、お前

も出ていけ』って、母親に怒鳴るんだ。やっと母親を味方につけたのに、君も同じこと言

うんだな」

 大黒がキッと唇を噛む。

 「君も見たでしょ。姉さんはあんなところに住んで、倹しい生活をしてるんだよ。僕は

一刻も早く家に呼び戻してやりたい」

 「いや、だけど‥‥」

 それでも口を挟もうとする光輝に、大黒は言った。

 「君なら分かってくれるって思ったけど、話した僕が間違ってたみたいだ。暫く話しか

けないでくれるかな」

 大黒は、もう光輝を見なかった。


 大黒の光輝への態度が変わったことを、クラスの生徒たちはすぐに感じ取った。グルー

プ分けをする時は誰かが大黒を誘い、大黒もそれに応じた。光輝にチャンスを奪われてき

た女子は、休み時間の度に大黒の周りに集まった。

 元に戻っただけだ。

 光輝はそう思おうとしたが、大黒と行動を共にする前、どんな風に学校生活を送ってい

たか忘れてしまっていた。

 また今日も、話せなかったな。

 金の腕時計を見て、心の中で呟く。だが勇希を見つけてくれてから、頭の中の声は消え

たままだった。


 大黒との諍いから暫く経って、修理に出していた自転車が戻ってきた。返しに行くタイ

ミングを失ったまま家に置いていたのだが、何度か倒れたためか、フレームに傷が付いて

いた。チェーンが外れたというのは方便だったが、ブランド物の自転車には細かな傷さえ

も申し訳なく思えて、光輝は修理に出したのだった。

 大黒に電話すると、留守電の応答メッセージが流れた。自転車を返しに行きたいので連

絡が欲しいと、メッセージを残す。そして、いつ掛かってきても直ぐに出られるように家

で待機した。だが夜になっても、電話は何の音も発しなかった。翌日は日曜日で、いつも

なら昼近くまで寝ているのだが、光輝は夜明けとともに目を覚ました。それでも一日中、

電話は鳴らなかった。

 唯一の糸が、プツンと切れた気がした。

 「お前のせいだ」

 蔵に現れた少年を思い浮かべ、声に出して責める。

 「何とか言ってみろよ。急に黙りこくりやがって。お前まで無視かよ。やりたい放題い

たずらしといて。答えろ。答えてみろよ」

 それでも、時計は何も反応しない。

 「分かった。そっちがその気なら、もういいよ」

 光輝は蔵へと走り出すと、重たい扉を開け、腕時計を力いっぱい床に投げつけた。

 その瞬間、光の帯が時計から溢れ出したかと思うと、眼前に少年が現れた。

 硬い床で跳ね返った時計はバックルが外れ、文字盤のガラスが割れた。少年は、止まっ

てしまった秒針を、虚ろに見ていた。

 光輝は漸く現れた少年に憤懣をぶつけた。 

 「お前のせいだ。お前が余計なこと教えるからだ。知らなければ、今まで通り付き合っ

ていけたんだ」

 「あの男に入らぬ忠告をしたのはお前だ。あの子を探しに山に入ると決めたのもお前だ

ろう」

 理不尽に八つ当たりしていることは分かっている。だけど何かに怒りをぶつけることで

しか、大切なものを失ってしまいそうな不安に耐える術が見つからなかった。

 「うるさい!」

 「私は約束を果たした。今度はお前の番だ」

 「お前が勝手に連れてったんだろう。俺の体に取り憑いて、乗れもしない自転車を漕が

せて。勝手すぎるんだよ‥‥。だいたい、人の家の子のことは分かっても、兄さんのこと

は何も分からなかったんだろう。家守みたいに、ウチのことは全然守ってもくれない。大

事な時は何も役に立たないじゃないか!」

 光輝の声がわんわんと蔵の中で共鳴する。その後の静寂が訪れるのを待って、少年は寂

しげに言った。

 「お前は‥‥もう、忘れたのか。この蔵の中に一人でいた時、私はいつも傍にいた。い

つも遊び相手になっていた。お前はもう、私のことを‥‥」

 「いつの話だよ。お前が好き勝手に遊んでるだけだろ」

 「子供の頃のこと、本当に覚えてないのか」

 「知らないよ、そんなこと。もう、俺の前に現れるな。お前なんか‥‥」

 勢いづいて溢れ出す光輝の言葉に、少年は手を伸ばした。

 「待て! その先は言うな! 頼むから、嘘でもいいから、私を必要だと言え!」

 切迫した声だった。だが、高ぶったままの光輝の感情を抑えることはできなかった。

 「お前なんていらない! いなくなってしまえ!」

 光輝が怒鳴ると、少年の姿は時間が経った泡のようにシュワシュワとなくなっていった。

 そうだ。この蔵には良い思い出なんて一つもなかったんだ。友達と遊ぶことも許されず、

蔵の中に一人で閉じ込められた。ここに来なければ、アイツにも振り回されることはなか

ったんだ。

 重い扉を閉めると、光輝はしっかりと南京錠をかけた。


 久しぶりに黒い革ベルトの時計をつけて、光輝は学校に行った。誰にも挨拶せずに自分

の席に座り、授業の準備をする。板書を写し、指されれば答え、休み時間はその日出され

た宿題を片付ける。特に気を配らなくてもクラスで目立つことはなく、学校生活を日々

淡々と過ごしていた。

 返却しなければならない自転車のことは頭にあったが、もう大黒を意識することもやめ

ていた。時計を壊したことで、光輝の中の何かが吹っ切れたようだった。

 玲子からメールが来たのは、そんな生活が一ヶ月も続いた頃だった。

 メールには、『これ、だーれだ?』という本文が記されていて、画像ファイルが添付さ

れていた。

 その画像ファイルを開いて、光輝は目を見開いた。それは紛れもなく、ずっと探し続け

ていた金魚の柄の赤い着物を着た幼女だった。

 直ぐに玲子に電話すると、「答え、知りたい?」と、玲子はもったいぶるように言った。

 「知りたい。誰?」

 光輝が焦って聞くのを、面白がっているのが受話器から伝わってくる。

 「じゃあ、碧の家に来て」

 そう言われて、光輝は迷った。

 「電話じゃダメかな?」

 「ダメー」

 「意地の悪いこと言わないでよ」

 「意地が悪い? そんなこと言うんだ。その子に会わせてあげようとしてるのに」

 「えっ?」

 「今、碧の家にいるから、その子。直ぐに来ないと、もう会えなくなっちゃうかもね」

 そう言うと、光輝の返事を待たずに、玲子は電話を切った。

 大黒の家に行くのは気が引けたが、高ぶる気持ちは抑えられなかった。てっきり蔵の中

のアイツが化けたのだと思っていた女の子が、現実の世界の住人だったということに、今

更ながら期待が高まる。光輝は大黒の自転車を押して彼の家に向かって走った。


 家の近くまで行くと、玲子は通りに出て光輝を待っていた。

 「もう、遅いよ」

 嬉しそうに光輝の背中をバシンと叩く。そしてシールドされた自転車を見て、「わざわ

ざリペアしたんだ。傷だらけだったのに。っていうか、どうせなら乗っておいでよ。ほん

と、真面目っていうか小心者っていうか」と、玲子も高揚しているのか、いつも以上に遠

慮がない。

 「彼女、まだいる?」

 「ああ、いるいる」

 「じゃあさあ、呼び出して来てくれないかな。で、ついでに自転車、大黒君に返してく

れない?」

 それまでニヤニヤしていた玲子の顔が真顔になる。

 「出たよ、ヘタレ!」

 多分、みんな思っていても口にしないことを、面と向かって玲子は言った。

 「何でアタシがそこまでしなきゃいけないの。写真探すのだって、すごい大変だったん

だから。そんなもん、自分で返しな!」

 玲子はそう言うと、スタスタと門の中に入っていく。光輝は仕方なく、「お邪魔します」

と、後についていった。

 玲子は相変わらず無遠慮に二階に上がると、「あおいー! 藤澤君が自転車修理して持

ってきてくれたよー!」と、大声で言った。そして大黒の部屋の襖を開けると、「藤澤君、

遊びに来たよ」と、怒ったことなど忘れたように光輝の背中を押した。

 大黒は、背を向けて勉強していた。部屋には、彼以外の姿はない。光輝は玲子を見て、

小声で聞いた。

 「女の子は?」

 玲子はそれには答えず、大黒に近づくと両耳のイヤホンを抜いた。

 「何だよ。また、勝手に入ってきて」

 振り向くと、入り口で所在無げに立っている光輝が見える。

 「また一人で籠っちゃって。そんなに勉強ばっかりしてると、バカになるよ」

 「その発想がおかしいだろ。明らかに勉強しない奴の言い分だな」

 大黒は玲子の悪態をかわした。光輝は二人のやりとりが懐かしかった。

 「藤澤君、あのボロいチャリンコ、わざわざ修理してくれたんだよ」

 「チャリンコじゃなくて、シティサイクル。ボロくたって、イタリアの一流ブランドな

んだよ」

 「ああ、もう、昔から臍曲げると、本当に面倒なんだから。こんなのと付き合いたいっ

て言うんだから、うちの学校の女子も男見る目ないよねえ」

 「玲子に言われたくないよ」

 「はいはい、そうですか。で、藤澤君に言うことは?」

 大黒は漸く光輝の目を見て、「ありがとう」と一言言った。光輝も慌てて、「俺、自転

車、結構倒して傷つけちゃったから」と手短かに説明した。

 「碧ってさあ、そういうとこ、小さい時から変わってないよね。一見大らかなようだけ

ど、実は意固地で自分の意見は絶対曲げない」

 玲子に冷やかされ、大黒は「そんなこと、今言わなくてもいいだろう」と気恥ずかしそ

うに目を逸らした。

 「人見知りで、体が弱くてさ。アタシの方が体格良くて走り回ってたから、二人でいる

とよく男女逆に思われてたよね」

 そう言って、玲子は光輝に送信したものと同じ写真を大黒に見せた。

 「お前、それ、何で持ってるんだよ」

 「大変だったよ、押入れの奥から何十冊もアルバム引っ張り出してきて」

 慌てて取り返そうとする大黒に、玲子は言った。

 「光輝君に聞いた時、どこかで見た気がしたんだよね、金魚柄の着物。なのに、碧は何

で黙ってたの?」

 玲子の話が理解できずにポカンとしている光輝に、大黒は「ごめん」と謝った。

 「えっ? どういうこと?」

 「あの写真の女の子、碧なんだよ」

 「ウソ、えっ、いや、だって、女の子、だったよ。だって、将来の‥‥」

 動転して頭が働かない。甘い思い出だったはずの記憶が粉々に崩れていく。

 「将来の‥‥?」

 玲子が続きを促すように、光輝の顔を覗き込んだ。

 「い、いや、何でもない」

 玲子は誤魔化されたことに納得いかなかったが、矛先を大黒に変えた。

 「碧はどうして藤澤君に意地悪したの。この話、碧の方が先に聞いたんだから、その時

話してあげればよかったじゃない」

 「それは‥‥」

 言い淀みながらも、大黒は照れ臭そうに話した。

 「ガッカリさせたくなかったんだよ。藤澤君、すごく嬉しそうに話してたから。期待し

てたのが女の子の格好した男の子だったなんて、気の毒すぎるだろ」

 「まあ、確かにねえ」

 「それに、僕以外の人の記憶と混ざってるのかもしれないとも思ったし‥‥。でもね、

僕は同じクラスになった時、藤澤君を見て、あの時の男の子だってすぐ分かったよ」

 光輝は驚いて大黒を見た。

 「どうして?」

 「小さい頃から、顔、変わってないでしょ」

 「うーん、そうかなあ」

 「それにあの時、君の家の勝手口から裸足で飛び出してきたの、見てたからね」

 「俺が?」

 「やっぱりな。君が覚えてたのは、赤い着物を着た女の子と将来の約束をしたってこと

だけなんだな」

 光輝は申し訳なさそうに、「うん」と頷いた。

 「じゃあ、裏の小川で一緒に小魚とったりザリガニ釣ったりしたことも覚えてないん

だ?」

 「ごめん‥‥」

 「僕は、それまでで一番楽しかったから、ずっと覚えてた。あの頃、僕はいつも女の子

の格好をさせられてて、男の子と遊ぶことがなかったし、恥ずかしくて表に出ることもほ

とんどなかったから。あの日は、たまたま父親の用事について行ったんだと思うけど、退

屈でさ。小川で魚を眺めてたら、君が家から飛び出してきて、釣り方を教えてくれたんだ

よ」

 「俺、そんな遊びしたかな‥‥」

 思い出そうとするが、小さい頃の記憶は蔵の中のことしかない。

 「確かに君だよ。君は、『俺は、フジサワコウキ。大きくなったら、お前は俺のお嫁さ

んだからな』って、指切りしてくれたんだ」

 「わあーお!」と、玲子が冷やかした。

 光輝の頬が赤くなる。耳まで真っ赤になっているのが自分でも分かった。

 「いやー、だから、それは‥‥」

 「分かってる。僕を女の子だと思ったからだよね。だから、僕は名前を言えなかったん

だ。でもね‥‥」

 大黒は顔を近づけると、光輝の目を真っ直ぐ見た。

 「あの約束、本当に嬉しかったんだ」

 そう言われて、光輝の腰が引ける。

 「お嫁さんになりたいってことじゃなくて、ずーっと一緒にいられる友達ができたって

ことがね。幼稚園も小中学校もずっと別だったけど、藤澤君のことを忘れたことはなかっ

たよ」

 大黒は爽やかな笑顔を光輝に向けた。一度は崩れた淡い恋心のようなものが、別の形で

蘇り、光輝の心を温める。

 「良かったよ。いつか、藤澤君にちゃんと話したいって思ってたから。でも、言い出す

きっかけがなかなかなくてね。すまなかった、今まで隠してて」

 「ううん。倉田さんがその子だって、俺が一方的に決めつけてたからだよね。こっちこ

そ、ごめん。だけど‥‥一つ聞いていいかな」

 「何?」

 「どうして女の子の格好してたの? いや、あの、大黒君の小さい頃の写真、めちゃく

ちゃ可愛いし、似合ってるし‥‥言いたくないならいいんだけど」

 不用意な一言で怒らせないように、光輝は言葉を選んだ。だが、どう話そうかと躊躇う

大黒に先んじて、玲子が言った。

 「この土地の古くからの風習、知らない? 名家の男の子は女の子の格好させられるの。

藤澤君とこはやらなかった? 男の子に悪いものが憑くのを避けるんだって。でも、実際

は‥‥」

 そこまで言って、玲子は口をつぐんだ。

 「うちは、僕が生まれた頃、曾祖父さんと曾祖母さんが生きてたからね。そういう伝統

みたいなことに、やたら煩かったんだよ」

 玲子がつくった間を、大黒はそう言って埋めた。二人が光輝の様子をうかがっているの

が分かる。光輝はいつもの調子を心がけた。

 「聞いたことあるよ。ここら辺、神隠しが多かったって。でもそれって、男の子を狙っ

た誘拐とか人身売買じゃないかって話だよね」

 二人の緊張が解けていく。

 「だけど、うちは‥‥」と、古い記憶を辿り、光輝は思い出した。

 三、四歳の頃だろうか。祖母の志乃に桃色の着物を持って追いかけられたことがあった。

志乃が着物を着る時は日舞の教室がある時で、その日も着物姿の女性たちが次々と集まっ

てきていた。女たちは自分を見ると、頬を撫でたり体を揺すったりして、口々に「可愛い

わねえ」と言った。そして膝の上に座らされ後ろからきつく抱きしめられた。強烈な香水

の匂いで息が苦しくなり、手足をバタつかせるが逃げられない。それが怖くて、着物を着

ると稽古場に連れて行かれるんじゃないかと、逃げ回っていたのだ。それでつい勝手口か

ら‥‥。

 「ああーっ!!」

 光輝は大黒を指差した。

 「どうした?」

 「思い出した。やったよ、ザリガニ釣り。だけど、大黒君も話、端折ってるでしょ」

 大黒が気まずそうに、自分の唇に人指し指を当てる。

 「えーっ、何、ずるい。アタシにも教えてよ!」

 玲子が叫んだが、光輝は口を固く結んだ。

 あの日ザリガニ釣りをしていて、大黒はハサミで指を挟まれた。細い指に血が滲み、つ

いに『お母さーん』と泣き出してしまう。光輝が力いっぱいハサミを開いて助けると、大

黒は痛む指を押さえて、『僕が泣いたこと誰にも言わないでね。一生の約束だよ』と言っ

た。光輝は、『それなら、俺のお嫁さんになれよ。そうしたら、約束守れるよ』と、小指

を差し出した。女の子の姿をした大黒は、初めはキョトンとしていたが、おずおず小指を

差し出すと、指を絡ませてきた光輝に飛び切りの笑顔を見せたのだった。

 今の大黒からは想像できない姿に、光輝はフフッと笑った。

 「藤澤君、内緒だからね」

 大黒が、小指を差し出した。光輝はその指に小指を絡めた。

 「ずるーい!」

 子供に返った二人に嫉妬して、玲子は大声をあげた。


 蔵の扉を開けると、湿った匂いがした。

 「なあー、話がしたいんだ、出てきてくれないか」

 高い天井に向かって、光輝は大きな声でゆっくりと話しかけた。だが残響が消えると、

再び室内の空気はピンと張り詰める。

 「酷いこと言って、悪かった。俺、思い出したんだ。アンタは確かに、俺の遊び相手だ

った。だから、また出てきてくれよ」

 大黒から二人が出会った日のことを聞かされて、光輝の記憶の扉が開いた。

 裏の小川でザリガニを釣っているとは思いもよらない志乃と知香子が、光輝の姿が見え

なくなって大騒ぎしたというのを、光輝は聞かされたことがある。

 兄のハルキの行方不明から数年しか経っておらず、大事な一人息子を再び失う恐怖が襲

ってきたのだろう。仕事に出かける支度が途中だった知香子は、腰紐姿のまま家中を探し

回った。それでも見つからずに表に飛び出すと、大声で光輝の名前を呼んだ。

 狂ったように叫び続ける声に、隣近所の人たちが窓から顔を覗かせる。志乃の生徒たち

も踊りどころではなく、みんなで家の周囲を探し回ったところ、小川で泥だらけになった

光輝を見つけたのだった。

 勝手口で志乃に足を洗ってもらっている光輝を見つけると、知香子は着物の裾をはだけ

て飛んできた。そして光輝の頬を、思いっきり平手打ちしたのだった。

 土間に倒れた光輝は、何が起こったか分ないという様子でポカンとしていた。それほど

知香子の形相は凄まじく、見たこともない女の顔をしていた。

 志乃は光輝を抱き起こそうとしたが、知香子はその手を払うと、光輝の二の腕をつかん

で蔵の中に押し込めた。

 光輝が蔵に入れられるようになったのは、それからだった。

 初めて閉じ込められた時は、薄暗くて物寂しい蔵に恐怖を感じたが、それにもすぐに慣

れた。むしろ教室がある日は、女性たちから逃れるように自分から入っていった気もする。

今まで閉じ込められたと思っていたのは、最初の日の記憶が強烈だったせいだろう。

 「ここで一緒にボール遊びしたよな。あと、宝探しもした。そうだよな」

 光輝は再び天井に向かって叫んだ。

 蔵に入れられて何度目かの時、硬い床に寝転がっていると、足元にボールが転がってき

た。どこから転がってきたのかは分からないが、何気なく蹴って隅の方にやると、直ぐに

また転がってくる。今度は頭の方に投げてみる。バウンドして遠去かっていったボールは、

バウンドして戻ってきた。

 次に蔵に入った時、床に一つだけ積み木が落ちていた。古いおもちゃが仕舞ってある箱

に戻して、光輝は床に寝そべった。するとコツンと音がして、仕舞ったはずの積み木が床

に落ちている。今度はその積み木を、着物を入れた茶箱の中に隠してみる。そして再び目

を離すと、また積み木が床に落ちる音がした。

 小学校に上がると、光輝は蔵で宿題をするようになった。教科書を開いてノートに問題

を書き写していると、風もないのに教科書のページが捲れる。書き間違えて消しゴムに手

を伸ばそうとすると、角ばった消しゴムが机の上からゴロンと転げ落ちた。「邪魔するな

よぉ」と、文句を言いながら、それでも光輝は楽しかった。

 姿は見えなかったが、あの時、アイツはずっと傍にいたのだ。

 どうして忘れてたのかな‥‥。

 思い出に浸っていた光輝の足元に、空気の抜けたボールが転がってきた。

 「いるんだね?」

 光輝は、アイツの存在を確信した。

 転がってきたボールを、蔵の隅に放り投げる。すると再びボールが転がってきて、足元

まで1メートル程の所でピタリと止まった。

 「いるなら出てきてよ。また一緒に遊ぼうよ」

 足先を風が撫でる。へこんだボールがわずかに揺れている。

 「お前が消えろと言ったのだ」

 暫くして、光輝の問いかけに躊躇うように、懐かしい声がした。

 「ごめん、言い過ぎた」

 多分、目の前にいるであろう声の主に向かって、光輝は謝った。

 「私はずっとここにいる。見えないのは、お前が私を欲していないからだ。やむを得ま

い。お前には連れができたのだからな」

 心の中を見透かされて、光輝はどう答えればいいか悩んだ。

 「私は嘘をついた。婚姻の誓いなど、お前と交わしてはいない。お前の話に合わせただ

けだ。楽しくて‥‥人間と相見えるのが楽しくて、つい人の世に身を置きたいと思ってし

まったのだ」

 「分かってる。だからアンタが成仏できるまで、一緒にいたら良いよ」

 「言ったであろう。私は、自分が何者か知らぬ。人だったのか、物に憑いたものなのか。

どこから来て、どこに帰れば良いのか。実のところ、婚姻したところで本当に成仏できる

かも分からぬのだ」

 「だから、良い方法が見つかるまで、また時計に憑いてれば良いだろ。そしたらまた、

俺の代わりに自転車漕いでよ」

 「それは断る。お前はもっと体を鍛えろ」

 フフッと笑う彼の声が、鼻先をくすぐる。

 「もう良いのだ。お前とは、もう充分に遊んだ」

 声の主が消えそうな気配に、光輝は焦る。

 「俺はまだ‥‥」

 「お前に子供ができたら連れてこい。その子供と遊ぶとしよう」

 「俺の、子と?」

 「ああ、そうだ。お前の父親が亡くなった時、チカコが遺品を持ってここに来た。私は

チカコの望むまま亭主の姿になって、『子どもが手にあまる時は、ここに連れてこい。い

つでも面倒見てやる』と言った。その子どもが、お前だ。チカコもいつの間にか私が不要

になったのだろう。もう私の事など覚えてはいまい。だがそれは、人間にとって幸せなこ

となのではないか?」

 「そう、かもしれないね」

 今自分に姿が見えないのは、誰にも言えなかった悩みや、どうでもいいつまらない話を

聞いてくれる存在ができたからだとすれば、アイツの言う通りかもしれないと、光輝は思

った。

 「私の命は永遠だ。お前の子も、そのまた子どもも、遊び相手はいくらでもいる。その

時まで、暫く休んでいるとしよう」

 「もう、会えないのかな」

 「そうなるように、祈ってるさ」

 「あのっ‥‥」

 次の言葉が続かない。

 時が来たのを悟ったように、足元に風が巻き起こると、渦を巻いて天井へと昇って行っ

た。

 すべての気配が消え、蔵の中の空気が止まる。

 いつ終わるともしれない孤独な闇の中に、アイツが戻って行ったのかと思うと、胸が詰

まる。

 だがきっとまた、誰かの目の前に現れるのだ。自分の気持ちを言葉にできない幼な子や、

言葉にできない思いを抱えた者の前に、その者が望む姿になって。

 その時にまた一緒に遊べるように、人の世の移ろいを見せてやれるように、時計は修理

しておこう。

 光輝は、壊れた時計を桐の箱に入れて、蔵の重い扉をゆっくりと閉めた。


                                     (了)

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[良い点] 幽霊を題材にしているため幽霊をどのように扱うのかを中心に読んでいましたが、まさか婚姻を申し出てくるとは思いませんでした。本気の婚姻ではなく冗談だと幽霊は言っていますが、本当に冗談なのか主人…
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