政光、なの葉に会う
徒歩で行く先ほどの小路は、またいっそう心証が思わしくない。水はけが悪く、足元が泥に汚された。同じ目の高さとなった家々の戸の隙間から見知らぬ者を監視するような視線を感じる。
――こんな界隈に住んでいて大丈夫なのか?
心配になりながら、なの葉の家は、と身体の向きを変えた途端、柴垣の破れ目から出てきた女とぶつかりかけた。
小袖に前垂れを巻いた若い女は、驚いたように目をまん丸にして政光を見上げた。井戸で洗いでもするつもりだったのか、両手で菜っ葉の入った笊を抱えていた。
――なの葉に仕える端女か。
「失礼した。私はこの家の主の知り合いの者で――」
なの葉に会うつもりはなかったので心の準備ができていない。けれどここできちんと名乗らねば、ただの不審者である。
「太田四郎と言えばわかって頂けると思うが、この近くに来たついでに立ち寄ってみたのだが・・・・・・」
うんうんとうなずきながら政光の顔を見る娘の瞳はもともとが大き過ぎるのか、こぼれ落ちないかこちらが心配になるほど見開かれていた。
しかし、
「いや、主には、急なことなので取り次ぎはけっこうだと――」
と伝えようとしたが娘は最後まで聞かず、
「わかりました。しばらくしたら中にお入りください」
と言い置いて、慌ただしく家の中に入ってしまった。
――しばらくしたら、ということは案内もなしに、中に入れということか?
政光は狐につままれたような気持ちになった。
――あの娘は気が利かない。ろくに人の話も聞かず、しかも客人をこんな軒先に待たせるなど、家人の教育が行き届いてないな。
家々から見張られるような視線を背中に感じて、政光は所在なく。
思いを巡らすうち『しばらく』起った。
だが、しばらくといっても人によって感覚は違うであろう。政光は自信なげに小路から声をかけるが、返事はない。
仕方なしに、枯れた雑草が倒れかかる庭先を掻き分けるようにして奥にまわる。
そこから家の中は丸見えだった。不用心に戸は開け放たれ、視線を遮る調度は何もない。中では、袿姿の女が鏡に向かい、せっせと額に眉を描いていた。鏡越しに目が合う。女ははっとして目を見開き、眉筆を落としかける。慌てて化粧道具を脇に退け、左手の袖で顔の下半分を隠し、右手が床の上をさ迷う。何かを探しあぐねるように。
「あの、扇でしたら、あなた、自分の左膝で踏んづけていますよ」
政光の言葉に女はぎくりと肩をすくませ、次の瞬間拾い上げた扇を、ぱっと顔の前に拡げる。とろいのか、素早いのか、わからない動作である。
「八田殿のご息女ですよね」
女はこくこくとうなずく。
「それから先ほどの端女もあなたですよね」
女は一瞬硬直し、それからがくりと肩を落とした。
「なぜ、わかりましたの?」
「そりゃわかりますよ、あなたくらい目の大きな人はめったにいないでしょう」
政光は、なの葉の目を見て言った。美人の基準から大きく逸脱する、ぱっちりとした黒目がちの瞳。
「お・・・・・・、お恥ずかしゅうございます」
「いや、恥ずかしがらなくていいですから事情を説明してください」
がさごそと枯れ草を掻き分けて濡れ縁に近付くと、そこに腰かけ、政光はなの葉に話を促した。
「あのですねぇ」
先帝崩御を受け、なの葉は宮仕えを辞めた。普通女が職を失えば実家に帰るものだが、母を生まれてすぐに亡くしたなの葉には実家というものはない。小さいころは乳母の家で育ったが、その乳母もすでに他界している。長く疎遠になっていた乳兄弟に世話になるのも気詰まりだ。彼女は独立を考えた。といっても次の職が決まるまでの間だ。蓄えもあまりなかったので、それなりの家に住み、端女も雇わず、自炊生活を始めた。
「私、こう見えて何でもできるんです。乳母が小さいころから仕込んでくれたおかげで」
「ちょっと待ってください。乳母が主人の娘に端仕事をさせていたんですか」
「何か問題でも?」
「大いに問題ですよ。何て阿漕な乳母だろう」
そう言っても、きょとんと見返すだけの彼女に、続く言葉が見つからなかった。
「おかげで、生活には不自由していませんわ」
なの葉は明るく言い返す。
「とはいえですね― 女の一人暮らしは体裁が良くありませんから」
一人二役、端女と女主人を演じていたというのだ。
「それにしたって女所帯じゃないですか。危険ですよ。特にこの界隈は」
しっかりしているのかいないのか、よくわからない。
「この辺りの人は大丈夫ですよ。皆さん、やさしい人ばかりですよ」
なの葉は、にっこり笑う。
――駄目だ、この人。やっぱり全然しっかりしていない!
小路での刺々しい視線を思い出した政光は、
「いけません! 不用心ですよ。戸だって開けっ放しだったし、強盗が押し入っても助けてくれる人がいないでしょう」
「強盗だなんて、こんな家に大した物があるとは思われませんから」
「あなた自身が狙われるかもしれないのですよ」
これほど無防備な人間に、よく宮仕えができたものだ。
「とにかく、こんな場所に一人で暮らしていると知ったら、このまま居させるわけにはいきません。引っ越しましょう」
「引っ越すといっても、どこへ? いつ?」
なの葉は首を傾げるようにして政光を見上げた。
路地の泥を跳ね上げながら、政光は家路を急いだ。背中になの葉を負ぶって。
女の髪が、自分の胸のあたりに落ちて揺れる。波打つ髪。政光の好みでいえば、まっすぐの方が良いのだが。しかし、背中に当たる箇所箇所は意外な豊かさである。
「あなたってすごいわねぇ。人を担いで走れるなんて」
政光の悶々(もんもん)に全く気付くようすもなく、背中にしがみつくなの葉はのん気なものだ。
――こんなとろい人をあの家に、あと一晩も置いたままにはできない。
と、よりいっそう思う。
「荷物は後で家の者に取りに来させますから」
政光は振り向かずに言う。
「あっ」
「何ですか?」
「扇を落としてしまいました」
政光は立ち止まって足元を見た。
「あきらめてください。この泥では使い物になりません」
また走り出す。
「そう。お気に入りの扇だったのに・・・・・・」
「あとで私が買ってあげますよ」
「本当? うれしいわぁ。でも、あなたってすごいのねぇ」
「はい?」
「走りながらしゃべれるなんて」
「・・・・・・」
政光は何も言う気にもなれず家路を急いだ。