あの日の約束
奥州の息子たちは、源平合戦での不足を補うように、大きな活躍をみせた。特に末子の朝光は、天候を味方につけ敵を撹乱し、副将を打ち取ったという。
政光は息子たちからの報告に満足したが、ただ、その余話に聞き捨てならぬものがあった。
緒戦前夜のことである。
真夜中を過ぎ、夜空に稲光が走ったかと思うと、大音響とともに頼朝方の宿所に雷が落ちた。これから戦さが始まるというのに不吉なものだと皆が騒ぎ始めた。
「奥州藤原氏の祖先秀郷公といえば、龍神の加護を得た方。何かの障りではないでしょうか?」
などと、妙なことを言い出す輩がいた。
下野小山氏と奥州藤原氏は先祖を同じくする。今でこそ、奥州藤原氏の方が家格が上だが、秀郷の嫡流といえば下野小山氏である。
頼朝は三兄弟を指さし、
「何の、我が軍勢には秀郷公の嫡流がおるではないか」
と言って、人々をなだめたという。
「俺たちって使えるでしょ」
とは宗政の言であるが、政光には思うところあった。
――合戦前夜の雷電は、我らの護法神の起こしたものこもしれぬ。
龍神の怒り、あるいは身内同士の血闘を戒めようとして……
しかし、避けえぬ戦いにあって、
――護法神はこちらを選んだか。
奥州征伐の二年ほど前、文治三年(一一八七)、頼朝は小山庄近くの寒河郡、ならびに網戸郷の地頭職を思の方に与えている。
「これ、女性たりと云えども大功有るによって也、云々」と。
小山氏のみならず実家の宇都宮氏にも働きかけ、北関東の勢力を頼朝方に向かわせたのが最たる功であろう。
――よく考えると、我が妻はすごいものだ。
思の方は、東西、公武、それぞれの最高権力者に仕えた上、東国武将の命運を左右したのである。
武士のように合戦で勝つ、官僚として政治を執る、そんな歴史の表舞台での活躍というわけではない。 だが、妻の判断が東国の独立につながったことを、政光は知っている。
思の方は歴史的決断をした女傑、と云えないこともない。
もっとも、当の彼女はそんな肩書きとは程遠く、相変わらずほわんとして、つかみどころのない会話で侍女たちを困らせていた。
当時の武士の妻、母というものは尊敬され、重みある立場で本人も自覚をもって振る舞うのであるが、何事も例外はあり、思の方は何歳になってもこの調子で夫を心配させていた。
政光は老い、病に倒れると、己れの死後のことを考えてか、
「儂は心配でならぬのじゃ。そなたらの母は儂がいないと生きていけない人じゃから」
幕府の権要となった息子たちを小山へ呼び戻して、泣きついた。
「大丈夫だって。お袋は親父が思っているほど弱くないから」
「私たちが付いていますから心配は無用ですよ」
子どもらは父をなだめる。
そして、政光が臨終も間近というころ、息子らは両親を寝所に二人きりにした。
政光は枕頭の妻へ、震える指で部屋の隅の長持を差した。
「開けるのね?」
妻の問いに、政光はゆっくりうなずく。
思の方は長持に歩み寄ると、蓋を軽々と持ち上げた。
途端に目が眩んだ。
あふれる光と色彩に。
金泥銀泥を塗り、とりどりに彩色された幾つもの檜扇、紙扇。
菊、牡丹、紅葉に流水、松や鶴亀、その他、花鳥風月、吉祥模様をこちらにひろげ。
「殿、これは?」
扇の一つを手に取り、思の方は不思議そうに政光を見た。
政光は顔をほころばせながら、妻を見返す。
「・・・・・・あなたの、喜ぶ顔が、見たかったのです」
知らず知らず、政光の言葉遣いは二人が出会ったころのものへと還る。
お気に入りの扇をなくしてしまったなの葉へ、
「私が買ってあげますから」
そう、初めて二人が出会った日に交わした約束。あれは政光の心よりの言葉だった。
京にいたころは自ら市へ買い求め、下野に戻れば京より取り寄せた。
――妻の喜ぶ顔が見たい。
二人が交わした初めての約束。満足のいくものをと、集めに集めた。
けれど、渡すきっかけを失ったまま歳月が流れた。
「・・・・・・どうですか? 気に入ったものは、ありましたか?」
「はい、殿、これも、それも、あれも、皆、大好きです」
輝く笑顔を夫に向け、妻は腕一杯に扇を抱えて部屋を歩き回ると、それを政光の床の周りに散らした。
ひらひらと舞い落ちる扇たち。
室は目に鮮やかな花園と化す。
金泥の反射が眩しいのか、政光は目を細めながら、
「まるで、極楽浄土のようですね」
「いやねぇ、殿、まだ死んでもいないのにそんなことを言って」
顔を見合わせて笑った。
妻は枕元に座る。夫はそっと手を差し延べ、その手を握ってもらう。
「幸せにしてくれて、ありがとう」
「こちらこそ、幸せにしてくれてありがとう、ですわ」
妻はにこにこしながら反唱する。
「子どもを産んでくれてありがとう」
「こちらこそ、子どもを授けてくれてありがとうです」
「今まで一緒にいてくれてありがとう」
「こちらこそ、今まで・・・・・・」
その後の言葉が途切れた。
「私は先に行ってしまう。必ず向こうで待っているから」
ぽろぽろと涙をこぼす夫に、同じく頬を濡らす妻。
言うべき言葉が見つからなくて、代わりにぎゅっと手を握り締めた。
部屋の外では息子たちが涙を堪えて、
――何か、言ってやれよ。お袋よぅ。
――いいんですよ。夫婦だもの。言葉なんていらないんですよ。
相思相愛の夫婦だった。
二人の愛が小山一門の結束の源だったと知る。
夜、意識を失った政光が翌日息を引き取ると、同日、思の方は髪を落した。