風間の残党
風間谷
1590年。豊臣秀吉率いる大軍が小田原の北条氏を攻めた。北条氏は降伏し滅亡した。
足柄山に本拠を持つ風間出羽守は戦わずして、逃散した。配下の地組、水組、火組、風組各50人づつ、総勢200人は、組ごとに四散した。地組は京へ上り、水組は真田家に仕え、火組は蝦夷へ渡り、風組は関東に残った。
風魔の名で関東周辺に恐れを為した一族は解体した。彼らは二度と出会うことはなかった。それから10年の歳月が流れた。
「出羽。起きて…。」
「旭…。」
出羽と呼ばれた少年は16歳。旭と呼ばれた少女は12歳。旭は目が見えなかった。
「雨が降ってきたみたい。」
二人がいるのは山間の荒れ寺である。昔は誰かが住んでいたようだが、今は無人となっていた。
「(そうだろうか…?)」
出羽が軒先から手を出すと、ぽつりぽつりと雨粒が落ちてきた。
ザー。ザー。ザー。
瞬く間に、大降りになった。
「雨の匂いがしたから…。」
旭はそう言った。
「(誰か来る…。)」
床板を歩く音がする。
がらん!
戸に隠れていた出羽が刀を振り下ろした瞬間。真っ二つに切れた大根が床に落ちた。
「人を確かめもせずに襲うのは止めよ。」
「御爺。」
御爺と呼ばれた男は、まだ40初め頃であろう。手に笊を持ち、その中には野菜が盛られていた。
「我らは非力だ。」
出羽は大根の片割れを拾った。もう一方は御爺が拾った。
「鍋を持って来い。」
グツグツ。
粥が煮られた。出羽がそれを椀によそい、箸といっしょに旭に渡した。
「粥だ。食え。」
「おいしい。」
「よかった。」
御爺が椀によそった粥を出羽に渡した。
「お前も食え。」
「いただきます。」
出羽は粥を食った。
「おぬしらいつまでここにおる気だ?」
「死ぬまでだ。」
出羽は粥を食った。
「おぬしらの親父が死んでもう3年経つ。」
「早いものだな。」
出羽の空いた椀に御爺は新しい粥をよそった。
「出羽、お前、仕官する気はないか?」
「侍になど成らぬ。」
出羽は粥を食った。
「高力家の侍で小者を探しておる者がいる。」
「旭はどうなる。」
出羽は椀を置いた。
「瞽女の者たちにもらってもらうしかないな。」
「いやだ。」
出羽は立ち上がった。
「わしは旭とここにおる。」
出羽は旭のすぐ傍に寝転がった。
夜、筵の上で二人は寝た。
「出羽。私は…。」
「わしは旭といる方が良い。」
傍らには、粥の入った鍋が置かれたままになっている。
「出羽…。」
「静かに…。」
微かな音がする。出羽は床に耳を付けてみた。
ギイ。ギイ。
床を歩く足音がこちらに近づいて来る。
「旭。ここにいろ。」
出羽は刀を抜いて、戸の影に隠れた。
がらん。
戸が開いて、一体の影が踏み込んで来た。
ズバッ!
「(斬った!)」
手ごたえを感じた。が何もない。
チュー。チュー。
鼠が一匹通っていった。
「鼠…?」
ガバッ!
鼠に気を取られた瞬間、腕を掴まれた。出羽は宙に浮いた。
「くそ!」
もがき苦しむが微動だにしない。
「餓鬼か…。」
刀を取られると、手を離された。
「食い物の匂いがする故、何事かと思ったが…。」
「(食い物?)」
鍋の粥は残っているが、出羽には匂いなど感じなかった。もし、本当に匂いを伝ってやって来たならば、恐ろしい嗅覚である。
「飯を分けてもらいたい…。」
影は鍋の方へ向かった。出羽は急いで、旭の元に向かった。
「もう一人いるのか?」
旭の前に立ちはだかった。
「何もせぬよ。」
影は闇夜の中、灯りも無しに、近くにあった箸と椀に手を伸ばして、椀ごと鍋に入れて粥を掻き取った。
「(何者だ…。)」
出羽は旭の前に立っている。影はただ粥を食っているだけである。
「馳走になった。」
粥を食べ終わると、影は立ち上がった。
「刀は返すぞ。」
そう言って、床に突き刺しておこうと思ったが、ふと見ると、その刀の柄には家紋が彫られている。
「(三つ鱗…。)」
北条家の家紋である。
「小僧。この刀どこで手に入れた?」
影が尋ねてきた。
「形見だ。」
「父親か?」
「そうだ。」
「父親の名前は何と言った?」
「風間出羽守。」
「(風魔…!)」
足柄山に本拠を置き、小田原北条家に協力した乱波の集団、風魔一族の頭領、風魔小太郎のことである。
「お前の名前は?」
「出羽。」
「これはおもしろい物に会ったな。」
パッ。
急に辺りが明るくなった。影が戸を開けたらしく、そこから、月灯りがさっと室内を照らした。
「おぬしら、儂とともに来ないか?」
「何?」
「兄弟二人して面倒を見てやる。」
「お前は何者なのだ?」
「儂は高坂甚内。元は武田の草よ。」
「武田の草?」
「おぬしらの父親と同じ生業の者のことよ。」
「(父と…?)」
出羽たちの父は二人が幼い頃、一族の者とこの地にやってきた。彼らは時折、外に出てはいたが、何をしているのかは知らなかった。一族の者は一人、二人と減っていき、父も3年前に亡くなった。
「父のことを知っているのか?」
「ああ。」
「わしも父のようになりたい。旭を守りたいのだ。」
父はいつも食べ物や着る物を持って来てくれた。
「3年。お前らの時を3年、儂にくれ。そうすれば、お前を父親のようにしてやる。」
「分かった。」
その夜、出羽と旭は高坂甚内と名乗る者についていった。
「いないか…。」
翌日、やって来た御爺の前には空になった鍋だけが置いてあった。
江戸
1603年。江戸とその周辺の地は、盗賊たちの巣窟となっていた。江戸の町とその周辺を荒らし回った盗賊は、風魔一党と高坂一味であった。
「御頭。起きて下さい。」
「旭…。」
「雨が降ってきましたよ。」
ザー。ザー。
いつのまにか雨が降っていた。
「今宵はお止めになりますか?」
「いや。行く。」
外には黒装束の者が十名程座っていた。
サッ。
御頭と呼ばれた男が手を振ると、黒装束たちは無言で移動した。
「雨強くならなければ良いけど…。」
旭が呟いた。旭は15歳。御頭と呼ばれた男は19歳となったかつての出羽である。今は風魔小太郎を名乗っている。
サッ。
御頭の指示で皆が止まった。その姿は闇に紛れて見えない。
サッ。
黒装束たちは二手に別れた。
風魔一党は江戸近辺の大小名屋敷や庄屋屋敷を襲った。一方の高坂一味は江戸の屋敷や商家を襲った。
黒装束たちは刀の柄を踏み台にして塀を越え、二人一組になり、屋根に登った。彼らは屋根裏伝いに屋敷に侵入すると、目星の部屋を見つけて、降りる。そして、金品を強奪する。邪魔者は殺した。小さな庄屋屋敷などでは、屋敷内の人間を皆殺しにした上で金品を運んだ。この夜は、関宿松平家の庄屋屋敷だった。一刻ほどして、内側から開けられた門から金品を運んだ黒装束たちがやって来た。
サッ。
黒装束たちが闇夜に消えてしばらくすると、屋敷から火の手が上がった。その間、黒装束たちは一言たりとも言葉を発しない。ただ、途中で、微かに御頭の耳元で囁く声が聞こえた。
サッ。
しばらく歩いたところで集団は止まった。
御頭が一人の黒装束に近づくと、抜刀し突いた。突かれた黒装束は絶命し、雨の中に倒れた。隣の黒装束が倒れた者の衣類をはいで、真っ裸にすると、横を流れている川に蹴落とした。
サッ。
御頭の合図で、黒装束たちは再び、闇夜に消えた。
ザー。ザー。
「戻った。」
「お帰り。」
旭は起きていた。
「ずっと起きていたのか?」
「ううん。今起きたところ。」
今はまだ、日が昇っていない。
「血の匂いがする…。」
「ああ…。掟を破った者をな。」
小太郎は装束を脱いだ。褌一丁の姿である。
「寝る。」
そう言って、筵に包まった。
「ねえ。お兄ちゃん。」
旭はそう呼んだ。
「…。」
小太郎は無言で聞いている。
「いつまで続けるの?」
「死ぬまでさ。」
「うそ。」
「なぜ?」
「お兄ちゃんだって気がついてるはずだよ。」
盗賊稼業の末路は『死』である。
「だから死ぬまでだ。」
「いや。」
「旭は死ぬのがいやか?」
「お兄ちゃんが死ぬのがいや。」
『死』。小太郎はこの3年間で数多の者を手にかけてきた。百姓、町人、侍etc。いつのまにか自分が死ぬのもその中のひとつだと思っていた。
「(そうか、俺が死んだら、旭は一人になるのか…。)」
いつのまにか忘れていた。
「(何で忘れていたのだろう…?)」
3年前、高坂甚内の手下になったときは、旭を守り、養うことが目的だった。
「(他の手だてを考えようとしなかったのか…。)」
父の跡である風魔小太郎を名乗り、江戸近辺を荒らし回った。
「侍は俺たちを守ってはくれない。」
小太郎の望みは目の見えない旭とともに幸せに生きていくことであった。しかし、世の中の仕組みは二人にそれを許さなかった。周囲は敵となった。
「望みを叶えるならば自分たちでしなければだめだ。」
「そしたら、私はひとりぼっちになっちゃうよ…。」
旭は悲しそうに言った。兄と別れて一人になるのが本当にいやなのだろう。
「(それなら、俺はどうしたら良いのだろう…?)」
旭をひとりぼっちにさせないようにしても、結局、旭はひとりぼっちになってしまう。世の中というのは、本当に二人にとっては相応しくないものであった。
「(そうか…。それでいつも眠ってしまっていたのだ…。)」
答えが出ないまま、小太郎は盗賊を続けるしかなかった。このやりとりも本当はもう何度となく行われたものだった。
「ごめんね。またお兄ちゃんを困らせちゃったね。」
「いいよ。」
小太郎は寝ていたが、旭の目から涙がこぼれ落ちていることは知っていた。破れた筵の隙間から冷たいものが小太郎の太股を濡らしていた。
「(眠ろう…。)」
いつものように、答えが出せないまま眠ってしまおうと思った。しかし、不意に来た訪問者が小太郎にそれを許さなかった。
「何用じゃ。高坂。」
「分かっていたか。」
屋根裏からするりと影が落ちてきた。窓からの朝日がその影を照らした。外はもう日の出である。
「仕事を頼みたい。」
「どんなものだ?」
小太郎は寝たまま答えた。
「此方の十人と其方の十人。」
「一人死んだ。」
「そうか。では、此方の十人と其方の九人。」
「盗みか?」
「左様。相手は大名屋敷。儂はこの仕事が終わり次第上方へ往く。」
「場所は?」
「いずれ伝える。」
再び、高坂は屋根裏へ消えた。
「ふむ…。」
小太郎に忍びの業を教えてくれた高坂甚内に、小太郎は頭が上がらなかった。高坂は悪党ではあったが、小太郎と旭を養ってくれた。
「(俺も悪党か…。)」
こん。
夕暮れ間近、石が投げ込まれた。紙に包まれている。
「(いわつき。やまでら…。)」
石の個数が時を表している。
「(三つ…。)」
明後日の夜であった。
ザー。ザー。
今宵も雨が降っている。その中を影が煌めいたかと思うと何もいなかった。山寺へ向かう小太郎ら黒装束の九人であった。
サッ。
黒装束は足を止めた。
キイ。
小太郎のみが中へ入る。
「(高坂はまだいないか…。)」
来たのはかつて小太郎と旭が過ごしていた山寺である。風魔一党や高坂一味は、各地に隠れ家を用意してあった。小太郎と旭が父と過ごしたここも、隠れ家のひとつとなっていた。
「(ここに来るのは久しぶりだな…。)」
隠れ家としても使うことは少なく、足を踏み入れたのは、3年前から数えて二度目であった。
「(変わっておらぬ…。)」
雨戸が閉められ、辺りは暗闇である。堂内は荒れるに任せていた。
ザー。ザー。
雨が降っている。
ガタ。ガタ。
外で気配がした。
ギイ。ギイ。
「(誰か来る…。)」
ギイ。ギイ。ギイ。
「(一、二、三…。)」
高坂ではなかった。高坂ならば、一人で堂内に来るはずである。そもそも足音が違った。
がらん。
ズバッ。
人が倒れた。
「居たぞ!」
侍だった。
「(己、売ったか!)」
戸を閉めると、倒れた侍の刀を奪って、戸を固定した。
ドガッ!
戸が破られた。同時に、小太郎も雨戸を破って、外へ出た。黒装束が四人倒れて、雨に濡れていた。周りには、侍と松明を持った小者が数名いる。
「(高坂…!)」
襲ってきたのは藩の足軽や幕府の旗本、御家人の捕り手であろう。黒装束を殺したのは、高坂の一味かも知れない。小太郎が風魔を名乗り、1年。風魔一党には幕府から懸賞金がかけられていた。江戸やその周辺の警戒も厳重になり、盗賊稼業は遣り難くなった。風魔一党と高坂一味。そのどちらかが消えれば、相対的に忍び込む獲物の数も増える。
「一、二、三、四…。」
目の前の侍は七人。四人が槍、三人が白刃を手にしている。松明は五つ。
「居たぞ!」
松明の夜光が、雨に濡れた小太郎の体を照らした。その灯りは滑るように小太郎の肢体を這った。
「やあっ!」
刃の煌めきとともに槍穂が突き出された。
「うっ…。」
槍穂は肢体を突き刺した。がそれは、小太郎の物ではなく、後ろから小太郎を追って来た侍の一人だった。
「ぎゃ…!」
地面に転がった小太郎は倒れた黒装束の刀を抜き取り投げた。松明がひとつ倒れた。そこにできた闇を縫うように小太郎は走った。途中、白刃が一刃、小太郎の背中を襲ったが、無言で小太郎は闇の中に駆けた。
ザー。ザー。
雨が降っている。
山中の闇を手負いの獣が一体駆けていく。
「(己…!)」
怒りが湧いていた。
「(己…!)」
それは高坂と自身に向けてであった。自ら忍びの業を仕込み、用が済むと捨てる。そんな高坂と同類である自分。自らも人を殺め、邪魔者は殺した。そんな数多の内の一人として、自分も露と消えるのだろうと思っていたが、いざその立場に己が成ると、体から怒りや憎しみがこみ上げてくる。そんな自分に嫌気がした。
ザー。ザー。
足下に黒装束が一人息絶えていた。その体は血にまみれている。
「(血…。)」
小太郎は己の背中の傷を思い出した。背中を触ると手掌に血がべったりと付いた。
「(思ったより深いか…。)」
「居たぞ!」
カッ。
小太郎の横の木の幹に矢が刺さった。
「(増えたか…。)」
追っ手の人数が増えたようであった。小太郎は走った。
「逃すな!」
侍たちは血の跡を追って来る。
「(死ねない…。)」
獣の如く、地を這った。
「(生きる…。)」
小太郎は逃げた。小太郎の後ろからは世の中が追って来る。
「(旭を一人にはしない…。)」
小太郎は走った。旭のところへ。
ザー。ザー。
雨が降っている。
山間の山寺では、天が白みかけていた。その隙間からは微かな明かりが灯っている。
その空の下には、雨と泥にまみれた黒装束が落ちていた。
旭のところへ無事に小太郎が辿り着くことができたかどうかは分からない。ただ、徳川家康が征夷大将軍に任じられた1603年。江戸とその周辺を荒らし回った風魔一党は、同じ盗賊の高坂甚内の密告により、幕府に捕らえられて処刑されたと伝えられる。その処刑された人物がはたして、実際の風魔小太郎その人だったのかどうかは定かではない。
盗賊、風魔一党が滅んだその年の翌年、長崎から一艘の朱印貿易船が出航した。行き先は交趾。今のベトナムであった。その船の中に、どこかの藩の侍らしき男と瞽女が一組乗っていた。男が差していた刀の柄には、三つ鱗の紋が彫られていたと記録されている。