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第8話




四月。強く吹いた風は桜の花びらを山頂まで届けてくれる。縁側にひとひらだけぽつんとあるそれが、望叶の知る桜の全てだった。

あと半刻で太陽がてっぺんにやって来る頃だった。本殿を囲う茂みが音を立て、立派な身なりの一人の女性が姿を現した。彼女は視線の先の縁側には目もくれず、真っ直ぐ玄関へ向かう。

脱いだ草履をきちんと揃え、勝手知ったる足取りで廊下を進む。一つの部屋の前で足を止め、ふすまを滑らせた。

「望叶。調子はどう?」

就任式の日だった。現祈光である彼女は、娘の望叶を迎えに来たのである。呼ばれた女性は背を向けて机の前に正座をしていた。ゆっくりと祈光を振り返る。

「……あなた、望叶じゃないわね?」

瞬時に変わり身を見抜かれた女性は、望叶の顔で口角を釣り上げた。

「さすがです、祈光様。騙しきれないことは承知の上でしたが、こうも一瞬で見破られるとは」

「紺之助ね。どういうつもり?そんな力を与えた覚えはないけれど」

コンは立ち上がると、袴の裾を小さく払った。怒る神を目の前にしたにしては、ひどく悠長な動きだった。

「願った者がいたからです。私が変化の力を得ることを願った手紙があったので、あの子が祈りでそれを叶えました。仕事ですから」

祈光は小さく息を吐いた。それから、もういいとばかりに言う。

「あの子はどこ?」

「ひまわり畑を見に行きました」

「ひまわり?」

「ええ。ひまわりを見て、山が燃えるような紅葉の赤を見て、辺りを満たす雪の白を見て、空を埋める桜の薄紅を見るのです。素敵でしょう?」

微笑むコンを、祈光は鋭い眼光で射抜いた。コンは表情を変えることはなかった。

「つまり、もう帰ってこないということね?」

コンはゆっくりと、しかし大きく頷く。

「なんてことをしたか、あなたわかっているの?あの子は今日から祈光になる。祈光の他に、誰がこの街を見守るの?それを逃したなんて、あなた如きがどのように責任を取るつもり?」

「処分は、なんなりと」

「そういう話をしているわけではないの。あの子がどこに行ったのかと聞いているのよ」

憤る祈光を、コンは冷静な眼差しで見ていた。細めた目には憐憫の色さえ伺える。

「祈光様。おそらくあなたには理解できない感情でしょう。外の世界に触れ、人の心を知りたいと願うのは。たった一人、大切な存在を得た時の強さは」

「あなたはいつからそんなに無駄口が増えたのかしら?」

「あの子は少年と過ごす時間の中で人間になりました。空っぽではなくなったのです。もう他人の為には祈れません。大切な者の為でないと」

「そのお粗末な変化も不快だわ。元の小汚い狐に戻りなさい」

祈光が命じると、コンの変化は解け、畳の上に白い子狐が転がった。コンは立ち上がり、祈光を見上げる。

「ああ、あなたの力は強大だ。しかし、その力はこの町の中でしか効力を発揮しません。あなたはもうあの二人を見つけることはできない」

「お喋りしかできないようならその口ももう必要ないわね」

喉が焼けるように熱くなり、コンは思わず痰を吐いた。血が混じった痰を見て、事実喉を焼かれているのだと理解した。絞り出した声はガラガラで、祈光が聞き取れたかも怪しいものだった。

「どうかあの二人をお許しください。あの子はもう人間になったのです。もう追いかけてもどうにもならないのです。どうか、」

四肢に力が入らなくなり、コンは頭から倒れ込んだ。喉からはすでにうめき声しか出ない。視界が白んできた。五感を奪われる恐怖と戦いながら、コンは旅立って行った二人を思い出した。

「あの子の居場所を言えないのなら、あなたにもう用はないわ。もっと賢い子かと思っていたけれど、私の買い被りだったみたいね」

意識が遠のいてゆく。祈光の声ももう耳に届いてはいなかった。ただ、少年と二人で生きてゆくとはにかんだ望叶の幸せそうな表情だけを、脳が繰り返し再生していた。十九年間もその人生を縛ってしまった、せめてもの罪滅ぼしを買って出た。

祈光が床を踏み鳴らしながら出ていったのが、うっすらと残る感覚でわかった。彼女は外の世界に触れずに大人になってしまった。心を知らぬ空っぽの人形のまま神になってしまったのだ。

畳の上に打ち捨てられたコンの瞳から一筋の雫が溢れた。それは人としての生を手に入れた望叶への祝福か、十九年間の行いの後悔か、祈光への憐れみか。彼自身にもわからなかった。




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