旅の途中
再び、小休みとなった。だが家来たちの顔が浮かない。持っていた水筒が皆、空になったからだ。それは政光も案じていた。途中で補充しようと思っていたが、西上の際に記憶していた泉や沢に、帰途出会わなかった。この三年の間に枯れたか流れが変わったかしたのだ。
一行の不安げな顔を見て、なの葉は言った。
「お水? それなら心配ないわよ。私が見つけてきてあげる」
笠を手に、ふらふらと木立の奥へと分け入る。彼女の奇行はいつものことで、家来たちは含み笑いの顔を見合わせるだけだ。
「私はそなたの方が心配だ」
政光は馬を下りると短弓を手に、なの葉の後を追った。郎等たちは腰を上げようともしない。我が家では、北の方の面倒を見るのは主人の役目、そう思っているのか、いや、案外彼らなりに気を利かせたのかもしれない。
政光はなの葉に追い着き、追い越し、斜め前を行こうとする。
なの葉はちょっとつまらなそうな顔をする。歩を速め、政光の隣に並ぶ。
「ねぇ、一緒に歩きましょうよ。どうせなら手を繋がない?」
なの葉は笠を持たぬ方の手を差し伸べた。
「えっ・・・・・・?」
政光は真っ赤になってなの葉を見た。男女の手つなぎなど性行為の一種ではないか。
「いいじゃない。誰も見ていないわよ」
大胆だ。政光は大いにうろたえて、立ち止まる。
「さぁ、行きましょう」
なの葉は政光の手を取って、どんどん前に進む。
政光は赤面しながら、妻に続く。
「ねぇ、殿、次の旅は、私も馬に乗りたいわ。高いところから見る景色っていいものでしょう?」
「確かに見晴らしの良いものですが、落ちてけがでもしたらどうします。やめて下さい」
政光は妻のことが心配でならないのだ。それが彼女を不自由にさせるとも知らず。
「あら、ずるいわ」
なの葉は夫の顔を覗き込むように見上げる。きゅっと強く握り締めた手を、歩みに合わせて振る。彼女には他愛ない遊戯でも、彼には前戯を受けているようなものだ。動揺の余り、言葉遣いが出会ったころに戻っているのにも気付かない。
政光はいたたまれなくなった。しかし、妻の手のひらからは熱っぽいものは全く伝わってこず、何やら自分だけがときめいて損をしたような気分だ。
仕返しをしたい気持ちになって、引っ張られる手を掴み直すと、ぐっと妻の身体をこちらへ引き寄せた。勢いでなの葉の市女笠が足元に落ちる。
夫の胸の中に捕らえられたなの葉は、夫の顔を見ずに、
「あのね、京では言えなかったことがあるの」
ここで彼女の声調が変わる。
「だからと言って、あなたの故郷で聞いてほしいことじゃないの。旅の途中の今ここで、聞いてほしいことがあるんだけれど」
「あぁ、うん」
「何にも知らないって言ってた私の母のことだけど・・・・・・」
なの葉は、夫の胸に語りかけるようにしたが、
「うん、うん」
「って、殿! ちゃんと私の話を聞いてないでしょ!」
妻が抗議の声をあげても、政光は「うんうん」うなずくばかりで、
「もういいわ。殿にはもうお話しないから!」
なの葉が怒り出しても上の空だった。
政光を見上げて、なの葉がぷんぷん怒る。
「男の人って全然女の話を聞いてくれないのね」
その通り。
今の政光には妻が口をぱくぱくさせているようにしか見えていない。
その顔に、己れの顔を覆い被せようとする。
けれど、当のなの葉は大きく目を見開いたまま、くんくんと鼻をひくつかせたので気が削がれた。
「ねぇ、水の匂いがしない?」
「水の匂い?」
政光は周囲を見渡すが、「そもそも水に匂いなどない」と、少し不機嫌になる。
「そんなことないわよ。水にだって匂いはあるわ」
政光の胸からぱっと飛び出して、走り出した。
政光も妻のあとを追う。
なの葉のむかう方向へ走り続けると、その先からどうどうと水の轟きが近づいてきた。
鼻腔をくすぐる硬質な冷気。
――なの葉の言う水の匂いとはこのことだったのか。
木立が途切れ、明るい日差しの中になの葉は跳び出そうとした。
「危ない!」