前篇
大魔法使いオズバートは、愛弟子レイに言いました。
「レイ、よくお聞き」
「はい。お師匠様」
ぶかぶかの、灰色のローブを身に着けたレイは、まっすぐに大魔法使いを見上げました。大魔法使いはおじいさんでしたが、レイが見上げるほど背が高かったのです。
彼は優しく目を細めると、長くて真っ白なあごひげを揺らしながらゆっくりと話し始めました。
「わしが教えてやれることはもうない。お前もそろそろ独り立ちする時だ」
大好きな師と別れるのは、とても寂しく悲しいことでした。
もう少しここにいたいと思ったのですが、師がいつも言っていた言葉を思い出して口をつぐみました。
『魔法とは世界から力を借りて使うこと。決して自分のためだけに使ってはいけない。お前が持つそのたぐいまれなる力、世のために使いなさい』──ことあるごとに師匠はレイに言い聞かせたのです。
「はい。お師匠様。今までお世話になりました」
来るべき時がやって来たのだと理解したレイは、涙をこらえてうなずきました。
そうして魔法使い見習いは、一人の魔法使いになりました。
さて。
魔法使いとなったレイは相変わらずぶかぶかの灰色ローブを着ながら、長い旅をしていました。
庵を出たのは春の盛りだったというのに、今ではもう夏が過ぎようとしていました。
レイは町や村をめぐりながら、人々の手伝いをします。
出会った人々はみんな良い人たちで、レイは楽しい旅を続けていました。
でも、一つの町や村にとどまるのは長くても一週間。
なぜかいつもかすかな違和感を感じるのです。それは疎外感にも少し似ていました。
「きっとここは私の定住すべき地ではないのだろう。きっとどこかに『ここだ』と思う場所があるに違いない。行こう、次の町へ村へ」
丁寧に畳んで机の上に置いていた灰色のローブを取り上げて、身にまといます。
そうして数日を過ごした仮の住まいを後にするのです。
「いつか、どこかに庵を持てればいいのだけれど。お師匠様みたいに」
思い浮かぶのは、森の中の一軒家。決して大きくはないけれど暖かくて居心地の良い、オズバート師の庵。
「さぁ、行こう!」
旅のお供は師から贈られた樫の杖ひとつ。
さて。さて。
それからもレイは旅を続けました。
相変わらず相棒は樫の杖ひとつ。
海の魔物に苦しめられた港町がありました。
海では魚が捕れなくなり、船は破壊され、漁師は魔物の餌食になりました。
レイは町の人々から事情を聞いて、いたく心を痛め、氷の魔法で魔物を凍らせて退治しました。
大吹雪に閉ざされてしまった村を救ったこともありました。
干ばつに見舞われて滅びそうな町を救ったこともありました。
増水した川に飲み込まれそうだった街を救ったこともありました。
救われた人々は大喜びで、レイを口々に褒めたたえました。
「ああ、心優しい魔法使い様。私たちはあなたに救われました。心から感謝いたします」
そうしてこう続けるのです。
「ぜひこの地に留まってくださいと申し上げたいところですが、その偉大なお力はもっと多くの人々を救うための力。ひとつ所にとどめてはいけないもの。どうぞ旅をお続けください」
レイは多くの人に見送られて、また旅に出ます。
旅を続けるうちに心優しき魔法使いの名前は少しずつ有名になっていきました。
秋が過ぎ、冬が過ぎ、また春がめぐってきました。
一年の旅でレイはすっかり日に焼けておりました。手もあかぎれだらけ。
ローブもだいぶ色あせて灰白色に変わっていましたし、すそは擦りきれ、ところどころに繕ったあとがあります。
それでもレイは楽しかったのです。
自分の魔法でたくさんの人々を幸せにできたからです。
フードに半分隠れた目は、きらきらと希望に輝いています。
でも、ひとりで春の夜風に吹かれていると、ちょっとだけ物悲しい気分になりました。
師とふたりで、春の満月の夜にしか咲かない宵月草の露を取りに行ったことを思い出します。ヒカリゴケがぼんやりと浮かびあがらせるけもの道や、その先に広がった一面の青い花。
あのころが懐かしいと思う日は、空を見上げてこぼれそうになる涙をこらえました。空ははるか遠く、思い出の土地とつながっているのですから。
「やぁ、きれいな夜空だ。きっとお師匠様も見ているに違いない」
そう思えば、寂しさもまぎれたものでした。
ホタルの飛び交う季節、レイは一つの村を訪れました。
とても小さな村でした。
それにしても静かで、昼間だというのに、男たちは仕事もせず広場に集まっています。
レイがこれまで度々目にしてきた光景で、すぐに何か困っているのだと察しました。
「みなさん、こんにちは。私は旅の魔法使いです。何かお困りのようですが、私にできることはありませんか?」
声をかけると村の男たちは次々に話を始めました。
半月ほど前から奇妙な眠り病が流行り始めたというのです。
原因はわからず、朝が来るたび目覚めぬ者がひとりふたりと増えていくのだといいます。
村人たちはどうすることもできず、困り果てていました。
最初に眠り病にかかった者はもう半月も、水も食べ物も口にしていないのです。命の火が消えるのも時間の問題でした。
「お役に立てるかどうかわかりませんが、その眠り病の原因を探してみましょう」
「ありがとうございます、旅のおかた」
原因はその日のうちにわかりました。
村から少し離れた森の中で、毒花が異常に繁殖していたのです。その黄色い花の花粉は人を深い眠りにいざないます。
西から東へ吹く初夏の風が運悪く、村へ花粉を運んでおりました。
本当ならそんなに群生するはずのない花でした。何かの偶然が重なって生い茂ってしまったのでしょう。
花がかわいそうではありましたが、レイは毒花の野原を結界で囲い、炭になるまで焼き尽くしました。
あとは村に戻って、家々を掃除して花粉を追い出してしまえば、眠り病の人々は目を覚ますでしょう。
はたして、レイの言った通り、人々は意識を取り戻し、村は以前のような活気を取り戻しました。
「魔法使い様、ありがとうございます」
「おかげさまで私の妻と子どもは元気になりました」
「あなた様は本当に偉大なお方です。いくら感謝してもし足りない」
人々は喜んで口々にレイを褒め称えました。
「何もないところですが、よかったらゆっくりして行ってください」
初めて言われた言葉。こそばゆいような嬉しさを感じながら、村人の好意に甘えることにしました。
村に滞在を初めて十日目のことでした。
困っている人はいないかと村のあちこちをめぐって、その帰りのことでした。
数人の娘たちが井戸端で芋を洗いながら、かしましくおしゃべりしています。
レイに盗み聞きする気はなかったのですが、偶然聞こえてしまいました。
「ねぇねぇ! あの魔法使いさん、すごいわね。たった一瞬で毒花を燃やし尽くしてしまったのでしょう?」
「ええ。本当にすごいわね。とても力の強い魔法使いさんなのでしょう」
今まで村を訪れた魔法使いがすることと言ったら、大道芸のような技がせいぜい。レイのように大きな魔法を使う者はいませんでした。
「でも、ね」
ひとりの娘が声を低くして言いました。
「あそこまで強い魔法使いって怖くはない? だって、あの人にかかったらこの村なんか一瞬で消し炭よ? あの人を怒らせたら……と思ったら、わたしもう怖くて、怖くて」
「ま、まぁ……そう言われてみれば」
「それもそうかもしれないわねぇ」
ひとりの悪口が伝染したように、ほかの娘たちも次々と眉根を寄せました。
「みんな、なんて失礼なことを言うの! あの方はこの村を救ってくだすった恩人でしょ!」
ひとりの娘が憤慨して立ち上がりましたが、ほかの娘たちはしゃがみこんだまま顔を見合わせています。
「そんなこと言ったって……ねぇ?」
「ええ、そうよ。……ねぇ?」
「ええ、ええ、本当に」
「怖いものは怖いわ」
レイはその場をそっと去りました。
「そうか、そうか。私の力は人を怖がらせるのか」
得心が行きました。
今までたくさんの人が、レイに持ちきれないほど食べ物や路銀を渡して旅に送り出してくれたのには、そういう意味もあったのでしょう。
「そうか、そうか」
悲しいけれど、仕方のないことだと思いました。
レイだって得体のしれない怪物と出会ったら怖いと思います。人々にとっては自分がその『怪物』と同じようなものだと気づいたので、怒る気も起きませんでした。ただ、ただ、悲しいと思いました。
それと同時に、ひとりの娘がかばってくれたことをとても嬉しく思いました。
「いいんだ。いいんだ。私がしたことは決して無駄ではないのだから」
翌朝早く、レイは色あせた灰色のローブを身にまとって村を発ちました。
「魔法使い様、そう急ぐとこはありますまい。もっとゆっくりしてくださればいいのに」
引き止める村長に向かってレイはゆっくりと首を振りました。
「もう充分休ませてもらいました。私は旅立たねばなりません」
「どちらへ向かわれるのですか?」
「あの森に向かいます」
そう言ってはるか南、地平線を覆うように黒々と広がる森を指さしました。それを見て村長も、後ろに控えた村人たちも目をむきました。
「あの森は……」
「幽鬼の森と呼ばれております」
「行ってはなりません」
「あそこは恨みつらみを抱いた亡霊が吹きだまるところ」
「足を踏み入れた者はみな亡霊に取り殺されると聞きます」
「おやめなされ。あたら若い命を散らすこともありますまい」
村人たちは口々に止めました。
レイだってその森がどんな場所かは知っています。
けれど、人と交わることに少しだけ疲れてしまったレイは、人の住まぬ深い森に惹かれてしまったのです。
けれど、人のことが大好きなレイは、交わりを完全に断つことはできなかったのです。
一晩考えに考え抜いて、死者の森を目指すことにしたのです。
その森では、かつて人であった魂たちがたくさんの悲しみと怒りと痛みを抱えて救いを待っているに違いありません。
自分が彼らの助けになれるかどうか自信はありませんでした。
「それでも私は行きたいのです。私に何ができるかわかりません。でも、彼らの声を聴き、話し相手になることぐらいはできるでしょう」
レイの決心は固く、誰にも止めることはできませんでした。
「心配してくれてありがとう、みなさん。大丈夫、私には魔法があります。どうか心配しないでください」
そういって笑えば、村人たちも少し表情が和らぎました。
「ああ、そうか。魔法使い様はお強くていらっしゃる。幽鬼など恐るるに足らないのですね」
「これはこれは! 大変失礼なことを申し上げてしまいました」
こうしてレイは小さな村を発ち、幽鬼の森を目指しました。
色あせた灰色のローブと樫の杖を友にして。
この一年でレイの背が伸びたので、灰色のローブは少しだけ丈が短くなっておりました。
使い込まれた樫の杖は角が丸くなり、つややかなあめ色に光ります。