第6話 まあ、頑張んな
トラオを風呂に入れた。
トラオが寝ていた布団の上の匂いを嗅いでみると、おかしな臭いがしていた。
最近毎日のように俺の部屋に寝に来るトラオが、清潔であるにこした事は無い。
風呂場に連れて行かれたトラオは、いつもと違う不吉な予感を感じ取ったみたいだった。
しかしもう遅かった。
扉を閉めて逃げ場を塞いで、俺と妹の二人がかりで洗ってやったのだった。
終始叫んでいたトラオだったが、今はシャンプーの匂いのする清潔なトラオに生まれ変わっていた。
一体何年生きてきたのか知らないが、長年の汚れは排水溝の中に大量の毛と共に流れて行った。
トラオは立派な体格のトラ猫だったが、風呂に入れてみると意外と貧相だった。
ふわふわのトラじまの毛でだいぶ稼いでいたみたいだ。まあ猫ってものはみんなそうなんだろう。
ドライヤーで毛を乾かしてやった後、トラオはひたすら自分の体を舐め続けた。
シャンプーの匂いが気に入らなかったらしい。
そんなトラオを妹は面白がって眺めている。
「折角綺麗にしたのに、全身舐めまわしたら自分の唾だらけだよ」
トラオは鋭い目つきで妹を一瞥した。
ひでえ目に会った。おぼえてろよ。
多分、トラオはへそを曲げているのだろう。
そんなトラオにちょっかいを出しながら、妹が俺の顔色を伺う。
「ねえ、お兄ちゃん、お祭り連れてってくれるよね」
「え?ああ、今日だったな」
「そう。覚えててくれたんだね」
妹の友恵は小学校四年生。
毎年お祭りに行くのに、共働きの父と母に代わり連れて行ってやっていた。
祭りと言っても小学校のグラウンドでやっている子供向けのやつだ。
恒例の盆踊りと露店がいくつか出る。
それを妹は毎年楽しみにしていた。
「六時からだったっけ」
「そうだけど、くじ引き始まる前に並んでおきたいんだ」
「じゃあ、五時半くらいに家を出るか」
「うん」
じゃあ、トラオにご飯をやるのはいつもより少し早めにしとかないとな。
「今日はお前の当番な」
「うんわかった」
トラオの世話は妹にしてもらって俺は妹の世話をする。
妹はトラオを手のかかる赤ん坊の様に思っているのかも知れないが、実際は多分俺よりちょっと先輩で、猫の年齢で言うならまあまあ高齢なのかも知れない。
いつもゆうゆうと歩いているのは、もうバタバタ走り周る元気がないからではないか。
落ち着いた雰囲気のトラオを観察しながら、一体幾つなんだよとまた考えてしまうのだった。
少し早めに家を出て小学校まで来た。
一昨年まで自分も通った小学校は何にも変わっていなくて、そこがまた良かった。
「あ、クラスの子だ。ちょっと行ってくる」
妹は俺を置いてさっさと行ってしまった。
その方が手間が無くってこちらもありがたい。
幾つか並んでいる露店に俺も後で顔を出そう。それまで懐かしい小学校の校舎を周ってみようかと思った。
おお、まず靴箱だ。当然ながら自分の上靴は無いので、来客用のスリッパを借りた。
ひょっとすると先生に会ったりして、俺はあんまり好かれてなかったからスルーされそうだな。
取り敢えず六年の時のクラスに行ってみると、猛烈に懐かしい光景が甦って来た。
おお、なんだか思いだした。勉強は大してしなかったけど、この教室で色々あったよな。
当時ちょっと可愛いなと思っていた女の子がいた。
そりゃ篠原さんみたいに本気ではないけど、その子もまあまあ気になってた。
いつも手を上げて、はきはきと先生の出した課題に答えていた姿を思い出す。
「今頃どうしてるかな」
呟いて教室を離れた。
そろそろ露店も始まる頃だ。
焼きそばとかのぼりが上がってたな。夕ご飯前だけど一通り食べとくか。
そしてまたグラウンドに出て、すでに列のでき始めた焼きそばの屋台に向かう。
あいつも食うかな。いったいどこ行ったんだ?
妹が見つからなくっても食べるつもりだが、一応探してみた。
んー、いないな……えっ!
俺はまた信じられないものを見ていた。
10メートルくらい離れた所で、普通に篠原さんが露店を周っていた。
どうして?何で?篠原さんがここに!
俺はこの時、本気でトラオの神通力だと思った。
ありがとうトラオ。ホントお前にはもらいっぱなしだよ。
いいって事よ。まあ、がんばんな。
想像上のトラオが親指を立てた。
ん?あいつの親指ってどうなってたっけ。
まあ、細かい事はどうでもいい。今ここに篠原さんがいる。さっさとスタートを切らないと、お膳立てしてくれたトラオに申し訳ない。
これって運命だよな。
もう焼きそばの事など吹っ飛んだ。
トラオ、俺は今から男になる。
青春の全てをかけてゴールインして見せる。
そして後半の夏休みを彼女と一緒に駆け抜けるんだ。
さあー行くぞ。
俺は抑えきれないときめきを溢れ出させつつ、一歩踏み出した。