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なの葉の不思議

 その先は崖だった。間一髪で、政光がなの葉を抱き留める。宙に浮くなの葉の足の先には、渓流が渦を巻きながら下っていた。

「わぁ、びっくりしたわぁ」

 そう言いながら、大して驚くようすでもない。政光の方が余程心臓が縮み上がるかと思った。

「これだから、あなたを一人にしておけないのです」

 手にしていた弓の弦でなの葉が怪我をしないよう気を遣いながら、彼女の身体を安全な場所へと下ろす。


「でも、ちゃんと水のありかを探しあてたでしょう」

 得意げになって笑いかける妻。

 政光は怒る気も失せて溜め息をついた。

「都会育ちのあなたが、どうして水の匂いを嗅ぎあてられるのですか」

「さぁ、よくわからないわ。でも、都にいるころも井戸を掘り当てたことがあるの」

「腕力以外にも特技があったのですね」  

 感心していいのか、呆れていいのか、わからない。しかも、なの葉の不思議はまだまだありそうだ。

 ――一緒になって半年も経つというのに。


「それで、これからどうします? 水場が見つかったは良いですが、どうやって水を得るのです?」

 渓流までは三丈(じょう)(約九m)ほどの高さである。

「えっと・・・・・・」

 崖の縁に跪くようにして、谷を見下ろした。そして右手を指さし、

「見て! けもの道があるわ。きっと鹿や猪が水を飲みにくるのよ」

 政光も妻を真似て谷を覗き込むと、確かに動物が踏み歩いてできた小径がある。

「だから何で、都会育ちのあなたがけもの道とか・・・・・・、いえ、もういいです」

 なの葉の不思議をいちいち不思議がっていてはキリがない。


「馬を下ろすのは無理だが、人間の分は確保できるな。郎等たちを呼んでくるか」

 独りごちる政光が横を向くと、すでになの葉は駆け出していた。やれやれと身体を起こし、土のついた膝をはたく。そのとき、

「きゃぁぁぁ」

 妻の悲鳴に、とっさに顔を上げた。足を滑らせて、谷に落ちたか。違う。なの葉はそこにいた。すぐ横に見知らぬ男。彼女の身体を抱きすくめるようにして、その首へ山刀をあてていた。

 ――山賊!

 とっさに矢をつがえる政光のかたわらに、ばらばらと仲間の盗賊たちが現れる。

三人。皆、弓を構えていた。

 ――付けられていたか。

 なの葉にかまけ、警戒を怠った己れを恥じた。


「仲がよろしいのはいいけれど、少しのん気過ぎたね。お侍さん」

 賊は政光の心を見透かしたように挑発する。そうして出方を見極めようとしているのか。

 男は、なの葉に目を移した。

「あんた都の女だね。都の女は高く売れるからいいよね」

 山賊のねらいは何も旅の荷駄だけでない。女をさらって遠国に売り飛ばせば、いい稼ぎになる。

「でもあんた、もっと美人だともっと良かったのにねぇ」

 なの葉の波打つ髪を手に取って、匂いを嗅ぐ。

 政光はかっとなって、()(づる)を引き絞る腕に力を入れた。男の眉間に矢壺を定める。

「おっと」

 男はなの葉の髪を引き掴んで自分の身体の前に押し出した。

 弓には自信がある。だが万一なの葉に当たりでもしたらと思うと、弓弦を手放せない。

 この男が頭目なのか、目で手下に合図し、政光の右手を囲む男たちは、その弧を縮める。左手は崖。緊張は限界に達する。だが、この弓を下ろしたら自分は男たちの矢の餌食だ。なの葉はどうなる。政光の腕がぶるぶると痺れ始めた。

「さぁ、もうあきらめなよ。弓を下ろ―――」

 頭目は最後まで言い切ることはできなかった。

 なの葉の勢いよく上がった右足が男の膝を蹴りつけたのだ。

「痛ぇぇぇっ、膝の皿割れた!」

 うずくまる頭目に見向きもせず、政光は素早く身体をひねった。仲間の災難に気を取られている盗賊どもへ、斜め前の男に一の矢、右手の男に二の矢。

――あと一人!

 矢を継ぐ間はない。地面に転がる。すぐ上を男の放った一の矢が過ぎる。地面に手をついて真上に跳ね上がる。その場に二の矢が突き刺さった。

 男と目が合う。同時に胡簶(やなぐい)へ手が伸びる。矢をつがい、矢壺を定める。あとは政光の方が速かった。引き絞った弓弦から矢が放たれると、真っ直ぐに男の左目を突き抜け、頭蓋を穿った。三人の男はたった数瞬で絶命した。


「このくそあまっ!」

 頭目は手下の死にも気付かず、怒り狂ってなの葉の髪を掴んで引き回した。

 振り向いた政光の弓には矢が(つが)えてあった。

 頭目がなの葉を崖下に突き落とすのと、政光の右手から弓弦が離れたのは同瞬だった。

「なの葉っ!」

 彼女が立っていた場所に駆け寄った。足が勝手に頭目の死体を蹴りつける。

 政光は崖の縁に手をついて見下ろした。

 轟々と渦巻く水の流れ。

 弓を置き、引き千切るようにして胡簶を外す。

 彼は無謀にも渓流へ跳び込もうとしたのだ。

 と、そのとき突然、目の先にある水面の一点が光った。

 光は幾筋もの光線に別れ、辺りを目映く照らし出した。

 政光は眩しさに目を細めた。

 中心の波頭の一つが空中へ引き寄せられるように渦を巻きながら立ち上がる。

 呆然と見上げる政光へ、天に向かってそそり立つ水の柱は徐々に形を現す。

 水の煌めきの一つ一つが青き鱗に変じ、頂きは見覚えのある生物の顔に。

 あるときは先祖代々の鎧の意匠に、あるときは氏神の祠の御神体に現される、我らの護法神、伝説の霊獣―――

 ――青龍・・・・・・

 その前肢には、ぐったりと喪心したなの葉を抱えて。

 政光は思考を失った。

 龍神の差し出す妻を受け取ると、そのまま腰を抜かし、地面に座り込む。

 龍神は、再び波頭に姿を変えながら、ゆっくりと政光の視界から消えた。

 なの葉の不思議は不思議を超えていた。

 政光は腕の中にある己れの妻を見た。


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