さよならそしてまたいつか
テーマ「光景」 禁則「直喩法の使用・固有名詞の使用」 ※今回、規定枚数をオーバーしています。反省。
それは私がまだ小学一年生だった頃の話です。
ある温かい初秋の昼下がり、私は学校から帰宅すると、台所でジャガイモの皮を剥く母へ呼び掛けました。
「ただいまー、お腹減った。何かちょうだい」
「お帰り。おやつは上の戸棚にあるよ」
「出して」
「もう届くでしょ、一年生になったんだから、自分でやんなさい」
「えー、出してくれないのぉ?」
振り向かぬ母の背を横目で見ながら、私は背伸びして戸棚を開け、そこにしまわれた菓子パンを引っ張り出しました。ビニールの袋を開けると、甘く良い香りがぷんぷんします。思いっきり齧り付こうとした矢先、ふと視界の隅で何かが動いたのに気が付きました。
――何だろう。
感じる違和感に目を遣ると、それは母の右肩につかまり私を見ていました。
「……え?」
最初は人形かと思いました。
それは私が片手で掴める大きさで、ショートカットの髪はくるくるうねっていて、幼児が着るような青っぽいツナギを着ています。顔はとても人間くさくて、しかも誰かに似ていて――少し太くて長い眉に、睫毛の濃いぱっちりした二重の目、ちょっと低い鼻にこじんまりとした口――そう、私にそっくり!
思わず叫びそうになった瞬間、それは慌てて私に「しーっ!」と内緒のポーズを取りました。
どうしよう、どうしよう! 人形じゃなくて小人さんなんだ、しかも私にそっくりなんだと思うと、なおさら心臓がばくばくします。小人さんはそんな私をよそに、母の襟元へダイビング。小さな裸足がスポンと消えたところで、ようやく母が振り向きました。
「どうしたの、何か言った?」
「ええと、あのね……何か、いた」
「何か? 虫?」
「……んー、わかんない」
上手く説明出来ずにいると、母は分かったら教えてねと付け加え、傍らのカレールーを手に取りました。
自分にそっくりな小人さんなんて初めて見たから、どうしたらいいか分かりません。私はひどく困りました。でも、不思議と怖くはありませんでした。
小人さんはその後も時々現れました。ふと気づくと母の背を必死によじ登っていたり、テーブルに置かれた作りたてのおかずを齧っていたり。目が合うと急に消えてビックリさせられたけど、特に悪戯もしないようです。むしろ少し間抜けな所作が面白く見えて来た頃、私は母と父からある事を打ち明けられました。
「あのね、あなたはもうすぐ、お姉ちゃんになるんだよ」
「お姉ちゃん? 私が?」
「そうだよ」
私と並んでソファに座った母は微笑むと、そっとまだぺたんこのお腹を撫でました。
「弟妹が出来るなんて嬉しいね、優しくしてあげようね」
父は隣に座ると、私の頭を撫でます。その掌の温かさを感じながら、私は嬉しい反面、急に不安になりました。
もしもうちに赤ちゃんが来たら、母と父を取られてしまうかもしれない。お姉ちゃんだからって、いっぱい我慢しなきゃならないかもしれない。
赤ちゃんには会いたい、でも来て欲しくない。そんな正反対の気持ちが苦しかったけれど、両親の幸せそうな顔を見ると正直には言えませんでした。
心の隅に重い小石を抱えたまま、幾日かが過ぎたある雨の夜。私はふと夜中に目を覚ましました。
狭い部屋は暗く、閉められたカーテンの隙間から街灯の光が鈍く射し込んでいます。床いっぱいに敷かれた布団で、隣には母が、そしてその向こうには父がぐうぐう眠っていました。
「ママ……」
何だか寂しくなり、向けられた背へ呼び掛けましたが起きてくれません。つつこうと肩に手を伸ばした途端、その向うから小人さんが顔を出しました。
「あっ」
暗い中で何故その姿がくっきり見えるのか分かりませんでしたが、小人さんは母の肩を乗り越えると、布団を滑り降りて私の方へ寄って来ます。こんなことは初めてで、私は思わず起き上がると緊張し布団をぎゅっと握りました。小人さんはそんな私を見つめた後、とびきりの笑顔を浮かべ右手で「バイバイ」しました。
「え?」
一体どういう意味だろう――そう戸惑う私の前で、小さな体が金色に輝き出しました。輪郭は泡へ変わり、ぽろぽろと解れ宙へ上って行きます。咄嗟に掴もうと手を伸ばしたけれど、泡はすべてをすり抜け、天井の向うへ消えて行きます。
「待って!」
崩れ消えて行く笑顔を押さえようと、掌で包みましたが叶いません。やがてすべてが泡となり、跡形もなく消えてしまいました。
「マ、ママーっ!」
「んー、どうしたの?」
「いなくなっちゃったよ、どうしよう!」
「え、何が?」
問われても説明できず、ただ動揺して泣く私を抱き締めて。母は何度も私の背をさすり、大丈夫だと優しく繰り返しました。
それから三日後、母は急に入院しました。父はその理由を、赤ちゃんの心臓の音が止まってしまったからだと教えてくれました。心臓が止まるということ、それは赤ちゃんがいなくなってしまったことと同じだと気付いたのは、母が病院から戻って来てからでした。
「ごめんね、赤ちゃん、天国に帰っちゃったんだ」
力ない言葉とともに、母は泣き出した私をそっと抱き締めました。
ショックでした。そして後悔しました。もしかしたら、あの小人さんは赤ちゃんだったのかも知れません。そして私が心から喜ばなかったから、いなくなってしまったのかも知れません。
ごめんなさい――そう心の中で何度も謝りながら、私はまた小人さんが現れるよう祈りました。でも、再びその姿を見ることはありませんでした。
◆
妊娠のおよそ十パーセントは出産まで至らない――その事実を、私は大人になってから知りました。そして二十代半ばで結婚し娘を授かったことで、当時自分の弟妹が流れてしまった理由を母親の立場で理解出来るようになりました。
ある日の夕方。台所で人参の皮を剥いていると、背後から四歳になったばかりの娘が急に大声を上げました。
「ママー! あのね、ええっとね、あれ、なに?」
「ん、あれって何?」
「ええと、うーんと……お人形さん?」
「お人形さんて、どこの? テレビに出てたやつ?」
私を見上げた娘は口をぱくぱくさせ、ぶんぶんと顔を横に振るとリビングへ逃げて行きました。
どう言おうか考えているうちに、質問自体を忘れてしまったのかも知れません。この年頃の子供には良くあることです。
「ふふふ、面白いなあ、子供って」
私はそう呟きつつ、カレールーの箱を手に取りました。
――古い古い、もしかしたら夢だったと思えてしまうような小人さんの記憶。
人に言えば笑われるでしょう。でも私は未だに忘れられないのです、あの笑顔が泡と消える光景を。そしてまだ待っているのです、いつかまた私の前に現れてくれることを。
【了】