第4話 ま、気にすんな
とうとうこの時が来た。
俺はこれから篠原さんに声を掛ける。
青春の全てをこの一瞬にかける。
さあ、行くぞ。
よし、行くぞ。
ホントに行くぞ。
トラオ、俺に力を貸してくれ!
「シノハラさん」
声だ出た!やった。トラオ、お前のお陰だ。
そして憧れの篠原さんが振り返る。
「呼んだ?」
俺に話しかけている。今奇跡が起こっている。
「あ、あの、ケが、ケがね」
「怪我?」
「じゃなくって、毛が、肩に付いてて、その……」
篠原さんは自分の肩に目をやる。
「あ、これね。そうなの最近良く抜けるの」
「そうなんだ。へー」
ここまでは順調だ。さあ俺を見てくれ。トラオの抜け毛でデコレーションされた俺に気付いてくれ。
「あ、近藤君、私の事言ってる場合じゃないよ。すごい事になってるよ」
よーし頂きました。では次のシーン行ってみよう。
「え、俺?」
さりげなくここで自分の服を見て気付く。
「おお、知らない間にこんな事に、昨日ベッドに猫が入り込んできてさ」
篠原さんは必ずここで食いついてくる。
トラオ。見てるか。俺はここまで来たぞ。もうすぐゴールインだ。
「へえ、猫飼ってるんだね。うちはチンチラだけど」
え?今何と言いました?
「チンチラって……猫じゃないの?」
「私、猫はちょっと……」
終わった。何もかも。
現実を受け入れられず狼狽している俺を置いて、篠原さんはまた前を向いた。
俺はゆっくりと後ろの席を振り返った。
「ブラシ貸してくれ」
夕方の帰り道。
長く伸びる影を引きずりながら帰っていた。
篠原さんは猫好きでは無かった。どちらかと言えば苦手っぽかった。
チンチラか。あのふわふわのネズミみたいなやつだな。
もしトラオと篠原さんのチンチラが出会ったらと想像してみる。
瞬殺だろうな。
計画の破綻で、予定していたドラマは何も始まらなかった。
とうとう明後日から夏休みだ。
夏休みに入るまでにと、トラオを追いかけ、餌付けし、毛の束をまぶして登校したのは一体何だったんだ。
篠原さんとの夢は消え、トラオはこれからもチクワをねだりにやって来る。
ウインなのはトラオだけだった。
「はあー」
ため息の中に今日吸い込んだ栄養が出て行った気がした。
夕方遅く雨が降り出した。
そしてトラオはきっちりやって来た。
「にゃー」
掃き出しの窓の外で鳴いている。
もうこいつの巡回ルートに、この家は入れられているみたいだ。
おまえに餌をやる気分じゃないけど、折角来たんだしちょっと待ってろ。
雨に打たれるのも気の毒なので家に入れてやった。
そしてチクワをちぎって食べさせてやる。
なんだか喉をゴロゴロ鳴らしながら食べ始めた。
「おまえには世話になったけど、俺の方は上手くいかなかったよ」
「にゃーご」
食ってる最中だ。話しかけるんじゃねえ。
そんな感じだ。
きっちり一本トラオは食べ終えた。
「もう一本いるか?」
「にゃー」
ああ、早くしろ。
てな感じ。
もう一本食べ終えたトラオは、その場で横になった。
すぐにウトウトし始める。
「悩みなんか無さそうだな。羨ましい奴だ」
ちらと一瞥した後、尻尾をちょっと振ると、本格的に寝始めた。
ま、気にすんな。
人生経験豊富な感じのトラオは、余裕の落ち着きで寝落ちした。
ちょっとトラオに愚痴を聞いてもらった昨日から一夜明け。
俺は一学期最後の終業式に出ていた。
猫好き同士でゴールイン計画は頓挫したが、俺は諦めていなかった。
野球は九回裏ツーアウトからが本当の勝負だと誰かが言っていた。
奇跡の大逆転劇が起こる。俺にはそんな予感があった。
実はちょっとまだトラオに期待していた。
神社の神主に可愛がられているトラオは、実は縁起がいい猫なのではないか。
あの神社に住み着いているやり手の神様のお陰で、席替えは最高の結果となった。
もしかしてトラオは、その超やり手の神様が遣わした幸運の猫かも知れん。
あいつがいれば逆転満塁ホームランだって起こりうる。実力では無理そうなので神頼みで行くことにした。
あやかろうと昨日ほどではないが、トラオの毛を少し拝借して制服にまぶしてきた。
よく塩で身を清めるアレみたいなものだ。
トラオ。俺はお前を信じてるぞ。
校長のつまらん話を聞きながら、昼寝でもしているであろうトラオを思い浮かべ手を合わせた。
「またまたすごいね。昨日ほどじゃないけど」
後ろの席にいる女子がブラシをまた貸してくれた。
「ああ、昨日はありがとう。でもいいよ」
「昨日も最初はそう言ってたよね」
「ああ、そうだったっけかな」
教室に戻って一学期最後のホームルーム。
そろそろトラオの神通力が届いて、奇跡の逆転劇が始まる頃だった。
「近藤君」
え?篠原さんが俺の名を呼んでる?
マジか?ホントに来たか!
「先生呼んでるよ」
担任は一人ずつ名前を呼んで通知表を渡していた。
通知表かよ!
「おーい近藤要らないのか―」
担任教師がちょっとふざけている。
別に要らないけどもらっとくよ!
心の中でそう言いつつ、すみませんと頭を下げた。
それからしばらくしてホームルームが終了した。
「夏休み羽目を外し過ぎないようにな。宿題は早めにやっとけ。以上」
先生の解散の合図で一斉に皆が席を立つ。
篠原さんもスッと席を立った。
礼をして皆帰り始めたが、俺は最後の奇跡を願っていた。
そして願っている間に教室に誰もいなくなった。
どうやら逆転劇は起こる事なく試合は終わったようだった。
まあ、こうなるとは思っていたけどな。
誰もいなくなった教室。窓から射し込む日差しが篠原さんの座っていた席に光を落とす。
楽しかったな。
後ろ姿ばかりの思い出を持って教室を後にした。