故郷、東国へ
京で人々が穏やかに過ごしていられたのも、この時期までであった。
保元元年(一一五六)、都では天皇家の兄弟の諍いから、摂関家、源平一門が真っ二つに別れ、親子、兄弟、叔父甥間で、血で血を洗う争乱が勃発した。結局弟の天皇が兄の上皇に勝利するが、この争乱で人々は武士の力を思い知る。
なの葉が仕えていた男児の父源義朝は天皇方(後白河)に付き、上皇方(崇徳)に付いた実父為義を断罪した。三百年以上途絶えていた死刑もここに復活する。
彼女の実家の八田氏は天皇方に参じて勝利軍に名を連ね、狡っ辛い異母弟知家も十七歳で初陣を果たしていた。
さて、政光らといえば、そのころ都になかった。ちょうど三年の大番役を終えて都を後にしていた。
初夏、間もなく京で争乱が起きるとも知らず、政光一行は東山道を下っていた。政光や俊広らは馬で、身分の低い者たちは徒歩で、なの葉は竹製の釣り輿に乗って。
輿の長柄に当たらぬよう市女笠を手にする彼女は、袿を被衣にした壺装束である。慣れない長旅で疲れはせぬかと政光は心配するが、本人はいたって元気である。その大きな瞳に映るもの全てが珍しいらしく、担ぎ手にあれこれと尋ね、笑わせたり困らせたりした。
政光は見かねて、
「そなたを運びながら、相手をする身にもなりなさい。おしゃべりは小休みのときに私が相手になるから、以降慎むように」
政光のなの葉への物言いは夫から妻へのそれに改まっている。
しかし、
「そうねぇ、気付かなかったわ。これからは気を付けるわね」
なの葉は相変わらずである。
都会育ちの彼女には鬱蒼とした木々の中をくぐり抜けるなど初めての経験だ。日の光に透ける新緑をその瞳に映し、きらきらと輝かせている。
――あぁ、そうだ。
と政光は思い立つ。
路傍に生える、ごつごつとした幹の常磐木から若枝を手折ると、次の休憩になの葉に見せた。
「これがそなたの名の由来の小楢の葉だ」
枝と若葉には淡色の毛が密生していて、政光はなぜだか照れた。
「これが小楢の葉ね」
なの葉はいっそう目を輝かせながら、小枝を受け取る。
都人なら、ここで気の利いた歌でも詠むものだが、政光は三年の在京をもってしても和歌の腕は上達しなかった。
――私には歌才がない。子どもたちには小さいころから仕込ませるとしよう。
自分にない才能を次代に期待する。
なの葉が当の古歌を口ずさんだので、政光はそれに耳を傾けた。
休憩を終え、再び一行は進む。道は狭く険しくなる一方で、この辺りは盗賊が出てもおかしくない。鎧こそ付けてはないが、弓は袋から取り出して弦を張り、いつでも騎射できるように準備した。丈も木立の中で使えるよう短く詰めてある。
もっとも、京から東国へ戻る一行の形はよくない。大番役で家計は逼迫し、どうしたって行きより帰りの方がみすぼらしくなる。後年、大番役は武士に負担をかけると頼朝が朝廷に交渉して半年に、さらに三ヶ月に減じられるが、それは四十年後、武家政権が確立して以降である。
田舎にいたころは、漠然と京への憧れを抱いていた政光だったが、実際に目にした都は美しいものばかりではなく、醜いものの方が多かった。得るものより失うものの方が多かった。その荒みがこの形に現れたようだ。
――ただ一つ、都で得たものは。
言うまでもない。政光は後ろを振り返る。よそ見をしていたなの葉も視線を感じたのか、夫の方へ顔を向け、笑いかける。
京で使っていた雑色の小丸であるが、よく気がつく上、彼も身寄りがないと言っていたので、下野に来ないかと誘ったが、
「お気持ちはありがたいのですが」
体よく断られてしまった。それほど都の人間にとって東国は異国なのである。
けれど、なの葉は付いて来てくれた。
心配になって一度訪ねたことがある。
「東国はあなたが思っているよりももっと鄙びたところですよ。暮らしも言葉も違って」
「大丈夫よ。私はどこでも生きていけるから」
笑って言う。
確かに、なの葉であればどこに住もうがすぐに順応してしまうだろう。宮中生活から急転の困窮暮らし、さらに政光の宿所へ。何の苦もなかった。
彼女の逞しさは幼少時の環境によるものだろうか。
当時の一般的な夫婦の生活は、妻方の家で営まれる招婿婚である。もっとも妻は一人と限らず、生まれた子どもは女の家で養育する。だから宗綱が娘を放っておいたのはそれほど冷淡なことではない。責められるべきは乳母の選択を間違ったことであるが、
「父は、小さいころも時々会いに来てくれたわよ」
と、なの葉は笑って言う。
きっと屈託のない子どもで、宗綱も娘が端女代わりにこき使われているとは気付かなかったのだろう。夫婦の会話の中で、彼女の母親のことは話題にならない。というより宗綱が語らず、知りようがないのだとなの葉が言う。母親の身分が低いか、よほどの事情があったのだろうか。