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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。

もう一つの春

掲載日:2025/12/18

 今日も、レジの前に立っていた。

 バーコードを通して、お金を受け取って、袋に詰める。

 それだけのことなのに、今日は妙に長く感じた。


 今日は、足が軽い気がした。

 理由は分からないけれど、それだけで少しだけ気分が良かった。


 パート先のスーパーを出ると、空はもう暗くなりかけていた。

 春先の風は、昼と夜で顔が違う。

 昼間は生ぬるいのに、夕方になると、急に冷たくなる。


 自転車のかごには、値引きされた総菜と食パン。


 今日は、武史の小学校の準備をしないといけない。

 入学説明会で渡された紙が、頭の中に浮かぶ。


 文房具に名前を書く。

 算数セットを確認する。

 おはじき一つひとつにも、名前を書く。


 ゆかりのときにも、同じことをした。


 あの小さいものに、また名前を書かなければいけない。


 分かっているはずなのに、

 思い出すだけで、少し気が重くなる。


 でも、それも嫌じゃなかった。


 大変だけど、

 それは「当たり前の大変さ」だったから。


 娘にLINEを送る。

「仕事終わった。今から帰るよ」


 送信ボタンを押してから、

 画面をしばらく見つめてしまう。


 返事はすぐには来なかった。

 でも、気にしなかった。


 ゆかりは、そういう子だ。

 いつもスマホに夢中で、返事は後回しになる。


 ペダルを漕ぎ出す。

 夜に向かう空気が、頬に当たる。


 うちは、四人家族。

 小学五年生の娘と、年長の息子。

 それから、主人。


 主人は派遣の仕事をしている。

 帰りはいつも遅い。

 帰ってくる頃には、酒の匂いがする。


 休みの日は、遅く起きて、

 そのままパチンコに行ってしまう。


 最初は腹が立った。

 次に、諦めた。


 家にお金を入れているから、

 文句は言えない。

 そう思うようにしていた。


 家庭のことは、私の仕事。

 子どものことも、私が見る。


 私はもう、

 あの人に期待していなかった。


 それでも、

 子どもたちがいれば、何とかなる。


 ずっと、そうやってやってきた。


 団地が見えてくると、自然とペダルを漕ぐ足が速くなる。

 理由は分からない。

 ただ、早く家に帰りたかった。


 子どもたちが、

 家で留守番をしている。


 そのことを思うだけで、

 胸の奥が、少しだけ急いた。


 自転車を止めた瞬間、

 空気が違うことに気づいた。


 騒がしい。


 救急車が、団地の前に止まっている。

 赤い光が、建物の壁に反射している。


 住民が、何人も外に出ている。

 小さな声が、いくつも重なって聞こえる。


 何かあったのかな、と思った。

 それだけだった。


 私には、

 これからやらなきゃいけないことがある。


 ご飯を作って、

 お風呂に入れて、

 武史の明日の準備をして。


 小学校の準備も、進めなきゃいけない。


 それだけで、頭がいっぱいだった。


 階段を上り、三階の踊り場で一度立ち止まる。

 息が切れる。


 年のせいだ、と自分に言い聞かせる。


 でも、胸の奥がざわついている。

 理由の分からない、不安。


 早く家に帰って、

 この感じを消してしまいたかった。


 ご馳走が入ったエコバックを持ち、6階まで登った。


 鍵を開けて、ドアを開ける。


「ただいま」


 声は、思ったより普通だった。

 いつもと同じ声で、いつも通りに言えた。


 廊下に、ゆかりが立っていた。


「おかえり」


 その返事も、いつも通りだった。

 少しだけ笑っている。


 その瞬間、胸の奥がふっと緩んだ。


 気のせいだよね。

 さっきのざわつきも、救急車も。


「値引きのもの、いっぱい買っちゃった」

「今日は武史の好きな鉄火巻きもあるよ」


 そう言いながら靴を脱ぐ。

 買い物袋を持ったまま、台所に向かおうとした。


 ――そこで、立ち止まる。


 ゆかりが、動かない。


 廊下の真ん中に立ったまま、

 私を見ている。


 いつもなら、

 もうスマホを手に取っている時間なのに。


「……どうしたの?」


 自分の声が、少しだけ高かった。


「別に」


 ゆかりは、そう言った。


 でも、目が合わない。


 そして、

 武史の声がしない。


 あんなにうるさい子なのに。

 私が帰ってきたら、

 真っ先に飛び出してくるのに。


「武史は?」


 胸の奥が、ざわついた。


 そのとき、

 インターホンが鳴った。


 ピンポン、という音が、

 やけに大きく聞こえる。


 ゆかりと目が合う。

 返事を聞く前に、玄関に向かった。


 ドアを開けると、

 知らない顔が二つあった。


 警察だった。


「お話を聞かせていただきたいんですが」

「こちらに、小学一年生くらいのお子さんはいませんか」


 一瞬、言葉が出なかった。


「……いますけど、何か?」


 やっと、それだけ答えた。


「そのお子さんは、今、家にいますか」


 その質問の意味が、

 すぐには分からなかった。


 後ろを振り返る。


 ゆかりが、

 さっきと同じ場所に立っている。


「……武史?」


 名前を呼んでも、返事はない。


 私は、ゆかりを見る。


「分からない」


 ゆかりが、そう言った。


 その声は、

 ひどく落ち着いて聞こえた。


 ――分からないって、どういうこと?


 警察官は続けて、

 団地の真下で男の子が倒れていたこと、

 落ちた可能性が高いことを説明した。


 そして、警察が口にした服装や身体の特徴が、

 武史と一致していた。


「武史さんの可能性が高いです。」

「すぐ病院に行って、確認してください」


 そう言われた。


 どうして病院なのか、

 考える余裕はなかった。


 近くの病院だったから、

 自転車で向かった。


 ゆかりには、

「お父さんに連絡して」

 そう言って、家に残した。


 ペダルを漕ぎながら、

 何度も同じことを考えていた。


 武史じゃないよね。

 怪我してないよね。


 最悪のことは、

 考えないようにしていた。


 病院に着くと、

 静かすぎて、耳が痛くなった。


 案内されたのは、

 処置室ではなく、

 小さくて、寒い部屋だった。


 そこに、

 武史がいた。


 ベッドの上に、

 きちんと寝かされている。


 でも、

 動かない。


 触れると、

 冷たかった。


 思っていたより、

 ずっと、冷たかった。


 声が出なかった。


 泣けなかった。


 ただ、

 頭の中で同じ言葉が、

 何度も回っていた。


 ――これは、現実?


 そのあと、

 警察にいろいろ聞かれた気がする。


 でも、何も覚えていない。


 後から来た主人が、

 代わりに答えていた。


 主人は、

 武史が通っていた保育園の名前すら、

 すぐには出てこなかった。


 武史は、

 警察署に運ばれ、

 詳しく調べられることになった。


 私は、家に戻った。


 そして、

 どうして武史が落ちたのか、

 それを調べられることになった。


 確認のため、事故かどうかを確かめたいと言われた。


 事故以外に、何があるの?

 誰かが、武史を落としたの?


 ゆかりが…

 そんなことをするはずがない。


 でも――

 ゆかりの様子は、明らかに変だった。


 一緒にいたはずなのに、

 あのとき、どうして「分からない」と言ったの?


 いや、

 そんなはずはない。


 ゆかりを、

 何もないのに疑ってはいけない。




 家に戻ると、部屋の中が知らない場所みたいに見えた。

 さっきまで、ここで「ただいま」と言ったはずなのに。


 警察官が何人も上がり込んでくる。

 靴を揃えない人もいて、そんなことが、どうしてか許せなかった。


 ここは、私たちの家なのに。


「お母さん、少しお話を聞かせてください」


 年配の警察官が、穏やかな声で言う。

 穏やかすぎて、現実感がなかった。


「武史くんは、どこにいましたか?」


 私は、うまく答えられなかった。


「……留守番を、していて。

 ……私は、仕事で」


 それだけ言うのが、精一杯だった。


「一緒にいたのは、お姉ちゃん?」


 そう聞かれて、ゆかりを見る。


 ゆかりは、リビングの端に座っていた。

 膝を抱えて、床を見ている。


「……はい」


 そう答えたのは、私だった。


 警察官が、ゆかりに向き直る。


「武史くんは、どこにいたか分かる?」


 ゆかりは、少し間を置いてから言った。


「……分からない」


 その声は、妙に落ち着いていた。


 その瞬間、胸の奥に、

 小さな棘が刺さった。


 分からない?


 一緒にいたはずなのに?


 でも、すぐにその考えを振り払う。


 違う。

 疑うなんて、してはいけない。


 警察は、バルコニーを調べ始めた。

 床。

 手すり。


 懐中電灯を近づけて、

 何度も角度を変えて見ている。


「……現場の状況から見ると、

 事故の可能性が高いです」


 年配の警察官が言った。


「手すりに、息子さんの手の跡がありました。

 落とされた形跡は、見当たりません」


 事故。


 誰かが、悪かったわけじゃない。


 そう思った瞬間――


「ですが……

 一つ、引っかかる点があります」


 私は、ゆっくり警察官の顔を見上げた。


 警察官は、私の目を見て言った。


「息子さんの身長では、

 手すりを越えるのは難しいです」


 その言葉に、息を飲んだ。


「一緒にいたお姉ちゃんのお話も、

 もう少し聞かせてください」


 責める口調じゃない。

 当たり前の手続きだ。


 分かっている。


 それなのに、

 心臓が、やけにうるさく鳴った。


 私は、ゆかりを信じたい。


 信じたいのに。


 ゆかりは、うつむいたまま、

 何も話さなかった。


 警察官は、

 ゆかりから話を聞くのを諦めたのか、

 今度は私のところに来た。


「踏み台とかは、置いていましたか?」


 その言葉に、はっとする。


「あ……あります」


 バルコニーに、

 置いてあったはずの踏み台。


 でも、そこにはなかった。


 視線を巡らせると、

 洗濯機の脇に、きちんと片付けられている。


 ……あれ?


 胸の奥が、ざわっとする。


「危ないから、

 使ったら戻すように言ってて……」


 私は、ゆかりを見る。


 ゆかりは、

 うつむいたままだった。


 どうして、踏み台を片付けたの?


 どうして、

 あの時、平気そうな顔をしていたの?


 そんな考えが、

 頭の中で、勝手に膨らんでいく。


 違う。

 違う。


 自分に言い聞かせる。


 あの子は、悪くない。


 でも――


 その夜、

 私はほとんど眠れなかった。


 目を閉じると、

 武史の声が聞こえる気がした。


「おかあさん」


 その声に混じって、

 なぜか、

 ゆかりの背中が浮かんだ。


 私は、初めて思ってしまった。


 ――もしかしたら、あの時。


 その「もしかしたら」が、

 胸の奥に、

 黒い染みのように残って、

 消えなかった。




 次の日も、警察は来た。

 昨日よりも、少しだけ事務的だった。


「踏み台があれば、

 自分で登れる高さですね。

 事故で、間違いないと思うんですけどね……」


 事故。

 そう言われている。


 でも――

 踏み台は、片付けられていた。


 私は、

 踏み台が置いてあったことを、言えずにいた。


 それを言ったら、

 ゆかりが連れていかれてしまう。

 そんな気がした。


 ゆかりが、

 そんなことをするはずがない。


 私は、何度も同じことを考えてしまう。


 もし、踏み台がそのままなら。

 もし、誰かが見ていれば。

 もし、私が早く帰っていれば。


 その中に、

 どうしても消せない「もし」が混じっていた。


 ゆかりは、

 何も話さなかった。


 聞いても、

「分からない」

 それだけ。


 私は、

 疲れていた。


 眠れなくて、

 泣けなくて、

 何も終わらなくて。


 武史の声が、

 家の中のどこかに残っている気がして。


 なのに、

 ゆかりは、

 いつもと変わらない顔をしていた。


 そのことが、

 どうしようもなく、

 苦しかった。


 主人は、

 さらに家に寄りつかなくなった。


 ――逃げているのは、

 私だけじゃなかった。


「……ねえ」


 声をかけたのは、

 私だった。


 夕方。

 台所で、

 洗い物をしているとき。


「踏み台……

 片付けたの?」


 ゆかりは、

 一瞬だけ、肩を揺らした。


「分からない……」


 警察への答えと、同じだった。


 家族なのに。

 どうして、

 本当のことを言ってくれないの。


「……出るときには、

 あったはずよ」


 私は、蛇口を止めた。


「どうして?」


 声が、

 少しだけ強くなる。


「武史と、一緒にいたんでしょ」


 ゆかりは、

 黙ったままだった。


 その沈黙が、

 私を追い詰めた。


「ねえ、

 一緒にいたんでしょ?」


 言ってはいけない言葉が、

 喉の奥までせり上がる。


「武史、

 死んだんだよ?」


 その瞬間、

 ゆかりが顔を上げた。


 その目が、

 何も映していないように見えた。


 私は、

 耐えられなかった。


「……あんた、

 どうしたのよ」


 言ってしまった。


 言ってはいけないことを。


「弟が死んだのに、

 どうして、

 そんな顔していられるの?」


 声が、

 震えていた。


 怒っているのか、

 泣いているのか、

 自分でも分からなかった。


 何もかも、

 言ってしまいそうだった。


「忘れよう」


 ゆかりは、

 そう言った。


「前みたいに、

 一緒に暮らそう」


 それは、

 優しさのつもりだったのかもしれない。


 でも――


 私は、

 ゆかりが、分からなくなった。


「……なんで……?」


 小さな声で、言った。


「武史は戻らないんだから。

 忘れて、

 前みたいに暮らそう?」


 その言葉で、

 私の中の何かが、切れた。


 右手が、

 じん、と痺れていた。


 ゆかりは、

 左の頬を押さえて、

 床に倒れていた。


 叫んでいた。


 でも、

 もう止まらなかった。


 何を言ったのか、

 覚えていない。


 きっと、

 取り返しのつかないことを言った。


 でも、

 言葉が止まらなかった。


 そのとき、

 ゆかりは、

 何も言わずに立ち上がった。


 そして――

 家を出た。


 玄関のドアが、

 強く閉まる音がした。


 その音だけが、

 家に残った。





 私は、

 しばらく動けなかった。


 床に座り込んで、

 息が、できなかった。


 ――追いかけなきゃ。


 頭では、分かっていた。


 でも、

 身体が動かなかった。


 その夜、

 ゆかりは、

 帰ってこなかった。


 ゆかりが家を出てから、

 時間の感覚がなくなった。


 時計を見ても、

 針が動いている気がしなかった。


 玄関に立ったまま、

 しばらく動けずにいた。


 ――追いかけなきゃ。


 頭の中では、

 そればかりが繰り返される。


 でも、

 足が動かなかった。


 外は、もう暗かった。


 夜風が、

 肌に冷たかった。


 ゆかりの上着を、

 ちゃんと着ていたかどうか。

 それすら、思い出せない。


 電話を取って、

 何度も名前を呼んだ。


 出ない。


 メッセージを送る。

 既読にならない。


 主人に電話をした。


「……ゆかりが、

 出ていった」


 それだけ言った。


 返ってきたのは、

 短いため息だった。


「……俺が探すから、

 今日は家にいろ」


 そう言われた。


 責める声でも、

 心配する声でもなかった。


 ただ、

 面倒なことを引き受けるような声だった。


 電話を切ったあと、

 胸の奥が、

 じわじわと冷えていった。


 それでも、

 家にはいられなかった。


 団地の周りを、

 何度も歩いた。


 駅まで行って、

 コンビニを覗いて、

 公園を一つひとつ見て回った。


「ゆかり」


 声に出して呼ぶと、

 自分の声が、

 やけに弱く聞こえた。


 知っている顔に会うたび、

 頭を下げた。


「うちの子、

 見かけませんでしたか」


 同じ言葉を、

 何度も繰り返した。


 返ってくるのは、

 首を横に振る仕草ばかり。


 夜が、

 どんどん深くなっていく。


 足が、

 重くなる。


 頭が、

 ぼんやりしてくる。


 それでも、

 探すのをやめられなかった。


 ――私のせいだ。


 その言葉だけが、

 ずっと胸にあった。


 冷えた頭で、

 ふと考えてしまう。


 踏み台を片付けたのは、

 武史が落ちる前だったんじゃないか。


 ゆかりは、

 何も悪いことなんてしていない。


 ただ、

 ショックで、

 言葉が出なかっただけかもしれない。


 私の落ち込みを見て、

 励ますつもりで言った言葉だったんじゃないか。


 そんな可能性を、

 私は一つも考えなかった。


 ただ、

 追い詰めた。


 酷いことを言った。


 私は、

 もう悪い方向にしか、

 考えがまとまらなくなっていた。


 深夜、

 団地に戻ると、

 部屋の電気がついていた。


 主人は、

 酒を飲んでいた。


「見つからなかった」


 それだけ言った。


 私は、

 何も言えなかった。


 責める気力も、

 すがる気力も、

 残っていなかった。


 その夜、

 ほとんど眠れなかった。


 目を閉じると、

 武史の顔が浮かぶ。


 そこに、

 ゆかりの背中が、

 重なった。


 警察に行方不明届を出して、

 それから、また探した。


 朝が、来た。


 もしかしたら、

 帰っているかもしれないと思って、

 一度、家に戻った。


 でも、

 いなかった。


 眠っていない身体で、

 とりあえず、

 家事をしなきゃと思った。


 洗濯物を持って、

 バルコニーに出る。


 春の朝の空気は、

 冷たくて、

 やけに澄んでいた。


 洗濯物を干しながら、

 ふと、下を見る。


 ――あのとき。


 武史は、

 どんな気持ちだったんだろう。


 怖かったのか。

 助けを呼んだのか。


 そんなことを、

 考えてしまった。


 地面を見つめる。


 その瞬間、

 武史が、

 いつも履いていた靴が、

 そこにあるような気がした。


「……たけし」


 名前を呼んで、

 もう一歩、

 身を乗り出した。


 もっと、

 ちゃんと見なきゃと思った。


 次の瞬間、

 足元が、

 ふっと軽くなった。


 風の音が、

 急に大きくなる。


 身体が、

 浮いた。


□◆□◆□◆□◆□◆□◆□◆□◆□◆


 女性は、バルコニーから転落した。


 発見されたとき、すでに意識はなく、

 搬送先の病院で死亡が確認された。


 警察は、現場検証を行った。


 バルコニーの手すり。

 床。

 落下地点。


 洗濯物は、干しかけのまま残されていた。


 争った形跡はない。

 第三者が関与した痕跡も見つからなかった。


 遺書はなかった。


 事故の可能性も否定できないが、

 前日に娘が家出している。


 同居していた夫は、

「精神的にかなり追い詰められていた」

と説明した。


 警察は、その証言を記録した。


 最終的な判断は、

「自殺の可能性が高い」という表現に留められた。


 それ以上、深く追及されることはなかった。


 その日の夜、

 娘のゆかりは家に戻った。


 玄関で迎えたのは、

 一人で酒を飲んでいる父親だった。


「……お母さんは?」


 ゆかりが尋ねる。


 父親は、少し間を置いてから答えた。


「……バルコニーから、落ちた」


 それだけだった。


「警察は、自殺だってさ」


 説明は、それ以上なかった。


 ゆかりは、しばらくその場に立ち尽くしていた。


 泣くことも、

 声を荒げることもなかった。


 家の中は、片付けられていた。


 洗濯物は取り込まれ、

 床も拭かれている。


 だが、

 もう戻ってくる人はいなかった。


 数日後、

 児童相談所の職員が訪ねてきた。


 生活状況や学校のこと、

 今後の見通しについて質問がされた。


 父親は、

「自分が面倒を見る」

と答えた。


 仕事は忙しいが、

 何とかなる、と。


 そのため、

 すぐに保護されることはなかった。


 だが、時間が経つにつれて、

 ゆかりの生活は荒れていった。


 夜に帰らない日が増え、

 服装が派手になり、

 大人の匂いもする、

 長袖を手放せなくなり、

 そして周囲からの通報も重なった。


 父親は、

 それを止めなかった。


 酒を飲み、

 テレビを見て、

 眠るだけだった。


 そして、

 何度目かの通報のあと。


 「一時保護」という判断が下された。


 職員の説明に、

 ゆかりは何も言わなかった。


 ただ、

 小さく頷いた。


 それが、

 この家を出るときの、

 最後の反応だった。


 風に混じる春の匂いが、少しだけ強くなっていた。



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