スモーク
アウフォーゲン……アーウフォーゲーン……フォールクースアーゲンフォーゲンアーゲン……アウフォーゲンアールファーローゲン…………
今、異界の扉が開く……。
だとよ。まったく馬鹿ばっか。
友人に女がいるだ美味い飯があるだなんだ言われて来てみれば怪しげな集会。
アウフォーゲン闇の世界とワーゲン繋がるフォール穴が、ああ、もううるせえな。頭がおかしくなりそうだ。あの変な呪文を頭ん中で繰り返しちまってるよ。無駄だってのに連中はホント馬鹿ばっか。
……俺はそう思っていた。もし人生のピークを決めるとしたらあの日だろう。
なぜなら、悲劇が起こった時、あの瞬間に戻れたらと多くの者がそうするように今でもそう願っているからだ。
だが、戻れることはない。時間とは、理不尽とは一方通行なのだから。
俺が内心で連中を小馬鹿にし、唾を吐き捨てた瞬間、突如として、大きな音と振動が俺の身体を襲った。
が、それは大したことじゃない。二秒後にはもう忘却の彼方。目の前を煙で覆われ、何も見えなくなったのだ。
ここはかなり広く大きい、おまけに古い建物ではあるが、ガラクタやゴミが入った箱などが積み上げられていて、それが壁の穴や窓を塞いでいた。考えてみれば怪しげな集会を開いていたんだ。目隠し代わりだったのだろう。そしてそれは障害物、ひいてはある種の迷路を形成しており、それも外敵から身を隠し逃れるためのものであったのかもしれない。
……だが、その敵が突然、建物内から現れたら? それも霧とも煙ともつかないもので視野を遮られ、反響する悲鳴に判断力までも奪われてしまったら?
そう、穴があいたのだ。俺たちの目の前に。異界との。
「お、おい! 逃げろ! あ、あああああ!」
煙の中から現れた顔。それは俺が知らぬ奴だったが、その後も知る機会はなかった。永遠に。
穴があいたのだ。そいつの体に。そして貫いたそれは大きく鋭い、牙のようであった。異界の、闇の神話に出てくるような生物だ。
鼓膜を破りそうな咆哮に俺は耳を塞ぎ、その場で蹲ることしかできなかった。だがそれで良かった。伸びた巨大な触手が俺の頭上を掠め、逃げようとした別の者を掴み、そして煙の中へ引きこんだのだ。
俺は悲鳴と混乱が渦巻く中、這うようにして逃げた。どこへ? わからない。ただただ死の臭いがするその場から離れたかったのだ。
建物内はパニック。この叫び声は俺たちのものか、それとも穴から現れた生物のものか。煙に覆われ自分がどの辺りにいるかわからない。押され突き飛ばされ、俺はガラクタが入った箱に抱き着くようにして倒れた。
足が震えて歩けなかった。恐怖、違う。違わないが違う。
足の、全身の震えは恐怖心からくるものではなく、地面から伝う振動であった。
それが異界の生物の群れの足音だと知るのは、それが手の届く範囲に来てからだった。そう大きくはないが、恐ろしい角を生やした生物の群れが俺の体にぶち当たり、蹴り、踏んづけ、通過していったのだ。
恐らく、頭に生やしたあの角は外敵に突き刺し、そして垂れた生き血を啜るためにあるのだろう。
しかし、俺が連中に刺されることはなかった。眼中にない。そうとも言えるが少し違う。奴らは逃げていたのだ。なにから? 決まっている。さらなる脅威からだ。
煙の中から現れたのはもう一回り、いやもっと巨大で巨大な口をした生物。倒れた照明器具がそいつの恐ろしいシルエットを煙の中に映していた。
俺はガラクタの箱の上にあがり、さらにもう一段高い箱の上、それからさらに飛び移りと、高く、高くのぼった。
お陰で難を逃れることができたが、それでも安心はできなかった。連中の体が箱に当たった瞬間、大きく揺れ、このまま崩れてしまうんじゃないかと思ったのもそうだが、悲鳴がまるで食材を炒めるかのように終始、至る所から上がり続けていたのである。
ここは鍋の中。そして皿の上。奴らの食卓なのだ。悲痛な声は俺の身をも痛めつけるかのようであった。
だが俺は落下を恐れ、箱にしがみ付くために耳を塞ぐことはできなかった。
すまない、すまないすまないすまないすまない。
俺は謝り続けた。このまま俺だけ助かってしまいそうだ。詫びる必要などないのに頭の中で謝り続けた。
呪文を唱えるかのように。心が少し楽になり、縋り続けた。
悲鳴が、灯が煙の中で消えていく。その光景を見下ろしながら。
だが、そんな俺を見透かす目が煙の中から現れた。
浮遊する首だけの生物。俺は顔を伏せ、とうとう声を出し謝り続けた。
――ここにいさせてください。お願いします。助けてください。殺さないでください。
……俺の必死の祈りが届いたのか、顔を上げるとその生物は姿を消していた。だが、ここが悲劇の渦中である以上、安堵する暇もない。
「助け、助け、俺も、俺もそこに!」
そう言ってこちらに登ってこようとするやつがいた。そいつは手をこっちに向かって伸ばしたが俺は躊躇った。二人は狭いか? バランスを崩してしまわないか? ここまで来たら来たで、奴が「邪魔だ!」と、俺を蹴落とそうとしやしないか?
逡巡はほんの一瞬だった。だが、それで十分だった。俺たちのような矮小な命を狩るには。
それはこれまで見た中で最も凶暴性に満ちた顔をしていた。他生物を捕食する、それだけに生まれてきたような。
鋭い牙と爪は悲鳴さえも容易く煙の奥へ沈めた。
俺は叫びたい衝動に駆られた。そうすれば罪も煙も吹き飛ばせるような気がして。
だが無理だった。俺が上げることができたのはひっという短い悲鳴。いや、息を呑んだ音か。
箱が、平和の塔が崩れたのだ。
俺は床に体を打ち、悶えた。今ので体中の骨が折れたかもしれない。
しかし、込み上げた痛みが、それを和らげようとする脳内物質が恐怖を掻き消してくれた。
……いや、もう針を振り切っていたのかもしれない。俺は連中にある種の神聖さを感じたのだ。無論、現実逃避だろう。
これより連中からもたらされるであろう死を美化し、己を慰めたのだ。
手を合わせた俺の目の前に現れたのは雄々しい角を持った生物であった。頑強そうな体。恐らく、この生物が積まれていた箱に当たったのだろう、頭を二度三度振っていた。
そして大きな足。床を、大地を踏むたびに振動が俺の身体を駆ける。
アウフォーゲンフォールクースアーゲン……。
俺は祈りに祈った。何を期待していたのかはわからない。彼らを呼び出した者たちのその目的も何も知らないからだ。安らかな死か。世界の破滅か。異界の力をこの手にか。いずれにせよ、受け入れるしかない。力なき者はもたらされるすべてを。
その異界の神の眷属の如き生物は俺を見下ろした後、踏み殺す価値もないと思ったのか煙の奥へ消えた。
そして、俺は頭を垂れ、床にへばりつくことしかできなかった。
次々と煙の中から現れた異界の生物たち。
目が眩むような模様をしたもの。長い足を持つもの。素早いもの。どれとして俺に見向きもしなかった。
俺は涙した。助かるかもしれない。その想いと同時に自分がひどく惨めに思えたのだ。価値のない弱者。最底辺。怯えるだけの存在。彼らにとって生贄としての価値もない。
だが違った。奴らもまた逃げていたのだ。さらなる脅威から……。
煙の中から現れたそれはこれまで見た中で最も畏怖すべき存在であった。
その理由。複数いることだけではない。そいつらは独自の言語で会話をしているようだったのだ。そしてそいつらは知性を、そして残忍さを持ち合わせている。
俺にそう思わせたのは連中の笑い声であった。
再び、恐怖に震えた俺は必死に懇願した。助けてください。どうか殺さないでください、と。
『アババルトボレシバウババ?』
『ははははははっ! なんて? わかるのか?』
『知るかよ、コイツが言ったことをただ繰り返しただけさ』
『だろうな、さっさと殺そうぜ』
『いや、待て、コイツ、動けないようだぞ。持ち帰ろう。
サイの角や象牙よりも珍しいぜ。お、また色が変わった。おもしれーなー光る体かぁ』
『ああ、しかしここは異世界ってやつか?
サイを追って来てみりゃ、やっぱあのトンネルかね』
『ああ、土埃がおさまってきた。ほら、あそこから来たんだ。
よし、ライオンに警戒しながら一旦戻って、今度は仲間全員で狩るぞ。
コイツら、ちっこいし弱いし捕まえるのは簡単そうだ』
こうしてあの日、連中に囚われた俺はどうやら見世物にされているようだ。
男、女、老人、子供、見分けはつくようになってきたがどれも同じだ。連中の悍ましいあの笑い声。夜、一人になってもそれが呪文のように俺の頭の中で響き続けているんだ……。




