セレナーデ
結婚生活は、思っていた以上に速く破綻しました。妊娠と同時に、妻との距離は隔たる一方でした。それまでは味わうことのできた団欒も、今や過去の思い出です。
コトリを再び見るようになったのは、無味乾燥な日常を繰り返していたある夏の黄昏時でした。
会社の同僚は、めっきり精彩を欠いた私を気にかけていました。何とか励まそうと、普段では足を向けることのないような歓楽場へ、私を誘ったのです。
「たまには、口うるさい細君のことなんて忘れて、パーッと楽しんでみようじゃないかっ!明日への原動力にもなるかもしれないよ。違うか?」
などと説得されて、連れて来られたのが、当時流行りのガールズバーでした。カウンターの内側では、きらびやかな衣装に身を包んだ数人の若い女が、バーテンダーの真似事をしていました。
私がいた職場は、男が幅を利かせる社会でした。仕事先にも女性は珍しく、話をすることもほぼありませんでした。特に、それが若い女性ともなれば、数年に一度くらいの機会だったように記憶しています。
元々が話好きでもあり、人当たりは良い方でした。一旦会話が始まれば、直ぐにでも打ち解けるタイプだったのは確かです。その夜も、バーテンダーの一人と、かなり話し込んでいたようです。
酒の力も手伝い、そうとう饒舌になっていたそうです。いつもなら口にしないような下ネタも、ひっきりなしに出ていたそうです。やはり、寂しさを紛らわせたかったのでしょうね。その夜、あろうことか、人生で始めての不倫を働いてしまったのです。
妻には、「接待で遅くなる」とは伝えていたものの、眼が覚めたのはホテルのベッドでした。カーテンの隙間からは、既に朝日が差し込んでいました。隣には、胸を顕にしたバーテンダーが寝ていました。彼女の顔を見ているうちに、その夜ここで起こったことが、再生録画のように思い出されました。女の下半身にかかったシーツだけが、やけに生々しく感じられたものです。
心に巣くったやましさは、毛穴を伝ってでも漏れ出ていたのでしょうか。浮気がばれたのは、ほんの些細な言葉のやり取りからでした。
妊婦特有の異常に研ぎ澄まされた嗅覚は、普段は決して付くことのない移り香に対して、指示薬のように反応しました。その日以来、嫉妬と怒りが彼女の感情の大半を占めたようです。挙句には、憎悪に形を変えて噴出し始めました。
私の携帯電話を盗み見ては、激昂していたようです。例え、それが会社から送られてきたメールであっても、間違いなく疑いの目を向けていました。彼女の眉間に刻まれた皺が、猜疑心の深さを物語っていました。
その後は、憤りが胎教に良くないからと、ただひたすら耐えていたようです。それでも、怒りは治まらなかったのでしょう。世話になっていた病院を、何も告げずに退院し、実家に戻って出産を終えました。勿論、病室を引き払ったことすらしりませんでした。
数年が経ち、娘の麗花は小学生になっていました。たまたま取引先の商談が早くすんだので、珍しく夕方の満員電車に揺られて帰ることになりました。
夜中に帰宅することも少なくなく、娘の顔を見る機会にもなかなか恵まれませんでした。明かりの乏しくなったキッチンで、一人寂しく飯を暖め、テレビを見ながら食事をするのが常でした。私が帰る頃になれば、決まって妻は娘を連れて部屋にこもり、翌朝になるまで顔を合わせようともしませんでした。娘と会うことがあるとすれば、日曜日の午後くらいのものでした。
家庭内別居でもなければ、離婚を控えているという訳でもありませんでした。ですが、妻の私に対する感情は、歳と共に冷え荒んで行ったようです。
夕食を終え、子供の顔を思い出しながら、部屋のドアをノックしました。期待通り、中からは物音一つ聞こえてはきませんでした。ドアを開くと、子供の代わりに、娘が愛して止まないクマのぬいぐるみと目が合いました。
窓は大きく開かれたままで、カーテンの裾が風に波打っていました。日没の太陽が、今まさに建物の屋上を掠めようとしていました。あたかも、湯船から顔だけを出している、禿げた老爺のようでした。
眼下にはマンションの駐車場が広がり、その先には歩道が見えました。充分な光さえあれば、歩行者の顔ですら分かるくらいに、素敵に見晴らしのいい場所でした。距離にしても、100メートルと離れてはいませんでした。ただ、逆光の下では、人影も薄ぼんやりとしか見えませんでした。
窓を閉じて、カーテンを引こうとしたときでした。母親と歩く少女の姿が、建物の陰から出てくるのが見えました。隣にはもう一つ影があり、それはどう見ても男のシルエットでした。
遠目には、仲の良い若い夫婦が、子供を連れて歩いているように見えました。しかし、その女が私の妻だと分かるのに、三秒とかかりませんでした。夫の不貞を非難する裏で、彼女は男と遊んでいたようです。
暫くすると、二人は帰ってきました。麗花は、いつもと変らず楽しそうにしていました。ただ、妻の方はと言うと、ほとんど顔も合わせずに奥の部屋へ行こうとしました。どこに行っていたのかと訊いたところで、うやむやな返事をするばかりでした。そのうちに、娘を急き立てるようにして、隣の部屋へと入ってしまいました。
どうにも私には、あの男のシルエットが頭から離れませんでした。彼女一人ならいざ知らず、娘まで巻き込むのは許せませんでした。それ以来、あの夕暮れのことを、いつか問い質す機会を狙っていました。
それからまた数ヶ月が経った、ある長い残業から帰った夜のことでした。偶然にも、妻の携帯電話が食卓に放置されていたのです。
忘れられた携帯は、バイブ設定になっていました。家族契約をしたスマホでした。彼女は、既に熟睡していたらしく、テーブルを震えながら移動する電話にも起きてはきませんでした。
画面に表示されていたのは、男性の名前でした。急いで通話ボタンを押しました。幸い、ロックはかかっていませんでした。妻と見知らぬ男の写真が、モニターいっぱいに広がりました。黙ってスマホを耳に当てると、直ぐに電話は切れました。
妻に、不倫相手がいるのは明らかでした。裏切られていることが分かっても、不思議と、怒りは湧いてきませんでした。むしろ、予感が当たっていたことに、喜びさえ覚えました。しかし、怒りの代わりに意識の奥底に根付いていたのは、配偶者に対する仄かな殺意でした。
彼女の浮気を知った頃から、更に頻繁に、コトリを目にするようになりました。
コトリとは、子供の頃に大人から何度も聞かされた、ある物の怪のことでした。子供を殺された親が、黄昏時を境に、人から物の怪へと姿を変えて、他人の子供をさらっては殺してしまうという怪談話でした。さらわれるのは子供だけとは限らず、ときには大人の男でさえ、奴等の餌食になると聞かされていました。
私の里では、太陽が地平線の向こうへ沈む間際を、降魔の時間と呼んでいました。コトリが出るのは、もっぱらこの時間帯でした。ほとんどの家庭では、夕暮れ時が近付くと、子供を戸外へ出さないようにしたものです。
夕闇が忍び寄る頃合は、人とも獣ともつかない物影が、突然人の背後に現れたり家の戸口に立ったりしました。故郷では、年に必ず一人か二人は、コトリの犠牲になるといわれていました。なぜ、コトリと呼ばれているのかと言えば、小鳥の囀りに似た音を出しながら接近するからだそうです。
迷信だと笑う人がほとんどで、神隠しだと言う人もいました。実際に、私がコトリを見たときは、神とは似ても似つかないその姿に怖気が立ったものです。
夏の暑い日に、アスファルトから立ち上る陽炎が、より黒くはっきりと形作られたのが、まさしくコトリそのものでした。身の丈は、大人の男をはるかに凌ぎ、一抱えもある木のような厚みがありました。透明で、体を通して反対側の景色が見えました。縮んだり膨らんだりを繰り返しながら、絶えず揺らいでいました。
どこからが首で、どこまでが胴体であるかも分からず、そのくせ人のように歩いていました。不気味な暗さの頭部には、あるはずのない口が大きく裂けているようでした。おまけに、冷たい視線でこちらを見ているようにも思えました。
初めてコトリの姿を見たのは、ほんの束の間、それもかなり遠くからでした。たったそれだけの遭遇だったのに、高熱を出して丸二日も寝込んでしまいました。
コトリは、私にとっては何よりも恐ろしい記憶でした。二度と見たくはない化け物でした。なのに、あれから数十年も経ったある日、偶然にもまた目撃していたのです。
コトリが、黄昏時に子供をさらって行く魔物であることは知っていました。この町に住んでからも、少年少女が行方不明になる事件がありました。この怪異と出会った者は、遅かれ早かれ鬼籍に入ると言われていました。ただ、私が奴の手にかかろうなどとは、はなはだ考えてもいませんでした。
「吸引機は持ったの?」
妻が、娘の出掛けには必ず訊くことでした。
麗花は喘息で、吸引機を手放せない体です。妻は、二年ほど前に筋腫を患いました。その後経過は良好でしたが、いつ再発してもおかしくはないとも言われていました。
私自身は病知らずで、いたって健康でした。その反面、ストレスのほどは尋常ではなかったようです。何せ、結婚生活は、苦痛を強いられる以外の何物でもなくなっていたのですから。
コトリは、死んだ人が手放すことの出来ない未練が招くのだと信じられていました。
選りによって、殺人があった場所だとか、自殺があった場所などで、盛んに目撃されたのです。自らの意思にはかかわらず死に直面した人の、生への執着心が、この物の怪を呼ぶのでしょうか。現世に対する執着心は、奴を呼び寄せるには格好の材料のようでした。
私達が暮らすマンションの一角にも、コトリが来るには絶好の場所がありました。階下に住んでいた、ある家族の部屋がそうでした。
受験に失敗し、長い間悩んでいた青年がいたそうです。我々が越してきた当時には、もはや単なる噂でしかありませんでした。親の期待が大き過ぎたのか、ある日突然、一家全員をバットで撲殺したそうです。それ以来、その部屋には借り手がついていません。殺された家族には、間違いなく未練が残ったことでしょう。
ノイローゼを抱えてはいなくとも、死に体な夫婦生活ということでは、充分に陰鬱な感情がありました。物の怪が来ても何ら不思議ではないくらいに、未練は大きく拭えぬほどに成長していました。そして、帰宅電車の中から夜の街並みを眺めていたときでした。コトリが、私達の部屋へとやって来る情景が、薄ぼんやりと脳裏に映って見えたのです。
それが現実となったのは、そう遠い未来のことではありませんでした。
九月も数日を残し、汗を拭きながら歩く人の数も少なくなった頃でした。その日も帰りが早く、日没にはまだ間がありました。ちょうど、天使と悪魔が立場を入れ替えようとする刻限に迫ったときでした。落日が消えかかる寸前で、私達が住むマンションの前に、コトリが姿を現しました。
奴は、部屋の前で、立ちはだかるように待っていました。それは、紛れもなく私の部屋の前でした。ドアの内側からは、霧に似た白い気体が流れ出ていました。
両足は、コンクリートに打ち付けられたようで、ぴくりとも動きませんでした。一筋の冷たい汗が、背筋を伝って下りて行くのを感じました。
しかし、部屋の中には誰もいなかったようです。少し目を逸らした瞬間、奴の姿は忽然と消えていました。
やっとのことで足を踏み出し、部屋の前へとやってきました。恐る恐る、鍵を開けて入ってみると、そこには人のいた形跡はありませんでした。ただ、まだ夏は終わったばかりだというのに、部屋の中には肌寒くなるくらいの冷気が立ち込めていました。
コトリが、狙った人を襲うのは、目を付けてから数日後と決まっていました。
先日、私の部屋にやって来たのは、おそらく奴にとっては初日だったのでしょう。例えそうではなくても、家族の誰かに被害が及ぶのは、もはや時間の問題でした。
愛娘と顔を合わすのは、ほぼ週に一度、日曜日の午後と決まっていました。それまでをマンションで過ごすのは、自殺にも等しい行為でした。麗花だけは、何としても守らなければなりませんでした。
コトリが部屋の前に立った夜、妻に全てを打ち明けました。ですが、いくら説明をしても、信じようとはしませんでした。彼女が傍らにいる限り、娘の危険は避けられそうにありませんでした。麗花だけは、何としても守る必要がありました。そこで、いかにして、夕刻の迫るマンションへ近付かせないようにするかを、考えなければなりませんでした。
会わないながらも、いつもメールを送っていました。昼休みのわずかな時間にも、二、三通のメールをやり取りしました。朝からメールが来ることも、けっして珍しくはありませんでした。
コトリが来ると予見した日も、会社に出かける前にはメールを送りました。
〈今日は、パパもママも遅くなるから、お友達の家で遊んでいてね〉
娘が、私とメル友であることは、流石に妻も知りませんでした。母親に話せば反対されるのを、子供心にも察していたようです。娘とのメールの交換が、私が味わえた、唯一つの家族らしさでした。
娘の日常は単調でした。学校から帰ってくるなり、夕方近くまで、近くの公園や友達の家で遊んでいました。校門が閉まってからでは遊べる場所も限られるらしく、授業が終われば直ぐに帰ってきました。
その日も、日が暮れるまでは、友達の家か公園で過ごしているようにとメールを打ちました。
〈ゆう子ちゃんちで遊んでくるから、心配しないで。パパは今日も遅いの?〉
彼女からの返信を確認するまでは、気が気ではありませんでした。しかし、万が一帰らなければならないときは、近くの図書館へ行くようにと、念には念を入れておきました。
〈分かった。パパも、あまり無理しないでね〉
帰ってきたメールを見て、ようやく安心できました。
肝心の妻は、その日は学生時代の友人達と食事をすると言っていました。
「三時過ぎまでは帰らないから」
予定を告げる言葉からは、偽りしか伝わってきませんでした。欺こうとしているのが分かった刹那、それまで眠っていた仄かな殺意が、再び首をもたげ始めたのです。
是が非でも、その日、掛かる時間帯に、彼女を帰宅させる算段をつけたくなりました。
「いつか話した部長との会食、今日になったから」
上司と同僚を自宅に招くのは、随分前から承諾を得ていました。
「やけに急ね。もう少し早く言ってよ。こっちも、それだけの準備が要るんだから」
男との逢引を控えていたとはいえ、その声は妙に弾んで聞こえました。渋々ながらも引き受ける彼女に対して、心のこもらない礼を言って電話を切りました。
妻が一番懸念していたことば、私が職を失うことでした。稼ぎを運んでくる間は、ウソでも夫婦生活を続ける気でいたようです。離婚と、女手一つで子供を育てる苦労を天秤にかけた結果、嫌でも仮面夫婦を続けることを選んだのです。その対価といえば、それは不倫に他ありません
私のためには戻らなくても、現状の生活を維持できることを思えば、夕方までには部屋にいるはずでした。私の計算では、昼と夜の狭間において、妻は台所で食事を作っていなければなりませんでした。その光景を、頭の中で見飽きるほどにシミュレートしていたのですから。
会社には、午後から得意先を訪ねる旨を告げてありました。部長との会食は、勿論私の作り話でした。昼食時の人の出入りに紛れるように、カバンを片手にオフィスを出ました。
私の願いはただ一つ、妻がこの日の黄昏時に、一人でマンションの部屋にいることでした。
自宅から余り遠くない喫茶店で、私は妻に電話をしました。夕方までには自宅に居るようのと、再三の念を押すためでした。
「分かってるわよ。もういい?」
どこで何をしていたのかは分かりませんが、声には張りがあり、楽しんでいたのが窺えました。しつこくメールを送りつけ、後は日の入りまでの時間を、マンガでも読みながら過ごすことにしました。
二時間近くが経過し、そろそろ空色がオレンジに変わる頃でした。彼女が帰っているのかどうか、確認のために自宅へ電話をかけました。
「もう帰ってるわよ。それより、今夜はすき焼きでいいかしら?」
妻は、思ったよりも早く戻っていました。その声もまた、いつものよそよそしさに戻っていました。
「何人くらい来られるの? 飲み物はビールでいいの? 部長さんはウイスキーが好きだったかしら?」
矢継ぎ早に訊いてくるのを、一々答えなければならないのが面倒でした。しかし、何を置いても、彼女が部屋にいることこそが、そのときの私にとっては一番重要なことでした。妻がマンションにいる確証を得ただけで、心は十分に満たされていました。
「皆さんが来られるのは、何時くらいになりそう?」
八時を目処にするよう告げて、電話を切ろうとしました。妻が何か言おうとする後ろで、聞き慣れたもう一つの声が響いてきました。それは麗花の声でした。
娘の声が聞こえた瞬間、体は電気が走ったように硬直しました。電話を持つ手が震えて、危うく落とすところでした。
「パパ? 今日はお友達が来るの?」
代わった娘は、私との約束をすっかり忘れていたようで、無邪気に話していました。
「麗花、直ぐにその部屋から出な……」
私の言葉が終わらないうちに、妻の声が割って入りました。
「忙しいから切るわよ。ビールが足りないから、帰りにでも買ってきて」
電話は切られ、話中音だけが流れていました。再びコールしても、二度と出ては来ませんでした。
こうなれば、私自身がマンションに向かうしか方法はありませんでした。コーヒー二杯分にしては多過ぎるほどの金を残すと、慌しく喫茶店のドアを押していました。
自宅からはそう離れてはいませんでしたが、それでも1キロ以上はありました。スーツ姿の男が、必死に駆けて行くのを、買い物帰りの主婦達が不審者でも見るような目で見ていました。
西の空は、既に緋色に染まっていました。東の方では、人の時間はとっくに過ぎて、魔が天を覆っているようでした。視界に映る人の姿が、どれもコトリに見えました。
シャツは汗に濡れ、ネクタイにまで滴っているのが分かりました。苦しいからと止まってしまえば、最愛の娘とは二度と会えないように感じました。
走ることなど終ぞなかった筋肉が、乳酸に塗れて悲鳴を上げていました。それでもなお、足だけは、前に進もうとあがいていました。
焼けるような胸を押さえながら、ようやくマンションのエントランスに着きました。ドアが開く間ももどかしく、ガラスを割ってでも入ろうかと思ったほどです。
目的地は五階でした。目も霞むほどの疲労で、もはや太腿を持ち上げるだけの力は残っていませんでした。エレベーターを待つ間に、もう一度電話をかけました。呼び出し音だけが、虚しく耳へと伝わってきました。
五の数字が点滅し、ドアが開きました。静まり返った廊下を、エレベーターから顔半分だけを出して覗き見ました。夕べのおぞましい影は、そこにはありませんでした。
重い足を引きずりながら、部屋のドアまで行き着くと、チャイムを鳴らしました。中からは物音一つもしませんでした。
扉を開けると、料理の匂いに出迎えられました。靴も脱がずに、娘がいることを祈りながら、リビングへと駆け込みました。
室内に人影はなく、夕暮れの生暖かい風だけが、開け放たれた窓から入り込んでいました。キッチンにも他の部屋にも、娘はいませんでした。
妻が、今の今まで料理を作っていたことは、シンクの中に放りこまれていたしゃもじを見ても明らかでした。テーブルには皿が並び、その中央を蝋燭が行儀よく並んでいました。まるで、会社の連中が来ることを、何の疑いもなく、ただ居住まいを正して待っているように見えました。
私一人が、料理の匂いに取り巻かれながら、娘の痕跡を探していました。そして、麗花の大切にしているぬいぐるみを見たときに、全ては手遅れだったことを悟ったのです。コトリは、私よりも一足先に、娘を奪い去っていました。
ですが、まだ諦めきれなかった私は、風呂場を調べていないのを思い出しました。
脱衣場は、明かりの消えた空の部屋でした。
洗面台が、大きな鏡を抱きかかえるようにして立っていました。その直ぐ左手に、風呂場のドアが構えていました。脱衣所も風呂場も、暗闇の中で息を殺して何かに聞き耳を立てているかのようでした。
風呂場のドアを開くと、正面にはガラスが見えました。姿見のように大きく、等身大の私を映し出していました。
失望にくれて、リビングへ戻ろうとしたときでした。濡れた靴をマットレスに下ろしたときでした。不意に、背後で何かが動く気配を察しました。
昨日、マンションの廊下で味わった、冷たい汗が流れていました。途端に、首筋から頬にかけて、異様な寒気が駆け上がってきました。
私は、凍えた手を強張らせながら、ゆっくりと振り向きました。
そこには、あるはずのない目が、私の魂を見詰めていました。狂気に満ちた赤い瞳が、瞬きもせずに、私が来るのを待っていたのです。
全ての神経が切断され、筋肉は凝り固まりました。意識は、極寒の風に晒されているようでした。肉体だけが、意思に反して生き長らえている状態でした。
薄黒く、絶えずメラメラと立ち上る陽炎は、歪んだ笑顔を湛えながら、死の小夜曲を口ずさんでいました。
冷えた指先は、徐々に感覚を失いました。血の流れは緩くなり、耳の先まで脈打っていたのが、気が付けば鼓動すら消えていました。
私の肉体は、コトリと同化し、やがて魂だけがその場に取り残されました。
妻は、買い物へ行っていたようです。意識が半ば消えかけた中で、彼女が玄関を入ってくるのが聞こえてきました。コトリの狙いは、始めから私だったのです。私の体を取り込むと、妻には目もくれずに、マンションから去って行きました。
娘は、私のために犠牲となりました。気の毒な彼女は、魂となったまま、一人寂しく脱衣所の片隅にうずくまっていました。
誰も、陰鬱な感情からは逃れることができません。黄昏が訪れるように、誰も闇とは決別できないのです。彼女の心の中にも、親には打ち明けられない闇があったようです。
とは言え、これでようやく、娘とは親子水いらずに過ごせます。家族でありながら、赤の他人のような妻の目を気にせずに、心置きなく暮らせます。週に一度の楽しみなどではなく、毎日一緒にいられます。
唯一つ、心残りがあるとすれば、妻への殺意が晴らせなかったことです。ですが、やがてまた、同じことは繰り返されます。私達二人が、ここで未練を残している限り、必ずコトリはやってきます。ただ、今は、そうなることが遥未来のことであるのを願っています。それまでの間は、妻には出来るだけ健康で、長生きをして欲しいものです。私が味わっていた、孤独を噛み締めてもらうためにも。