23.冒険者の過ごす日々
ショウリュウの都、郊外の農場。ここでは様々な作物が育てられ、その多くは都に住む人々の腹を満たし続けている。ロロと瑞葉はそんな農場の一角で生まれ育ち、今は冒険者としての活動に精を出しているのだ。しかしながら彼らは冒険者になってからも農場の仕事を手伝うことがある。
「遺跡探索、あんな終わり方になっちゃったね」
畑の雑草をむしりながら瑞葉が呟く。今日は休息日ということにしており冒険者としての活動は一切しないことにしていた。しかしながらどうしても頭の中ではつい考えてしまうものだ。それでつい先日の遺跡探索体験会のことを二人は話し出す。
「貴重な体験だったんだけどね、あれは……。良い終わり方と言うべきか悪い終わり方と言うべきかちょっと悩む」
遺跡探索のみに視点を置けば訪れた遺跡で彼らの力もあり新たな発見があった。そのことは間違いなく良い結果と言っていいだろう。イザクラ考古学団も近々改めてあの遺跡を調査し直す予定であるらしい。九岳はささやかながら礼として何か贈らせてもらうと言っており、彼らの功績を疑う理由はない。
「ハクやサキ先輩はもう大丈夫なのかな」
しかしその際にハクハクハクとサキサキサの二人が遺物によって魔力を吸われ大きく体調を崩した。ショウリュウの都へは戻るところまでは見守っていたがその後にそれぞれ家に帰って行った二人の体調がどうなったかはわからない。
思い悩みながらちまちまと生えたばかりの雑草を抜いている瑞葉を見てロロは呆れたような表情を向ける。
「お前はそうやって心配ばっかりだな」
「心配しちゃいけないわけ?」
「遺跡探索はできた。ハクハクハクとサキ先輩はちゃんと話ができた。それでいいだろ」
元々彼らの目的は遺跡探索を行うことと、ハクハクハクとサキサキサの仲を取り持つことだ。それ故にロロの言うことは間違ってはいない。間違ってはいないが。
「それとこれとは別の話でしょ」
物事が上手く行こうが上手く行かまいが心配の種は尽きない。実のところ二人はそのことに関しては同じ思いを持っている。それ故に心配することを止められないか、それ故に心配しても意味がないと考えているかの違いだ。
「明日にでも宿に行って聞いてみようぜ。誰かしら知ってるだろ」
「それは勿論そのつもりだけどさあ。……はあ」
二人の意見は平行線を辿り続けるだろう。
ハクハクハクが目を覚ますと昨日のことが嘘のように体が軽かった。カクラギに背負われて自身が住む古物商の店に帰った彼女は、怠い体を引き摺って寝所へ向かいそのまま眠りに就いた。遺跡で魔力を吸われてからと言うもの歩くのも辛く、十歩も歩けば肩で息をするような調子だった。しかし今や普段通りに歩ける、走れる、飛び跳ねることもできる、と言った具合だ。
「あんなの、初めてだったな」
魔力を吸われるというのは彼女にとって初めての経験だった。それは当然と言えば当然で、入手の難しい鉱物や特殊な魔法でも使わない限り他人の魔力を吸うなどできはしない。一般人どころか冒険者であっても一生に一度だってそんな経験をすることは無いかもしれないのだ。それを貴重な経験が出来た、などと言ってみるのも悪くないが実際の所そんな経験はすべきでない。
ハクハクハクは胸の、心臓の隣、魔臓がある辺りに手を当てる。魔臓は心臓のように鼓動はしない。しかし彼女は掌で魔臓から漏れ出る魔力を感じている。
「普段通りに戻ってる」
遺物から引っ張り出される前、彼女の魔臓は狂ったように魔力を生み出し続けていた。魔臓から溢れる魔力は遺物に吸われ、それを補おうと更なる魔力を生み出そうとする。その様相はまさしく異常で、もしもあのまま続けていれば彼女は二度と魔法を使えなくなっていたかもしれない。
ハクハクハクは何度か深呼吸をして落ち着き、今日は何をしようかと考え始めた。今の時間は朝の七時。彼女にしては遅い時間に目が覚めたのはやはり昨日の疲れのせいだろう。動けるようになったことをロロや瑞葉、世話になったカクラギや九岳に伝えるのもいい。ただしその為には外に出て彼らのいる農場や自警団などへ行かねばならない。それには少し二の足を踏んでしまう心持ちがあった。志吹の宿で待っていればロロたちが来るだろうかと考えもしたが、来るか来ないかわからないのに一人でいつまでもいるのはどうにも彼女には辛いものがある。
「今日は大人しくしていようかな……」
病み上がりのようなものでもあるし、今日の所はこの倉庫の掃除でもしていようとハクハクハクは決意する。この店の大切な商品であるこれらを綺麗にすることがここに住まわせてもらっている自分の仕事なのだと。そう思ったところで、ふと彼女は気付く。
「……そういえば昨日、岩次さんに何も……」
彼女は普段、店の裏口から出入りしている。そしてその際にベルを鳴らすのが店主である岩次への合図になっているのだ。ところが昨日は帰ってからそんな余裕も無くそのまま眠ってしまったのでベルを鳴らしていない。
「あ、う、謝っておかないと……」
ハクハクハクはその足で倉庫を出て岩次の部屋へと向かう。既に起きているかはわからないが、とりあえず彼を探さなければならないのだから。
岩次の部屋の前、ハクハクハクはそこで立ち止まるとじっ、と耳を澄ませる。彼女は特別耳が良いわけではないが、仮に部屋の中で何かしているようならそのぐらいの音は聞き取れるはずだ。
「……多分、いない」
実際には音も立てずに眠っている可能性もあったのだが、店の開店時間が九時であることを考えると未だに眠っているとは彼女には思えなかったのだ。
「私だったら五時には起きてないと不安だもん」
万人には通じない理屈を振りかざし彼女は次の場所へ向かう。次の場所は店内だ。既に何かの準備をする為に店内にいる可能性は十分にあるだろう。幸い、開店の三十分以上前であれば商品に触らないことを条件に入ることを許可されている。彼女は店の表に客らしき影が無いかを遠目で確認しながら岩次を探して店内を歩き回る。
「……いない」
しかしそこにも岩次はいない。それを確認するとハクハクハクは次の場所へ向かう。次はというと、既に特別ここ、という場所は無かった。岩次の経営する古物商店と居住空間を兼用しているこの建物は店舗と倉庫に大部分の敷地を使っている。居住空間はひどく狭い岩次の部屋と風呂台所のようなものがあるばかり。
ハクハクハクは岩次がどこかに出かけているのだろうと当たりを付け倉庫へと戻る。その途中、ふと台所の方から物音が聞こえた。彼女は基本的に台所へ入るのを禁じられている。入っても良いのは既に作られた朝食等を取りに行く時だけだ。
「こんな時間から……?」
普段、彼女が朝ごはんを食べるのは八時頃だ。岩次からそのぐらいの時間には朝食を準備しておくと言われており、いつもその時間に台所へ行き料理を持って倉庫へと戻る。彼女は中から聞こえる音への好奇心から様子を覗おうと入り口から顔を覗かせる。
鍋やフライパンの前でじっと佇んでいるのは岩次だ。彼は時折蓋を開けて鍋の中身をじっと見たかと思うと軽くかき混ぜてまた蓋を閉じる。あまり料理をしない彼女には詳しいことはわからなかったが、おそらくあれは煮込み料理だろう。その隣のフライパンでは肉の焼ける音がしている。やがて岩次がその中身をひっくり返す。一瞬見えたのは、ステーキと言うには少し薄切りの肉。
「おいしそ……」
彼女はしばらくの間、食い入るように食事が出来て行く様を見つめていた。肉が皿に盛られると続いて卵をそこに流し込む。卵が焼けると煮込み料理も完成のようで火を消して少し深めの皿によそいだ。次々と完成していく料理の数々、その手際の良さは岩次の一年の経験の賜物だろう。
全ての料理が完成すると岩次は額の汗を拭って、それから自分の皿を用意し始めた。ハクハクハクはそれを確認すると顔を引っ込めその場を逃げ出す。倉庫まで戻るとようやく彼女は一息ついた。
「ふぅ……、あ」
そして一言謝りに行ったはずがなぜだか逃げてしまったことに気が付いた。今からだと丁度食事を始めたばかりで邪魔するのは心苦しい。少し時間が経ってから様子を見て行くべきかと悩み始める。
「わ、私もご飯食べてからにしようかな……」
先ほど作られていた料理を思い返す。岩次は彼女を引き取って以降、毎日のように彼女の食事を作り続けている。残念ながらその腕はあまり上達していないのだが、しかしその苦労は推して知るべきだろう。今なら出来立てでまだ温かいものが食べられるというのも魅力的であり、彼女は再び台所へと向かった。
「まだ湯気が出てる」
いつも冷めた朝食を食べているので彼女にはそれが新鮮に思えた。無論彼女は冷めた料理が不満なのではなく、ただいつもより少し嬉しいというだけのことだ。そこにある大量の食事を手に持って彼女は倉庫へ向かう。美味しそうな、一般的な味覚からすれば美味しくはないが見た目だけは良い、その食事を眺めながら彼女はふと気付く。
「……何で私の分も作ってるんだろ」
岩次の胃はそれほど広くなく、食べる量などハクハクハクの十分の一に届くかどうかだ。故に彼女がいない日はこんなに大量の食事など作りはしない。ベルを鳴らしていないはずなのに今日彼女がいるということを知っているのだ。
「……あ、こけて音を出したりしちゃったかな」
改めて昨日のことを思い返すと、どうにか布団で眠ったことこそ覚えているがその道中がどうだったかなどかなり怪しい。途中一度や二度転んでいたかもしれない。その音が響いたんだろうとハクハクハクは結論付ける。
ハクハクハクが普段使いしている机の上は気が付けば空の皿で埋め尽くされていた。常人ならこれから宴会でも開かれるのかと思う量の食事を一人で平らげた彼女は皿を重ね始める。食器を返してそのまま岩次へ会いに行くのだ。立ち上がり、尻込みするように一旦座り、それを三度ほど繰り返すとようやく歩き出す。まずは台所、その近くまで来たところで正面からやってくる人影があった。
「あ」
「……起きてたか」
岩次だ。二人が顔を合わすのは実のところ久しぶりだ。同じ建物に住んではいるが互いに会いに行くことなど無く、生活空間もほぼ分けられている為に基本的に顔を合わせることが無いのだ。ハクハクハクは狼狽え立ち止まるが、次の瞬間には深々と頭を下げた。
「あ、あの、ごめんなさい。その、昨日は、ベル鳴らし、忘れて……」
「昨日自警団のやつに聞いた。遺跡探索で何かあったと」
自警団の、とはカクラギのことだ。彼はハクハクハクを送り届けた後、一応岩次にも話を通していたようだ。
「冒険者として活動するならこういうこともある。鳴らさないなら朝食が無くなるだけだ。俺に問題は無い」
岩次は突き放すようにそんなことを言って台所へ。彼も食事を終えて食器を返しに来ていたらしい。ハクハクハクもそんな岩次の後ろをついて行く。
「あ、えと、お、美味しかったです。ありがとう、ございます」
「そうか」
岩次の料理の腕が上達しないのにはハクハクハクにも原因がある。彼女はほとんどの料理を美味しいと言って憚らない為に現在の味が一般的な味覚からは大きく離れていることに気付いていないのだ。彼が食事を振舞うのは自身とハクハクハクの二人だけである為にこの先もこのことに気が付くことは無いだろう。
二人が食器を返し終えそれぞれ自身の部屋に戻ろうとした時。
「待て」
珍しく岩次がハクハクハクに声をかけた。何か怒られるのだろうかと少し身構えながらハクハクハクが振り返る。
「今日は倉庫の商品を見たいという客がいる。昼からだ。夕方までには終わるだろう。それまで外に出ていろ」
「あ、わ、わかりました」
倉庫の商品を見たいという客は頻繁にはいないのだが、そういう時ハクハクハクは必ず外に出ているように言われる。客が丙族に対しどのような感情を抱いているかわからないからだ。普段ならば台所に食事と共に書置きが残されているので直接言われるのは珍しいと彼女は思う。
ハクハクハクは倉庫に戻って布団などを仕舞ったり机の周りを片付けておこうと思い歩き出そうとしたが、ふと岩次がまだ何か言いたそうにしていることに気付く。しかし彼は逡巡するように視線をあちこちに向け口を開こうとはしない。ハクハクハクはやっぱり怒られるに違いないと緊張で唇が震える。
「え、あ、の……。わ、わた、し?」
そしてそんな言葉にならないような声が出たのを聞いて岩次が大きく溜息をついた。
「行け。昼から夕方ぐらいだからな」
「うぇ、あ、はい」
岩次は踵を返して去って行く。何だったのだろうかとハクハクハクは少し不思議に思ったが、考えてもわからないしやるべきこともあるのでさっさと歩き出すのだった。
倉庫に戻った彼女はさっさとやるべきことを済ませて出掛ける準備をする。客が来るのは昼からと言うことだったが早めに出るに越したことは無いのだ。そして準備をしながらどこへ向かうかを考えていた。
「宿は……。一目覗くぐらいなら何も言われないかな」
起きてすぐにも少し考えていたが志吹の宿で時間を潰すのは少し彼女には難しい。しかしロロや瑞葉がいるなら話は別だ。二人に会えるならば今日という日はあっという間に過ぎ去ってしまうと彼女にはわかっている。故に宿の中にいるかいないか一目見るだけでもしておきたいというのが彼女の想いだ。
「いたら二人とお話しして……。いなかったら……」
問題はいなかった場合のこと。一人で街を歩き回るなど彼女には恐ろしいことだ。ショウリュウの都でそんなことをする人間などまずいないとわかっていても、擦れ違う人から突然に罵倒を浴びせられるかもしれないという恐怖が彼女の中には根付いている。
彼女がショウリュウの都へ来たのは十の頃。それまでは都からほどほどの距離がある村で過ごしていた。その村の人々は丙族を嫌う者が多かったが、一方でその高い魔力で村に貢献し重宝されもした。ハクハクハクとその両親も陰口を叩かれたりするようなことこそあれ直接何かされるということは無く平穏に暮らしていた。彼女が四歳の頃までは、の話である。
ある日、村を魔物が襲った。ハクハクハクの両親をはじめとした丙族の者は先頭に立って魔物と戦い、そして勝利した。それだけで話が終われば何も起こらなかったのだろう。しかし勝利の代償として村の子供が一人死んだのだ。これは彼らの不手際というわけではなく、ただ魔物の数が想像以上に多く、たまたまその子供が魔物から狙いやすい所に飛び出してしまったというそれだけの話。しかし子供の親はそう思いはしなかった。
「丙族じゃないから守らなかったんでしょ」
守り切れなかったことを悔いて頭を下げたハクハクハクの両親に向けられた言葉だ。その子の親以外は本気でそう思っている人間など居らず、間に入って仲裁しようとした者もこの時はまだいた。しかし村人の中に丙族に対する疑念が芽生え始めていたのも事実だった。その疑念もこの先に何も無ければ実を結ぶことは無かったのだろう。
数日後、村の中で人死にが出る。死んだのは先の子供の親。殺したのはとある丙族だ。その丙族は夜道で包丁を持った彼女に後ろから襲われ思わず魔法を放ったと証言した。これは事実と相違ない供述だったが、目撃者など居らず信用に足る証拠もなかった。そしてこれは村人の中にあった疑念が花開くには十分な出来事だったらしい。
「お前たちは我々を殺すのか? お前たちは魔王の残党じゃないのか?」
ある村人は丙族の者に対して面と向かってそう言い放ったという。当時の村長は穏健派でそんな風に言う者たちをどうにか抑えようとしていた。それはこの村にとって丙族の存在が欠かせないという打算的な理由もあったのだが。丙族でない村人の中にも魔法が得意な者や魔物と戦える者はいたのだが、丙族の平均的な強さは彼らを明らかに上回っていたのだ。魔物が多いこの地に村が存在できているのは彼らの貢献があるからに相違ない。徐々に丙族へ陰口や面と向かって侮辱するような者は増えていたがそれでも追い出そうとまではしなかったのはそのことが頭にあったからだろう。
更に年月が経ち、村長が病気で亡くなる。そして新たに村長になった者は前村長とは考えのまるで異なる者だった。彼は常に落ち着き払い他者を慮る心根を持ち、魔物が現れれば自ら率先して前に出て戦う尊敬を集める人物だ。ただ、彼の心の内には人には思い知れぬ憎悪と嫌悪が入り乱れていた。魔王大戦の折、彼は仲間だった丙族の裏切りに合い右腕と大勢の部下を失っている。それを理由に今を生きる丙族を迫害しようとまではしなかったが、逆に一片の信用もしていなかったのも事実であった。それ故に、彼は自身でも気付かぬどこかで丙族を村から追い出したいと考えている面があったのだ。
丙族への迫害はひどくなりつつあった。新たな村長は自ら率先して丙族を迫害することは無いがその一方でそれを止めようともしなかった。幾人かの丙族は新天地を求めて旅立ち、残る者は罵声を浴びせられながらも日々を生きる。誰かが丙族に不満を言うと、近くにいた別の誰かが続いて言葉を続ける。やがてそれは不満から暴言や罵倒へと変わりゆく。日が経つにつれてそれは当たり前のこととなり、幼き子供たちは丙族とはそういう扱いをすべきなのだと学んでいく。徐々に、徐々に、村は変わって行った。
数年後、村に残った丙族はハクハクハクの一家だけとなった。罵倒を浴びせられ、石をぶつけられ、ハクハクハクは家に引きこもり日々が過ぎるのをじっと耐えて待っていた。それでもハクハクハクの両親が村に残る決意をした理由はもはや誰も知らないないのかもしれない。
「ハクハクハク、行って来るから。大人しく待っててね?」
母親の声に彼女は頷く。父親は無愛想で何も言いはしなかったが彼女の頭を髪が乱れる程に撫でた。そして戸を開き家を出る二人。彼女が見た二人の最後の姿。
その後、紆余曲折を経てゴウゴウに引き取られた彼女は都へ来た。ここでの暮らしもそれなりに長くなったが、彼女の中に根付いた他人への恐怖は未だに残っている。ゴウゴウ、ロロに瑞葉など信頼している者が傍にいる時は大丈夫だが、一人で歩き回るのは想像するだに恐ろしい。そこで彼女はもう一人、一緒にいて安心できる人物を思い出す。
「サキちゃん……」
まだ少しだけ彼女と会うのに躊躇いはあったが、意を決して彼女は歩き出す。倉庫を出て、ベルを鳴らして、古物商店の裏口から出て行った。
志吹の宿を見に行くのもやめ、彼女は一直線に目的地へ向かう。随分と久しぶりなその道を身体が強張るのを感じながら歩いて行く。向かう先は丙自治会集会所。彼女が冒険者を休業中に足繁く通いながらも結局は中へ入ることが出来なかったその場所だ。しかし今日は、今日こそは中へ入るのだ、そう彼女は決意している。
「……は、入る、ぞ。あぅ……」
決意している、はずだ。ただ近付けば近付くほど不安が押し寄せるのも事実だ。集会所には彼女が都に来てから冒険者になるまでの間、お世話になった人が大勢いる。そして期待と共に応援して送り出してくれたのを未だ昨日のことのように思い出せる。それなのに自分はその期待を裏切ったばかりか、顔を合わせることさえできず彼らの思いに何も応えられていないことも。
「で、でも……。きょ、今日こそ、は」
随分と遅くなってしまったと彼女は思う。ただ、今更だとしても期待に応えられなかったことを謝って、まだ頑張ろうとしているところだと一言伝えたいのだ。それに対してどんな言葉が返ってくるのかは別として。
「……あうぅ。み、みんな、お、怒ってる、よね……」
憂鬱と不安が彼女の足取りを重たくする。集会所が一歩、また一歩と近付くにつれて彼女はそれを感じていたが、それでも今日の彼女は歩くのを止めることは無かった。
ハクハクハクが辿り着くは丙自治会集会所。彼女は何か月か前までこの建物の前で座り込みじっとしていたことを思い出す。前を向く勇気もなく一人で蹲っていた過去の彼女はもういない、だからこそ今日ここに来た。そう彼女は意気込んで一歩を踏み出す、はずだった。
「……うぅ」
蹲りはしなかった、しかし足が前に出ない。彼女は生まれ変わったつもりだったが、全くそんなことは無かった。いざこの場所に来てみれば怯え竦み、このまま引き返してしまいたいと思うばかり。そうできたならどれだけ楽な事か。いや、それを阻むものなど実のところ何も無いのだろう。彼女自身を除いて。
彼女の目の前には扉がある。それを開いて、中に入り、挨拶をするのだ。きっと中には見知った人がいる。期待に応えられなかった不甲斐ない自分を謝りたい、そう思ってここに来た。一歩前に出ればこの手は扉に届く。彼女には果てしなく遠い一歩だ。
「あ」
不意に扉が開く。彼女は思わず後ろに下がって思わず背を向けてしまう。ハクハクハクは自身の弱さを憎らしく思う。どうしてすぐに逃げてしまうのだろうと、こんなに弱くては英雄になどとてもなれないじゃないかと。
「ハクちゃん!」
声がかけられる。彼女はその聞き馴染みのある声に思わず振り返った。そして声の主が駆け寄って来る姿は昔と変わらないように見えた。
「行こう!」
「……うん」
そして手を引かれるままに中へと消えて行く。
この日、丙自治会の集会所はいつもにない盛り上がりを見せていた。この場所に長らく姿を見せていなかった一人の少女は涙を流し、彼女のことを知る者は背中をさすって宥め、或いはよく頑張っていると褒めそやし、まだ先は長いと励ます。管理者の秘蔵のお菓子が振舞われ、料理をする者はこぞって腕を振るい食糧庫の中身を食い尽くさんばかりに皆が食べる。
この日より後、月に二度か三度ほど背の小さい内気な冒険者が集会所に姿を見せるようになった。
日が落ち空が赤く染まる頃。ロロと瑞葉は土まみれの手を払って立ち上がる。
「今日はこれぐらいで終わりだな。しかし暑いぜ。服が絞れそうだ」
ロロは汗で濡れて色の変わった服を引っ張る。額には玉のような汗が吹いている。日が落ちて少しは気温も落ちたようだがまだまだ汗が引くようなほどではない。
「帰ったらちゃんと着替えた方がいいわ。風邪ひくわよ」
対して瑞葉は然程汗をかいていないように見えた。ロロは訝しむように彼女を見る。
「おかしくないか? 滅茶苦茶暑かったのに」
自身の服を再び引っ張って今日の日の暑さを主張するロロ。しかし瑞葉はにやり、と笑う。
「そうでもないってこと」
そう言いながら瑞葉が手を差し出したのでロロは何も考えず握り返す。すると瑞葉の手が、いやより正しく言うなら瑞葉の手の周辺が明らかに周囲よりもひんやりとしている。
「えー、何だこれ?」
「この前ほら、エアコンが冷たい空気を出して過ごしやすいって話あったでしょ」
「あったあった」
ロロはイザクラ考古学団の支部の一室を思い出す。凄まじい熱気に包まれていた廊下と対照的に入った瞬間から汗が引いて行くのを感じるようなひんやりとした空気。
「エアコンを買ったってことか?」
「無茶言わないでよ。そんなお金どこにあるの?」
それもそうだとロロは心中で頷く。ではどういうことなのかと思うとすぐに瑞葉が答えを言った。
「魔法よ魔法。ほら、言ってたでしょ? 魔力を自動で涼しい風に変換するって。だったら私にも出来るんじゃないかと思ってね」
「おお、やったらできたのか?」
「そういうこと」
瑞葉はなんてことないようにそう言ったが、魔法を使う者が聞けば耳を疑うような言葉だ。魔法で冷気を生み出すこと自体は当然可能だ。志吹の宿で言えば天柳騎の一人、アグニが得意としている。以前ロロたちは彼が氷を作っているかき氷屋に行ったことからわかるように、上手く扱えるようになれば水を凍らせることも難しくはない。ある程度の才を持ち相応の修練を積むことさえできれば。
夏の暑さは辛く厳しい。エアコンの話を聞けば魔法を得意と自称する者ならば試してみたくなるのは当然だろう。幸いにも熱に関する魔法は古来より多く扱われ、魔法の指南書にも頁を多く割かれている。魔法を得意と自称しているのだから身に付けるのは難しくないはずだ。例えば三か月もあれば自身の周囲を涼やかにするぐらいは適うだろう。三か月もあれば。
「やっぱお前ってすごいなあ」
ロロが瑞葉の周囲の冷気に触れながら感心したように呟く。魔法が得意でない彼には数日でこれを為したことの凄さは理解できないだろうが、しかし目の前にいる幼馴染の才が秀でていることぐらいは理解している。
「そろそろ帰りましょうか」
「そうだな」
ロロは自身がかっこいい冒険者になれることを疑ってはいない。ただ、時々思うのだ。瑞葉のように魔法に秀でた才もなく、得意と称している身体強化もハクハクハクに比べれば大したことは無い。自分には才能というものは無いのだろう、と。
「暑くてくらくらしてるとか?」
立ち止まっているロロに瑞葉が声をかける。
「ん? ああ、そうかも」
「じゃあ冷やしてあげよう」
瑞葉はロロの手を取ると二人を覆うように冷気を生み出す。
「おお、すげえ。さっきまでの暑さが嘘みたいだ」
「そうでしょ?」
ロロが感心すると瑞葉は得意げに鼻を鳴らす。実のところ彼女は自慢する機会を窺っていただけなのかもしれない。
「じゃあちょっとしゃがんで」
「しゃがむ?」
疑問符を浮かべながらもロロがその指示に従うと、瑞葉がロロの背後に回りそのまま飛び乗る。
「……疲れたのか?」
「というかこれ結構疲れるのよね。冷やしてあげるんだから楽させてよ」
「しょうがねえなあ」
夕暮れ時に影が伸びる。夏の日差しの中を二人は涼やかに行く。




