39.冒険者と乗り越える過去
山河カンショウの国、赤倉の町付近。三人の若き冒険者が残雪残る森の中を走り続ける。
「方向こっちで合ってるよな?」
先頭を走りながら時折後ろの二人に確認しているのはロロだ。彼はひたすら前を走り一刻も早く魔物がいる場所へと向かおうとしている。
「ちょっと待って、そろそろだから一旦周囲の確認をしないと」
三人の中で比較的冷静で一度止まるように促したのは瑞葉。ここまで勢いで走って来たが彼女はいつ魔物に出くわすかと不安でのどが詰まりそうな気分である。
周囲にそれらしい気配が無いのを確認すると三人は少し開けた場所で立ち止まる。ここは森の中、当然ながら視力で魔物がどこにいるのかを探し当てるには遮蔽が多いのだが。
「ハク、お願い」
「ん、ま、任せて」
最後の一人たるハクハクハクには関係ない事だ。彼女は心を落ち着け魔力を練り上げると一気に拡散させる。周辺一帯へ広がった魔力は地形や動植物の形を彼女へと伝えていた。
「いた。あっち、に、十ぐらい。まだ少し、離れてる、よ」
「進行方向はわかる?」
「こっち、来てるよ」
「ならここで待ち構えた方が良いかもね」
瑞葉の提案で三人はその場で作戦会議を始める。魔物がこちらへ向かってくるのなら準備をして迎え撃つのが得策だ。そして作戦が決まるとそれぞれが所定の位置へ移動し始める。
魔物の行軍は実にゆったりと、まるで敵などいないかのように堂々と歩みを進める。牙獣を数頭従え先頭を進むのは巨大な爪と牙を持つトカゲのような魔物。あれはソウガジュウだ。時に地面を這って、或いは木々を登り枝を伝いながら確実に町へと近付いている。
ソウガジュウは中々人前に姿を現すことのない貴重な魔物である。彼らは常に人の視線を避けるように動き、森を構成する枝葉の影からその爪で攻撃を仕掛ける。実績を上げて調子に乗った冒険者が一人森に入り何に襲われたのかもわからないまま冒険者生命を絶たれる、そう珍しくもない話だ。
ロロの姿を見つけたソウガジュウは此度もその一環と思ったことだろう。
魔物からしても人は恐ろしい生き物だ。時に仲間を殺され、自身が攻撃を仕掛けても手痛い反撃を喰らうこともある。だからこそ慎重に、そして確実に一撃で仕留める。ソウガジュウが今の姿になったのは、森の中でそれを実現できる形を目指した結果なのだろう。
「来たな牙獣!」
獲物が囮に気が付いた。声を上げたそれの視線や表情からその事実を読み取ったソウガジュウは影から影を伝いその頭上へと移動する。ほぼ全ての生物にとって頭上は死角だ、まして獲物は牙獣に気を取られている。
カサッ。
枝葉の揺れる音。ロロがそれに気が付き頭上を見た時には既に目の前にソウガジュウの姿が迫っていた。そして防御や回避を行う間も無く。
横から飛んできた風弾にソウガジュウが飛ばされる。
「ギャッ」
風弾の威力は大したものではなくその一撃を受け地面に落ちたソウガジュウは即座に体勢を整える。が、その一瞬の間でロロは距離を詰めていた。
「だっ」
そして剣を振り下ろす。その一閃は魔物の頭蓋骨をものともせず頭を半分に断ち切る。崩れ落ちるソウガジュウの向こうには牙獣が見えていたが、自分たちを従えていた長の死に固まっていた。ロロがゆっくりと剣を構え直すと、直後に彼の横を風の槍が通り過ぎた。
「おぉ、すげえ風」
巻き起こる風に思わず目を閉じそうになりながらも、彼は前方の警戒を怠らない。尤も、牙獣たちはその風の槍一発で散り散りに逃げてしまったが。
「追うか!?」
「待機ー!」
追う必要は無いとの指示を受けて彼はその場に座り込む。それで目の前にあるソウガジュウの死体を見てこれは食える肉だったかなどと考えて次の指示を待ったのだが。
ゴキュ。
奇妙な音にすぐさま臨戦態勢を取った。
ロロより後方、離れた位置で隠れていた瑞葉とハクハクハクにその音は聞こえなかった。しかしロロの様子を見てすぐさま警戒を強める。瑞葉は魔力による索敵を指示し自身は魔法による迎撃の準備を始める。
ハクハクハクの索敵は僅かだが時間が必要だ。集中し魔力を練り上げその後に広範囲へと拡散させる手順を踏まねばならない。故に、それより早く敵が襲ってきた場合は不意打ちを喰らうこともある。
ほら、虎のような生き物の頭部が見えるだろう?
「上!」
幸いにも今回はその不意打ちの対象はロロであり、目視を続けていた瑞葉が先に気付いた。彼女は即座にその首の周囲へ風の刃を作り迎撃を図る。
ロロは見た、虎が風の刃を物ともせず自身に向かって突き進んでくる様を。反射的に彼はその場から横へ跳んでいた。
ズドォッ!
「うわっ!」
虎の首は地面にめり込むほどの威力で突撃し周囲には雪交じりの土砂が散らばる。ロロは全身にそれを受けながらも地面からゆっくりと浮き上がる虎の首から目を離さない。
彼は冷や汗が出るのを感じていた。目の前にいるその魔物は、先ほど彼らが倒した魔物とは違う。以前ツルバネという強大な魔物と戦ったことがあるが、まるでその時に感じたような威圧感を目の前のそれから感じていた。
そしてその時と違うのはここには彼ら三人しかいない、頼れる先輩冒険者はいないことだ。
「ま、このぐらい乗り越えないとな」
目の前に瀕した危機に対しロロの表情に恐怖は無い。ただ落ち着いて前を見据え剣を構える。その心意気は素晴らしい、ただし敵は宙を浮かぶ生首だ。
「……どう戦えばいいんだ?」
全く経験の無い相手を前に動揺は隠せない。冒険者になってから半年以上が過ぎ様々な獣や魔物、更には先輩の冒険者たちとも戦って来たが、流石にここまで異様な相手との戦闘経験などあるはずも無い。しかし彼に退く選択肢は今は無い。戦術的な話をすれば後ろの二人が身を潜めていられるのは彼が前で注意を引いているからだし、もっと大きな話をすれば彼らの後ろにあるのは守るべき町だからだ。
睨み合う一人と一つの頭、その後方では瑞葉たちが控えている。姿を晒さぬよう注意しながら戦局を見守る。
「あの威力、ロロでも食らったら危ないんじゃ……」
瑞葉がそう呟くのは状況を敢えて口述することで恐怖を紛らわせようとしているのだろう。襟元を摘みながら次に取るべき行動を考え続ける。
「ハク、周囲の索敵は……」
まずは他に魔物がいないかを確認、そう思い先に頼んだ索敵の結果を聞こうとしたのだが、そこで初めて気が付く。
「どうかしたの?」
ハクハクハクの異様なまでの狼狽ぶりに。彼女は正に顔面蒼白、全身は震え歯の根が合わぬほどで、彼女本人すら何ともつかぬ涙が瞳から流れている。
その状態を見た彼女は即座に決断を下した。
虎の頭は目の前にいる若き冒険者を相手に無理に攻撃を仕掛けようとはしなかった。剣の届かぬ位置を維持しながらゆらゆらと揺れている。それは獲物を前に狩りの機を図っているようにも思えるし、ただ舌なめずりをして遊んでいるようでもあった。
「……来ないのか?」
ロロはそう口にしながらも決して気を緩めはしない。先の一撃は相当な威力を持っていた。一発食らったとて死にはしないだろうが、何度も受けられる威力ではないし足をやられれば避けることも出来ないだろう。向こうが遊んでいるのだとしてもロロにそこまでの余裕は無い。
「来ないならこっちから行くぜ?」
聞いたところで答えるはずも無い。目の前の虎はただ空中で揺れている。こっちから、そう言ったはいいがロロは未だ迷いの中だ。このままでは剣が届かないのだから攻撃するには跳躍するしかない、しかし相手が空中を自在に動けるのなら格好の的だろう。だからと言ってこのまま黙っていても埒が明かないのも確かだ。
「……よし」
覚悟を決めて一度目の跳躍を試み、ようとした瞬間。彼は後ろから迫る風の音を聞いた。
ドオォン! ドオォン!
「風爆!?」
見かけは通常の風弾と同質、しかしそれは着弾時に大きく弾けて大きな音と共に土砂を巻き上げる。
虎の頭は土砂を避けるように木々の隙間を縫って下がった。そしてロロもまた巻き上がった土砂に身を隠しながら撤退を図る。彼は魔物と戦う直前に行った作戦会議を思い返していた。
「幾つか決めることはあるけど、撤退の合図をまず先に決めておこう」
「撤退って、そんな弱気でいいのか?」
「大事だよ。私たちの方に魔物が来てるかもしれないし、もしかしたらいつの間にか抜けられて町が襲われてるかもしれない。だからこれがあったら必ず撤退って合図を決めておくの」
「……成程。まあ瑞葉が言うなら間違いないか。で、どんな合図にするんだ?」
「風爆、わかる?」
「風弾みたいなやつだよな。当たるとドカンってなるやつ」
「私があれを一度に二発以上撃ったら撤退ね」
「わかった」
ロロは後ろを警戒して少し遠回りをしながら瑞葉たちとの合流を図った。あの首がどれだけの機動力を持っているかはわからず、上下左右隈なく確認しながら走る。幸いにも後を付けられている様子は無く彼は瑞葉たちの元へ。
「無事か?」
ロロが二人を見つけた時、そこでは震えて呼吸を荒くするハクハクハクを瑞葉が背中をさすりながら支えていた。
「私は無事だけどハクが……」
「……何があったんだ?」
ざっと見たところどこか怪我をしている様子は無く、周囲に魔物が現れた様子も無い。ロロが困惑するのも当然である。更に言えば困惑しているのはずっとそばにいた瑞葉もだ。
「私にも何が何だか」
先ほどからハクハクハクは一言も発していない。ただ震えて嗚咽を上げるだけで意味のある言葉を口にできるような精神状態では無いのだ。
しかしだからと言って何もわからないことは無い。
「察するに、さっきの魔物と何かあったんだと思う」
瑞葉はずっとそばにいたのだ。あの頭だけの虎が現れるまでは彼女が普段通りにしていたのをはっきりと確認している。だとすれば問題は間違いなくあの魔物にあるのだろう。
「どうする?」
「こんな状態じゃハクは戦えない」
その言葉は単にハクハクハクがこれ以上戦えないというだけの意味ではない。三人の中で攻撃の要は誰かと聞かれればロロと瑞葉は間違いなくハクハクハクと答えただろう。彼女の魔法の攻撃力は群を抜いており、通じない敵などいないと思ってしまう程だ。
そう、いざとなれば彼女が全てを吹き飛ばしてくれるという打算が瑞葉にはあった。だからゴウゴウを置いてここまで来れたのだ。
しかし今それは期待できない。得体の知れない敵と戦う際の保険が無い。だから体勢を整える為に一旦町に引き返したい。それこそが瑞葉が今考えていることだ。
ロロはそんな瑞葉の言葉を無視するかのようにハクハクハクの様子をじっと見つめている。誰が見ても思うだろう、彼女は戦える状態ではなくもはや負傷して動けなくなったものと変わりはしない、と。ロロも同じようなことを思っている。
ただ、だからこそ、彼はこのまま引き返してはいけないと考えている。
「ハクハクハク」
彼女は視線を合わせようとすらしない。或いは呼び掛けたのも聞こえていないのかもしれない。彼はゆっくりと彼女の目の前に座り込んだ。
そしてその手で彼女の顔を挟み込み持ち上げ無理矢理に視線を合わせる。
「何か辛いことがあるならこのまま町に戻ってもいい」
瑞葉はその様子を見ながら思う。
「でもそれを乗り越えたいなら俺達は幾らでも力を貸すぜ!」
やっぱりロロには敵わないな、と。
ハクハクハクは涙に潤んだ視界の中で自分の顔を持ち上げるその人の顔を見る。自身の嗚咽を貫いて耳に入って来た言葉を聞く。その力強くも温かい手の感触、優しく微笑む瞳、言葉の端々から感じられる根拠のない自信も、今の彼女には心地いい。
彼女はあの魔物を知っている。浮遊する頭部のみが目に映るあの魔物。戦うには三等星以上の冒険者を同行させるべしとされているあの魔物は。
「クビナシトラ」
その声は小さく漏れ出ただけだったが、瑞葉の顔色を変えるには十分だった。
「クビナシトラって……、確かかなり危険な魔物だったよね」
「そうなのか?」
「こんなところで出会うと思ってなかったし詳しくは知らないけど……。何だったかな、確か三等星以上がいないなら逃げた方が良い。……だった気がする」
「まじ?」
三等星、それは冒険者の中でも一流と呼ぶに相応しい実力の持ち主。彼らがいなければ戦うべきでないということはそれだけの力をあの魔物は持っているということだ。
「ハクはあの魔物詳しいの?」
その問い掛けに対し彼女は動きを思わず止めた。詳しいのか、と問われてどう答えるべきかわからなかったのかもしれない。
彼女は一般的な基準では間違いなくクビナシトラについて詳しい。少なくとも 四、五等星の中では随一と言っていい。
こうして再びあれと会うことを何度考えたか覚えていない。以前のような失態は犯さない。そうでなければ、どんな顔をしてこの先を生きて行けばいいのか。
ハクハクハクは思考の坩堝の中にいるが、その中で一つの記憶された光景がずっと映し出されている。なぎ倒された木々の中で一人の新人冒険者が倒れている。全身が傷だらけで腕などはあらぬ方向へ曲がっている。辛うじて息はあるようだがその呼吸はおかしく、今にも消え入りそうなほど弱い。
彼をそのような姿にしたのはハクハクハクだ。
彼女が恐れているのはクビナシトラそのものではない。それと対峙し起きた結果。消えない心の傷。
「ま、前に……、一度、会ったことが」
そう、彼女はクビナシトラに出会ったことがある。そして彼女はその時、共に戦う冒険者の一人に再起不能の傷を負わせたのである。
「あ」
瑞葉はハクハクハクの言葉でいつ出会ったのかぴんと来たようだ。ハクハクハクの過去について二人は以前に竜神から話を聞いている。この三人がいつも一緒に依頼へ出ていることを考えればクビナシトラと出会ったのは二人と出会う以前、つまりその時の事だと思い出すのは難しくない。
過去の心の傷、それを簡単に払拭することは出来ない。ハクハクハクの性格からしても仲間を傷付けたという事実は相当に重たい後悔となっているのは想像に難くない。
「なんかわかったのか?」
「……たぶん私たちに会う前の。竜神さんに聞いたでしょ?」
「あー? ……あぁ、そうだな、なんとなく覚えてる」
瑞葉には彼女の気持ちがある程度ではあるが想像できる気がした。前に進みたい、進まねばならないと思ってもその足を、いや全身を取り込むように地の底から後悔や恐怖が襲ってくるのだ。
そもそもが二人に出会う前のハクハクハクは冒険者業すら出来ないほどにその心に傷を負っていたのだ。今までどうにかそれを出来ていたことが既に奇跡のようなことだったのかもしれない。しかし一度過去に追い付かれてしまえば、再びそれを振り切ることなど。
暗い泥沼のような思考。
「ってことは俺達の勝ちだな!」
そんな思考を切り裂くようにロロの明るい声が森の中に響く。
「は?」
思わず阿保みたいに大口を開ける瑞葉を無視して彼は未だ震えの止まらないハクハクハクの手を取る。
「そんな心配すること無いって、一回勝った相手なんだろ? 今回は前より上手くやればいいだけだじゃん」
「そっ! ……ん」
そんな簡単な事じゃないでしょ! 思わず叫びそうになった言葉を瑞葉は呑み込んだ。確かにロロの言葉は間違いではない。竜神の話によれば、彼女はクビナシトラに不意を打たれ思わず放った魔法で仲間ごとクビナシトラを吹き飛ばしたのだ。
彼女の一撃は間違いなくクビナシトラに通じる。
ただ、それだけの威力の一撃を放つには自らの心の傷を乗り越えねばならない。それは決して簡単な事じゃない。
無理だ、と瑞葉は思う。いや、思った。
だからハクハクハクの瞳を、その輝きを見てここにロロがいてくれて良かった、そう思うのだ。
ハクハクハクは自身の手を取った掌の温かみを知っている。それは彼女が再び冒険者の道へと連れて行ってくれた時と同じだ。きっとあの時と同じで微塵の疑いも持っていないのだろう。
必ず立つと信じてくれている。
痛みを、苦しみを、後悔を、それら全てを忘れ去ることなど決してできない。しかしそれらをここで立ち止まる理由にするよりも、前へ進む原動力へと換えられたなら。
ハクハクハクはロロの手を強く握り返す。
「……一緒に、戦ってくれる?」
強い決意を持ったその言葉にロロは笑顔で応えた。
クビナシトラはその頭部を空に浮かばせて木々の隙間を擦り抜けながら敵の姿を探している。先ほどは不意を打った攻撃に一旦退いたもののその威力は大したものでは無かったことを既に確認しており、然程恐れる必要は無いと気付いていた。しかし生来の臆病なまでの慎重さ故にその身を隠しながら奇襲によって仕留めるべくゆっくりと進んでいるのだ。
敵の位置は大体わかっている。攻撃が来た方角は人間が集まる町の方だ。奴らがそこから来ているのならその方角へ進み続ければ必ずいる。先に町に辿り着いたならその時はその時だ。少なくとも洞穴にいるよりは町の方がましだろう。
昨夜の雪の所為かぬかるんだ地面に出る。大量の落ち葉が地面を覆う中に残る複数の足跡。これを追えばもはや逃れることなど出来ないということだ。
目を凝らし、耳を澄ませよ。敵の姿は何処か。そして落ち葉の踏まれる音が聞こえた。
「そこだ!」
風の弾が地面に着弾すると周囲に泥を撒き散らし爆発する。
そう、先に敵に気付いたのはロロたちの方だ。
クビナシトラは頭部だけが浮いているその見た目からその名が付けられた。しかし実の所は頭部しか存在しないわけでは無い。
「く、クビナシトラ、はね、透明に、なれる、の」
再びかの魔物と出会うその前にハクハクハクは己の知識を二人に伝えていた。
「普段、は、頭だけ、見えてるんだけど、ちゃ、ちゃんと身体もある、の」
「……つまりあの浮いている頭の下には首があって胴体があって手足もあるってこと?」
「よ、四足、だから」
「あぁ、手は無いか。どんな姿なの?」
「ちょ、ちょっと待ってね」
ハクハクハクは落ちていた小枝を拾うと地面に姿絵を描き始める。見る限り頭部と胴体は虎のような姿だが注目すべきはその首だろう。胴体の何倍も長く、くねくねと曲がって描かれている。
「長い首だな」
「そう、なの」
「自由に動く長い首だから自然に浮いているように見えるってことなんでしょうね。でもこれは重要な情報だよ、少しは戦いようがあるかも」
宙に浮いているから攻撃が届かなかった。しかし地面に胴体があるのならそちらに攻撃を仕掛けることが出来れば勝ちの目が出て来る。
ただそこに関しても一つ問題があった。
「ちょっと待ってくれ。ってことはさ、透明だっただけでさっきも近くにいたってことか?」
「そうなんじゃない?」
「俺、全然分からなかったぞ」
実際、ロロが頭部へどう攻撃しようかと迷っていた時、クビナシトラはその前脚でロロの身体を引き裂こうとかなり接近していたのだ。しかし三人の誰もその事実に気付けなかった。
「……あ、ハクの索敵は?」
「え、と。ご、ごめん、なさい」
「わからないってこと?」
「見えてる、ところは、その、大丈夫だけど、見えてないところ、わからない、の」
「……クビナシトラの透明化の魔法がそれだけすごいってことかもね」
それこそがクビナシトラの最も厄介な特性である。単に透明になっているだけならばそこに肉体が存在する以上、魔力を周囲に広げた時に何かがあることがわかるはずなのだ。しかしかの魔物はどういう訳か自身に纏わりつく魔力を透過してその存在に気付かせないことが出来る。透明になっている部分はまるで消えているかのようにすら思えるだろう。
「どこにいるかわかるようにしないと攻撃しようが無いか」
そう言いながらも瑞葉の中では最終手段が一つ考えられてはいる。頭部の位置だけわかったなら後はハクハクハクの魔法でその付近をまとめて吹き飛ばすという手段だ。しかし首の可動域によっては風に揺れる柳のようにその力を受け流されるかもしれない。胴体が別方向ならばこちらだけが切り札を切った状態になる可能性もあり、できれば採りたくない手段だ。
また別の手段として時間稼ぎに徹するというものもある。町の前でゴウゴウとエゴエゴが戦っているが、ゴウゴウが勝利したならばこちらへ来てくれるだろう。それを待ち改めて四人で戦うという道だ。しかしこれもゴウゴウが勝利したならば、そしてまだ戦える状態であればという前提ありき。確実な手段ではない。
そして何より。瑞葉はハクハクハクの姿を見つめる。
「……あぅ、えっと?」
「いや……、他にクビナシトラについてあるかな? どんな生態とかさ」
「あ、えっと、ね。身体は大きいけど、臆病、で、透明になる、のも、それでなったんじゃって。あと――」
クビナシトラについて己の知識を語る彼女の姿は先程までの震えて泣いていた姿は見えない。心の奥底まで覗き見ることは出来ないがそれを抑えて戦う意志を持っている。
だから瑞葉は己の恐怖を押し殺して心の内で叫ぶ。この三人であの魔物に勝ちたい、と。
彼女は己の事を臆病と自認し今もクビナシトラの事を恐れている。ロロを襲った一撃は自分には防ぎ難い威力だったし、目に見えない胴体部分で襲って来たなら避けることすら難しい。はっきり言って手に負えないと思っていた。
しかし、だからと言って過去に負った心の傷を乗り越えようとしている、あの強大な魔物に立ち向かおうとしている、そんな友の決意を見て見ぬふりは出来ない。
戦って、勝ちたい。
「なんかやる気満々って感じだな」
「悪い?」
「いや、やってやろうぜ」
親指を立ててにっ、と笑うロロ。瑞葉はふとその顔に泥が付いているのに気付いた。
「ロロ、頬に泥が」
「ん? ああ、さっき付いたんだろ。まだ残ってたんだ」
言いながらロロが頬を手でさすって泥を落とす。
「さっきって?」
「ほら、さっきの風爆だよ。あれでめっちゃ泥が跳ねてさ」
「あぁ……」
風爆で巻き上がった土砂の姿を彼女は思い出していた。それを合図に撤退するロロの姿、そしてそれを追わずに退いて行くクビナシトラの頭部。
「……あ」
舞い落ちる葉っぱ、宙に浮かぶ泥。
「これだ!」
突然の大声に二人が唖然としていたのは忘れてあげよう。
クビナシトラの周囲で風爆が爆ぜる。
瑞葉の策はクビナシトラの透明化を無意味なものにするのが目的だ。その為にはまず一度クビナシトラの位置を特定する必要がある。
「ハクの索敵で頭の位置は分かるんだよね?」
「そうだけど、その、身体は、ど、どこか、分からない、よ?」
「いくら首が長いって言ってもある程度は近くにあるはず。それに臆病で慎重なら必ず頭で罠が無いかを確認してから歩いて来るだろうね」
「えと、頭が通った、場所を通る、ってこと?」
「そう。だから私たちは一旦距離を取ってハクの索敵で進行方向を特定する」
実際、クビナシトラの頭部の位置を特定するのに時間はかからず町の方へ向けて進んでいるのもすぐに判明した。
しかし当然ながらそれだけで終わらない。
「体の位置は落ち葉を使えばある程度分かると思う」
ここは森の中、落ち葉などありふれておりそれが罠だとは気付かない。
「一帯に撒いておけば踏まれた時の違和感で位置は掴める」
「……それって普通に地面をじっと見てればいいんじゃねえの?」
「もう一つ目的があるからね」
そう言って瑞葉は地面にある土を手に取った。
「この一帯の土を一旦まぜっかえすよ」
「……ん? どういうことだ?」
「この辺りの土を柔らかくしてクビナシトラが来たところで風爆で土を巻き上げるの」
「……んー?」
ぴんと来ていないロロに瑞葉は呆れながら説明する。
「さっき逃げた時に泥が付いてるのが見えた。付着物までは透明に出来ないんだよ」
こうして三人は必死で地面を混ぜ返し、その上に落ち葉を撒いた。運が良かったのは前日の雪で水を多く含んだ土が泥状になってくれたこと、大量の落ち葉が未だ残っていたこと、そして彼らの敷いた罠の上へクビナシトラが見事に来てくれたことだ。
しかしたとえそれが運が良かっただけだとしても、今、彼らはクビナシトラの透明な体に色を付けることに成功していた。
爆ぜた風爆が地面を覆う泥を撒き散らす。クビナシトラはその行為の意味にすぐさま気付き撤退を試みたがロロが退路を塞ぐように現れる。
「食らえ!」
泥に塗れた後ろ脚を斬り付けると赤い血が噴き出した。
「よしっ!」
確かな手ごたえに思わずロロが歓喜の声を上げる。この間に瑞葉は第二撃を、ハクハクハクは魔力を練り致命の一撃を放つ準備をしていた。
そして当然、クビナシトラも反撃の構えに入っている。
透明化の魔法を使い人々の気付かぬ内に間合いへと入り襲い掛かる恐ろしい魔物、クビナシトラ。しかし人々がこの魔物と対峙したのは何も初めてではない。四等星にもなれば誰かしらからこの魔物の話を自然と聞くだろうし、下調べをしっかり行うような冒険者ならばどのように襲ってくるのか知っているだろう。
種の割れた手品など恐れる必要は無い。
それでもクビナシトラが恐れられるのは、それが決して透明化の魔法だけしか能のない魔物では無いという証だ。
ロロは反撃が来るのは予期していた。この距離で攻撃を仕掛ければ痛みに対してその原因を払うように反撃が来ると。想定外だったのはそれが予想以上の速度と威力だったということだろう。
「ぐぅっ!」
「あっ!」
激しい音と共にロロが吹き飛ばされる。
思わず漏れ出た瑞葉の悲鳴をクビナシトラは聞き逃さない。太い木の幹に立っている姿を確認すると、位置と方角から先の風爆を放ったのが彼女であることも理解する。つまり彼女を倒してしまえばこれ以上自身の身体が露出することは無いだろう。
トラの頭が彼女の頭上に移動する。
しかしそれとほぼ同時に瑞葉は地面に飛び降りる
「風よ、螺旋を描き貫け!」
そして真上に向かって風の槍を放った。その威力はクビナシトラの脅威たり得ないが正確に頭部を、もっと言えば目を狙ったそれは目くらましぐらいにはなる。
「風よこの手に集い、弾けろ!」
そして彼女は地面に手を置くと零距離での風爆を放つ。それは地面の泥を大量に跳ね上げ、クビナシトラの攻撃を躊躇させる。
瑞葉は舞い散る泥の中で次の手を考える。ここまでの戦闘は彼女の想定通り、に全くなっていない。良かったのは泥を巻き上げて位置を特定、その後のロロの奇襲までだ。そこからの反撃や自分の位置がばれるなど想定には無かった。
無かったが、どうにかまだ生きている。
「クビナシトラは臆病だから透明な体に泥が付くのを恐れて攻撃の為に深入りはしてこない、でも宙に浮いてる泥が落ちれば次が来る」
だから彼女は周囲の気流を操って僅かでも泥を長く滞空させる。ただそれは想像よりも魔力の消費が激しく長くは持たないだろう。
彼女は次の一手を考えなければならない。
「どうにかしてハクの魔法を撃つ隙を作ってその時を伝えないと」
後ろ脚を斬られたクビナシトラは即座に反撃しその体勢を維持している。警戒を強めている今、ハクハクハクの魔法を放っても躱されるかもしれない。
透明化さえどうにかすれば、それは間違いでクビナシトラは透明化が無くともその強靭な肉体のみで駆け出し冒険者など軽く蹴散らせる、それが故の危険性。
しかし彼らは既に駆け出しから一歩先へ進んでいたようだ。
クビナシトラに向けて一つの影が飛び出す。
「ロロ!」
後脚の一撃で遠くも弾き飛ばされていたロロが再び前に出る。彼は攻撃を受けると共に後ろへ跳んで衝撃を幾らか和らげていたのだ。瑞葉はロロの進行方向の泥を巻き上げるとその姿を覆い隠す。
「視界が頭なら見えないでしょ?」
泥が宙を舞う下で剣が前脚を切り裂く。再び血が吹き出るが実の所それはクビナシトラにとって小動物に引っ掻かれた程度の攻撃に過ぎない。透明で分かりにくいが体表は柔らかな肉で覆われており、多少切られたところで大した痛手にはならない。
傷を負った前脚が間隙なく振るわれるがロロは紙一重の所で躱し距離を取る。
二人と一匹が向かい合う。
根が慎重を超えて臆病に近いクビナシトラは長く戦うことを好まない。基本的には奇襲を行い一撃で敵を仕留めるのが彼らの流儀だ。それにもかかわらず二人との交戦を継続したのは負けることは無い、そう言った奢りがあっただろう。彼らは鬱陶しい攻撃を仕掛けては来るが決して致命傷には届かない、そんな確信があったのだ。無理をせずともいずれは二人共力尽きるし、多少の傷を覚悟で行けばすぐに踏み潰せる相手だとある種の油断をしていた。
或いは二人がそれを誘う戦い方をしていたのか。
戦いが長引くのはクビナシトラにとって有利、その誤認故に攻撃を受けやすい胴体部は反撃の為に構え、長い首と頭部による空中からの一方的な攻撃に戦法を固定する。駆け回る二人の冒険者を相手に一方的に、じわじわといたぶるように。
それが勝敗を分けた。
クビナシトラの敗因はいずれ勝てるというささやかな油断、そしてロロ達の勝因は切り札を隠し通したことだ。
ハクハクハクは一人、後方で待機して戦況を見守っている。彼女の役目はただ一つ、クビナシトラを屠る一撃を放つこと。自身の魔法が通じることは自らの過ちと共に深く心に刻まれている。今から行うのはその時と同じこと、しかしその結果は。
「前と、同じじゃ、無いよ」
そう口にしたのは決意を表する為では無い。瑞葉が以前に言っていた。これから行うことを口にすればその通りに行動できると。ならば今口にしたことがこれから行われるのだ。
「私が、クビナシトラを、倒す」
クビナシトラは今、ロロと瑞葉の相手に集中している。或いは一方的な暴力の振るえるその場に夢中になっている。勝利を確信した傲慢さ、それ故に周囲への警戒が散漫になっている。
今までの彼女ならばこの機を見逃していたかもしれない、しかし強く自らの意思で戦うことを決めた今は違う。
その手に持った木片にはこれまでに込めたことが無いほどの魔力が既に込められていた。
「嵐の剣、吹き荒れよ」
射出、という魔法がある。手に持った物体を魔力で強化しつつ風によって高速で押し出す魔法だ。貫通力が高く遠距離から敵を狙撃するには持って来いの魔法とされる。そしてこれはその発展形。
物体そのものよりも周囲に纏う風の殺傷力を高めたこの魔法は、魔力の消費こそ重たいが射出より強力な一撃となる。
ドゥォッ!
ロロと瑞葉は嵐の夜に吹き荒れる風の音を聞き、そして実際に吹き荒れた風に思わず身を伏せた。直後、クビナシトラの透明な胴体から赤い血が歪な円を描き流れる。透明だった肉体は手足の先から徐々にその姿を現し、宙空にあった頭部が地面へと降って来る。
ドシャア。
飛び散った泥が二人にかかったがもはやそんなことはどうでも良かった。二人は顔を見合わせて落ちて来たクビナシトラの頭部を見つめる。
「これって」
「ああ」
ハクハクハクの一撃は胴体を貫くと同時に吹き荒れる風がその肉体をずたずたに引き裂いた。ぽっかりと空いた穴の中は凄まじい惨状になっているのがわかるだろう。そしてそれほどの一撃を受けて生きていられる者はいない。
心の奥底から湧き上がる歓喜。
「勝った! 勝ったぞ!」
「早くハクの所に行かないと!」
二人が喜びを顕わにして飛び跳ねながらハクハクハクの所へ向かう。この勝利を三人で噛み締める為に。
しかし駆け出した二人の事を見据える瞳があった。ず、ずず、とクビナシトラの首が動く。その口を開いたのは最後の力を振り絞ってせめて敵の頭を嚙み砕く為。
「少し油断するのが早いな」
光がクビナシトラに向けて走る。それは魔法の雷、そしていつからいたのかゴウゴウが音も無く木の上から飛び降りた。
「全く危うい新人だ」
呆れを多分に含んだ表情。まだまだ教えなければならないことは山積みらしいと溜息をつく。
「……しかし手伝いの必要は無かったか」
ゴウゴウがここへ辿り着いたのはハクハクハクの魔法が放たれる少し前。見守りつつクビナシトラを仕留める機を窺っていたのだが彼が手を出すよりも早く三人の力で倒してしまった。
木々の向こうへ消えて行く背を見つめながらゴウゴウは寂しげな笑みを浮かべる。
「あんな風に丙族とそうでない者が手を取り合っている姿もある。俺はこういった姿をもっと皆に見せるべきだったのかもしれないな」
遠くから聞こえる喜びの声が未来には当然の姿になればと亡き友への祈りを乗せて呟いた。
魔物の危機は去った。赤倉の町にも平穏が戻って来るだろう。しかし若き三人の冒険者は今、彼らが手にした成果を前に喜びの声を上げる。




