政光の心配ごと
政光は平家が凋落して後、ようやく解放された。
「えっと、毎晩おふくろの夢見なかった?」
とは宗政も聞けなかったが。
源平合戦終結後、京での軟禁生活ですっかり年を取った政光は、頼朝への奉公は息子たちに任せ、下野の経営に専念した。妻のおかげで小山一族は主君のおぼえもめでたい。
自身も鎌倉殿との主従関係を忽せにせず、奥州征伐のため下野を通過した際には心を込めて持てなした。けれど、その宴の場で、政光はやらかしてしまう。
関東の大軍勢を率いる頼朝を、下野国司である彼が恭しく出迎えた。
自身は老齢のため追討軍に加わらないが、主君に近侍する息子らを誇らしげに見ながら、ありあまる佳饌と美酒を用意し頼朝に奉仕した。
「妻女は息災か。せっかく下野に来たのだから、一言くらい声をかけてやりたかったが」
「数万の兵を率いる鎌倉殿に気後れして、この度は遠慮しました。また別の機会にでも連れてきましょう」
思の方が頼朝の乳母といっても、二人は九歳の年の差である。肉親との縁薄い彼は、姉のように親しんだ乳母が不参と聞き、少し落胆したようなようすをみせる。
政光は、そんな主を慰めるようにして酒を勧めていたが、ふと紺色の直垂を着た若武者に気付いた。
同じ家格の者であれば、顔くらい知っているはずだが、生憎と見覚えがない。
政光は頼朝へ若者の素性を訪ねた。
すると、主君曰く、
「紹介しよう。本朝無双の勇士、熊谷小次郎直家だ」
――本朝無双?
これを聞いて政光の鼻息が荒くなった。
「鎌倉殿は何をもって、この者を無双と言われるのです?」
「熊谷直実の一ノ谷戦の働きはそなたも聞いておろう。父親ともども私のために命を捨てて戦い、他にも多くの功績を挙げている」
直家の父直実は、平家の公達、敦盛を討った有名な武蔵の武将である。
政光は声を立てて笑った。
「主のために命を捨てるのは武人として当然のこと、直家に限りましょうか。それに直家程度の家格では郎等の数も知れたもの、自らもって奮戦し、名を挙げるしかないのです。その点、私ほどの者になりますと、一族の者や家来たちを遣わせて手柄を立てさせればよいと」
彼は憶することもなく、
「まぁ、息子らには今回の合戦で『無双』の御旨を賜れるよう、我が身を尽くせと申しておきましょう」
大胆にも主君を前に言ってのける。
頼朝は機嫌を損ねたようすもなく、政光の瓶子を受けたが。
すぐ後に、息子たちから、
「ひやひやしましたよ。ご不快を受けるかもしれないところだったんですから」
「俺だって御所殿相手にあんな口は利かねぇぜ」
老人の不注意のように言われ、政光はしょぼくれた。
政光が主君に過ぎた口を利いたことは、彼なりに理由があったのだ。
それは源平合戦で彼の留守中、朝光が頼朝の烏帽子子となり、近習に取り立てられたことに端を発する。
頼朝の朝光への特別扱いに、御家人の間で、
「本当のところ小山七郎は、鎌倉殿の隠し子では?」
と云った噂が流れたのである。
少年主人の初事に乳母が体を張るというのは、京ではよくあることだ。高倉帝なども徳子の前に乳母に子どもを産ませている。
九歳の年の差、というのも妙に生々しい信憑性を帯びて、
「佐殿が京にいたのは十四歳、とすると相手は二十三歳か。いいねぇ」
などと噂する。
――何がいいものか!
政光は噂を広めた人間を片っ端からぶん殴りたい気持ちになった。
頼朝が思春期のころは、すでに思の方は政光の妻として下野にあり、後に流刑先となった伊豆になど出かけたこともない。
――馬鹿言っちゃいけないよ。
嬉しくもない悶々を胸の内に抱えていたところへ、当の頼朝が下野に訪れることになったのだ。
これを聞いて、思の方は、
「わぁ、私、精一杯お持てなしするわ!」
と、張り切るものだから、政光は慌てて、
「いや、今回は遠慮しなさい」
頼朝に会うのを止めさせたのである。
主君の手の早さは政光の耳にも届いている。また、思の方も年を取りにくい体質なのか見た目は未だ女盛り。旧交を懐かしんでいるうちに、とんでもない『お持てなし』を求められたらと、政光は気が気ではなく、そういった彼の心労が先の過言を生んだのである。
かほど己れが心を砕いてお仕えしているに、他家の人間を褒めるなんて、と。
だのに息子たちから、やいのやいの言われ、頼朝の軍勢を送り出した後、政光はぐったりとなった。
――あぁ、鎌倉などに仕えなくて良かった。もし私が鎌倉に住まねばならぬことになったら、毎日が心配事だらけだ。
安堵の溜め息をつく。
――鎌倉殿の偉大さはよくわかるのだが。
体が許せば、今だって奥州征伐に参じたいと思っている。
武門に生まれながら、ほんの少し場所や時期を違えたために、大きな合戦を経験せずに生を終えることが口惜しい。
己れの命を懸けて戦いに身を投じたい。そんな思いがふつふつと沸く。