続2・前篇
※この話は『ある婚約破棄の秘密』の続編であり、『魔法の砂時計』とのコラボです。
※『ある婚約破棄の秘密』を読んでいなくても、問題ない内容になっていると思います。
スマホの着信音が鳴り響く。
ある平日の昼前。内村成美は会社にいる夫の大貴から「書類を忘れたので届けてほしい」と電話をもらった。
「さあ、美貴。お出かけよ。パパの所に行くわよ」
成美は三歳の娘をあやしながら支度を整え、娘の手を引いて家を出る。
夫の、そして成美自身も結婚前に勤めていた会社は、電車で小一時間。
娘が車窓に流れる風景に目を奪われてくれたおかげで、目的の駅までスムーズに移動することができた。はぐれないよう、娘を抱っこして会社まで歩くと、エントランスで夫が待機している。
「ありがとう、成美。助かったよ」
大貴は心からの安堵の笑みを浮かべて書類を受けとる。
そして成美が抱っこしていた娘をも受けとった。「パパ」と喜ぶ娘の声に相好を崩す。
「美貴もありがとうなぁ。パパ、助かったよ。美貴とママのおかげだ。大好きだよー、美貴」
「みきもパパすきぃー」
「そうかぁ、パパも美貴が大好きだー」
会社のエントランスで高い声による「大好き」の応酬がはじまる。
道行くビジネスマン達は「何事か」と見ていくし、受付嬢達も「あれが内村本部長?」と目を丸くして顔を見合わせている。
成美は真っ赤になりながら「早く会議に行かないと」と夫から娘をとりかえした。
大貴は、いかにも『愛する娘と妻に未練たっぷり』という様子でしぶしぶエレベーターへ向かう。娘は「パパ、いってらっしゃーい」とぶんぶん手をふり、成美も夫の姿が見えなくなるのを待ってエントランスを出た。
通りに出て考える。
まっすぐ帰る予定だったが、美貴は電車の中で静かにしていたし、成美も久々の近所以外の外出で、すぐに帰宅するのはもったいない気がする。
「美貴、ちょっとお店に入ろうか。電車でいい子にしていたから、プリンを食べていいわよ」
「ぷりんっ!」
可愛い顔がさらに可愛い笑顔を見せて、成美も嬉しくなる。
たまにはこんな寄り道もいいだろう、と会社近くのファミレスに入った。
子供用のプリンセットとコーヒーを注文する。鞄から絵本をとり出し、プリンが来るまでの時間つぶしに娘に読んでやる。プリンが届くと娘に食べさせはじめた。合間に自分のコーヒーを流し込んでいく。
昼食の時間帯となり、店内は一気に客が増えた。
成美達の隣にも若いスーツ姿の女性の二人組が案内される。
先ほど会った、夫の会社の受付嬢達だった。
「本部長のあんな顔、初めてです~」「意外でした~」「本部長って、家ではあんな感じなんですか~?」
受付嬢の片割れがきゃあきゃあ言いながら、成美を質問攻めにしてくる。
成美が気恥ずかしさに「ええ、まあ」と生返事をくりかえしていると、受付嬢は「いいなぁ~」と上目づかいでこちらを見つめてきた。
「内村本部長って、会社ではけっこうモテるんですよぉ~。結婚しているけど、まだ三十五だし、仕事もできてイケメンだしぃ~奥様がうらやましいなぁ~」
一見、可愛らしい顔立ちだが、その瞳の奥に羨望と敵意の光が瞬くのを見て、成美は危険を察知する。
夫の大貴は結婚前から女子社員に人気で、成美も結婚が決まってからは「なんで内村さんが、あんなオバサンと!」と社内中から嫉妬をうけたものだった。
「ちょっと三島さん。それくらいにしないと、奥様が困っているじゃない」
幸い、もう一人の受付嬢が同僚をたしなめてくれ、受付嬢達のランチも到着したおかげで、成美は質問攻めから解放される。
(さっさと帰ろう)
そう決め、なだめすかして娘にプリンセットを食べさせ終え、自分のコーヒーも飲みほしてテーブルに出した絵本も片付ける。
が、成美達が席を立つ前に受付嬢の一人が「ちょっと失礼」と席を立ち、その隙を狙って先ほどのしつこい受付嬢が再度、成美にからんできた。
「でも奥様、幸せですよねぇ。あんなすてきな旦那様で。病気の婚約者を捨てた甲斐がありましたよね。ホント、うまくやりましたよねぇ」
悪意を隠さない、ねっとりした声音。
その口調も不快だったが、それ以上に聞き逃せない言葉があった。
「…………は?」
「みんな、知ってますよぉ。内村本部長の奥さんが、本当は別に婚約者がいたのに、その人が助からない病気とわかった途端、その人を捨てて内村部長と結婚したこと。まあ、気持ちはわかりますけど? 大貴さん、すてきだし、出世も早いし、イクメンだし。優良物件ですよねぇ」
「…………今、なんて?」
「だから、大貴さん、超優良物件だって…………」
「その前!!」
「ああ、捨てた婚約者が重い病気だった、ってことですか? やりますよねぇ、不治の病の婚約者を捨てて、社内屈指のイケメンに…………」
「なんの話!?」
成美は女につかみかかった。血相を変えた母親の声に、娘がびくりと身を固くしたのにも気がつかない。
「別の婚約者って…………翔のこと!? 翔が病気って…………」
「疑うんなら、高橋専務に訊いてみるといいです。専務、昔はあなたの婚約者の上司だったとかで、婚約者さんが退職する時『自分だけ本当の理由を聞いた』って言っていましたもぉん」
にやにやと、いやらしい目つきで受付嬢は笑った。
「そっ…………」
「ママ!! おうち帰ろ!!」
美貴が店内中に響くような大きな声を出して、成美は我をとり戻す。
母親の異変を察知した幼い娘は泣き出した。
「ああ、ごめんね、美貴。大丈夫よ、すぐに帰ろうね」
慌てて娘をあやす成美に「ふん」と鼻を鳴らして、受付嬢はランチに戻る。
成美は娘を抱っこしながら、逃げるように会計を済ませてファミレスを出た。
皆川成美が上司だった夫の大貴と結婚して内村姓になったのは、六年前。
その前は辻村翔という、別の部署の社員と婚約していた。
優しく誠実な男と思っていた翔はある日突然、成美の知らない若い美人を連れて来て「今、彼女と付き合っている」と宣言して、一方的に婚約を破棄してきた。
当然、成美は荒れた。
その荒れた成美を受けとめ、慰め、癒してくれたのが大貴だ。
『一夜の過ち』のようなスタートではあったが、大貴は真剣に成美に結婚を申し込んできて、成美も彼の熱意と誠心に押されて、彼との結婚を承諾した。
そして三年後、待望の我が子――――美貴を授かり、やりたかったフリーランスの仕事も軌道に乗りはじめて順風満帆…………と思われていたのだが。
(翔が病気…………それも治らない病気!? そんなの、一言も聞いていない…………!)
ファミレスから帰宅しても成美の動揺はおさまらなかった。
娘に夕食を食べさせたり、風呂に入れたり、世話を焼いている間は堪えていた疑問が、寝かしつけ終えた途端、頭の中をかけめぐる。
「ただいま。美貴は、もう寝たかい?」
夫が一日の疲れをにじませながら、それでも笑顔で帰宅する。
「今日は書類、ありがとう。仕事中に君と美貴の顔を見られて、癒しになったよ。また何か忘れようかな」
「なに言ってるの…………お風呂、沸いているわよ」
結婚から六年間。大貴の笑顔を見るたび「この人と結婚して正解だった」と感じていた成美だが、今夜はその笑顔を直視することができない。
「いそぎの仕事があるから」とごまかし、仕事用に用意した個室で寝ることにした。
夫は特に疑う様子もなく「根を詰めすぎないようにね」と優しい言葉をかけて、風呂場に消える。
仕事部屋のベッドの上、暗がりの中で一人、成美はぐるぐると考えつづけた。
翔と成美、そして大貴は同じ会社に勤めていた。
翔と成美の婚約は当時ほぼ公認であり、翔が成美を捨てて若い女性に乗り換えたことも、捨てられた成美に上司だった大貴がプロポーズして、あっという間に婚約に至ったことも、社内中の人間が知っていた。
翔は成美と大貴の婚約が明らかになった直後、ひっそりと退職した。
事情を知る者は誰もが「若い女に乗り換えた噂が広まり、居心地が悪くなったんだろう」と考えていたし、それ以外の理由も浮かばなかった。
成美ですら漠然と「たぶん、そうだろう」と考えていた。
病気なんて、思いついたことすらない。
けれど、昼間の三島という受付嬢の告げたことが事実ならば。
(…………会おう。高橋専務に)
『あの受付嬢のでたらめだ』と切り捨てることはできたはずだった。
今の成美は大貴の妻で、美貴の母親。
昔の婚約者の動向なんて関係ないし、存在自体が無用だ。
そう、割り切って忘れるべきだった。
しかし成美は割り切ることができなかった。
嘘か本当か。
確かめなければ、忘れることもできない――――
数日後。悪いと思ったが、成美は大貴のスマホから専務のメルアドをチェックし、専務に連絡をとることに成功する。すぐに会う約束をとりつけ、うまく時間を調整して、夫は会社、娘は保育園に預けられている間に、指定された小さなカフェで高橋専務と直接、会った。
専務はすでに受付嬢から話を聞いており、それゆえ成美の呼び出しに応じたのだ。
「すまない。一度だけなにかの折に、うっかり彼女にしゃべってしまったんだ。辻本君からは、絶対に君の耳には入れるな、と頼まれていたんだが…………」
「では、事実なんですね!?」
成美は愕然とした。最後の望みが絶たれた気分だった。
高橋専務が詳細を話し出す。
いわく、翔が成美に別れ話を切り出す少し前、直属の上司だった高橋は翔から退職を切り出された。翔は診断書を提示して、自分が重篤な病を患っていること、もう手の施しようがない状態のこと、退職したらすぐに入院する予定であることを部長に説明してきた。そして他の人間、特に婚約者の皆川成美には、絶対にこの事実を知らせてほしくないことを…………。
かくて、翔は成美に婚約破棄を申し出て、仕事上の引き継ぎをすべて終えると、ひっそりと辞めていった。社内の人間達にどう噂されようと誤解されようと、もはやどうでもいい、という風だった…………。
「私も話を聞いて仰天した。せめて、婚約者だった皆川君には真実を知らせるべきじゃないかと、やんわり勧めたが…………『絶対にできない』と拒否されたよ。『成美に心配をかけたくない』『僕を忘れて幸せになってほしいから』とね。それから、この件は墓場まで持って行くつもりでいたんだが…………三島君のことは本当に迂闊だった。弁解のしようもない」
高橋は頭をさげたが、成美にはどうでもいい。
ただ一つの事実が頭の中に鳴り響いていた。
(翔…………本当に病気だった…………治らない状態の…………私に心配をかけないため、ずっと黙って、一人で会社を辞めて、病院に…………)
嘘だ、とは言えなかった。
むしろ(翔らしい)とさえ思った。
自分が不治の病と判明し、健康な婚約者を一人、残していかねばならないと知ったら。
翔なら自分から身を引くだろう。場合によっては悪役を演じてでも。
(じゃあ…………じゃあ、あれは…………)
成美の脳裏に、翔に別れを切り出された時の光景がよみがえる。
待ち合わせのカフェに翔は若い美しい女を同行させ『今、付き合っている女性だ』と紹介してきた。『先週から彼女と一緒に暮らしている』とも。
あの頃はただ驚き、予想外の裏切りに怒るばかりだったが。
(あれは…………本当のことを教えないため? ただ『別れたい』と言っても、私が納得しない、理由を知りたがると予想して、『他に好きな人ができた』なんて嘘を――――?)
「まあ…………彼も若いのに、潔い男だったと思うよ。仕事も人生もまだまだこれから、本人も未練は山ほどあったろうに…………不治の病とはいえ、婚約者を友人に譲って自分は黙って身を引くとは…………なかなかできることじゃない」
「え?」
「部署は違うが、辻本君と内村君は同期で、仲も良かったからね。だが、まさか独りになった君を内村君に託すほど、辻本君が内村君を信頼しているとは思わなかった。男の友情というやつだな」
「うんうん」と、高橋は日本人好みの古典的な自己犠牲の話に酔っている風に見えた。
しかし成美はそれどころではない。
「どういうことですか…………?」
青ざめて自分を凝視してきた成美の反応に、高橋もようやく己の失言に気がついた。
「翔が私を、譲ったとか託した、って…………」
「いや、その」
高橋はうろたえた。成美に「どういうことです!?」と、カフェの小さなテーブルを叩いて迫られ、観念したように口を開く。いわく「二人の間では話が成立してた」と――――
「辻本君が君との婚約をただ解消すれば、君は『若い女に婚約者を奪われた』と不名誉な噂を立てられ、今後の差し障りにもなる。それを避けるため、あらかじめ内村君に話を通して、自分が婚約を破棄したら即、内村君が行動に出るよう取り計らっていたんだ。実際、君と内村君は結婚までとんとん拍子に進んで…………辻本君も満足していたはずだ」
「大貴が…………」
成美は床が抜け、地の底に落ちていく錯覚にとらわれた。
翔が実は不治の病だった。それゆえ成美との婚約を解消した。
それだけでも衝撃だったのに、まさかそれを大貴は知っていたなんて。
のみならず、翔から任されて自分にプロポーズしていたなんて。
翔に捨てられた、ほんの数日後。成美は残業で内村と二人きりになり、仕事のあと夕食に誘われてワインまでご馳走になり、翌朝、彼の部屋の、彼のベッドの上で目を覚ましたのだ。
大貴は『前から好きだった』と成美に告白してきた。
できすぎた展開だとは思っていた。ハーレクイン小説やレディースコミックのようだ、と。
でも、それらがすべて仕組まれたものだったとすれば。
翔も大貴も、目の前の高橋すらも、みな、最初からすべて知っていて、成美だけが何も知らない、お芝居だったのだとすれば。
「誤解しないでほしい。辻本君も内村君も、すべて君のためを思ってしたことだ。二人共、本当に君を大切に想っていた。あんないい男二人にあそこまで愛されるなんて、君、それこそ女冥利に尽きるというものだよ…………」
青ざめて言葉を失った成美に、高橋がいそいで言葉を足していくが、そのすべてが成美の耳を素通りしていく。
「…………失礼します…………」
成美はなんとか立ちあがって、ふらふらとカフェを出た。
どうやって家に帰ったのか、ほとんど記憶がなかった。
そのあとは悪夢の中をただようようだった。
娘に話しかけられても、夕食を食べさせていても、上の空。すぐに手がとまって「ママ!」と娘に怒られ、我に返る。それでも集中できず、何度も失敗をくりかえした。娘も母親の異常を察知して、今夜はなかなか眠ろうとしない。
それでも、どうにかこうにか娘を寝かしつけ終え、成美はそっと娘の部屋を出ると、ふらふらとリビングのソファに寄って、どさり、と腰をおろした。顔をおおう。
『天地がひっくり返ったような』とは、こういう心地か。
若い女に夢中になって自分を一方的に捨てた、と恨んでいた男が実は不治の病で、捨てるどころか成美の未来を気遣って自ら身を引いていたなんて。
まるでドラマか小説のような展開だと、やや呆れつつも大事に想っていた夫との出会いがすべて仕組まれたもので、仕組んだ張本人が夫と元婚約者だったなんて。
高橋の話によれば、翔は退職して即、入院し、成美達の挙式直後に亡くなったらしい。
成美は後悔と罪悪感に身が引き裂かれそうだった。
成美が大貴に癒され、愛され、幸せを堪能していたあの頃。
翔は一人で死への恐怖と戦い、一人でひっそりと逝ったのだ。
なんという落差だろう。
成美は自分が不幸に勝ったのだと思っていた。
若い美人に目がくらんで自分を捨てた男より、はるかに優しく誠実で優秀なすてきな夫を得て、自分を不幸にしようとした運命に勝ったのだ、と。自分を捨てた男を見かえしてやれたのだ、と。
あなたがいなくても、私は幸せになれる。
私の幸せにあなたは必要ない。
そう、証明できたつもりでいた。
そして、それが自分を捨てた男への最大の復讐のつもりでいたのだ。
それなのに。
本当に不幸だったのは自分ではなかった。
何も知らないのは自分のほうだった。
自分は愛していたはずの婚約者の異常も本心も、なにも気づかず、見抜くこともできず、ただ己を憐れみ、与えられた幸せに甘えて浸っていただけだった。
その幸せを与えてくれたのは、他でもない翔だったというのに。
翔が一人で死へとむかっていた時、誰よりもそばにいるべきは自分だったのに。
(なんて馬鹿だったの――――!!)
成美は自己嫌悪と羞恥に苛まれた。自分で自分をこの世から消し去りたい。
玄関で、鍵の開く音がやけに大きく響く。
「成美…………」
帰宅した大貴は、夫を出迎えずにリビングのソファで小さくなっていた妻を見つけた。
高橋から話を聞いた大貴は、すでに知っていた。
成美がすべてを知ってしまったこと。高橋がすべてを話してしまったことを。
しばし、重苦しい沈黙が室内を支配する。
やがて口を開いたのは、大貴のほうだった。
「専務から聞いた。六年前のことを君に話した、と…………」
成美はびくり、と肩をふるわせ、おそるおそる夫の顔を見た。
「専務の話は…………本当だ」
眉間に苦悩のしわを寄せながら、大貴はしぼり出すように言葉をつむいでいく。
「辻本は病気だった。判明した時点で、手の施しようがなかった。だから君と別れたんだ。君に心配や迷惑をかけないために」
「そんな…………」
「でも僕が君に結婚を申し込んだのは、辻本に頼まれたからじゃない。それとは関係なく、もともと君のことが好きだった。だからプロポーズしたんだ。それは事実だ、信じてくれ」
成美はとうてい、すんなり「はい、そうですか」とは言えなかった。
「そんな…………じゃあ私は…………私はいったい…………」
「成美」
「信じていたのよ? 翔は私を捨てたんだ、って。だから、あなたにプロポーズされた時も、迷わずうけることができたのよ。『私を捨てた、あんなひどい男に義理立てしてやる必要はない』『翔よりずっとすてきな人を捕まえて、ずっと幸せになって見かえしてやるんだ』って…………全部、あの人がひどい男だと信じていたから…………それなのに病気だったなんて…………助からない状況だったなんて…………」
「成美」
「私、あなたと結婚して幸せだった。翔に捨てられて絶望して、でも、あなたに愛されて救われたのよ? 本当に幸せだった。なのに…………私がそうやって幸せだった頃、翔は一人で苦しんでいたなんて…………私に何も言わず、一人で逝ってしまったなんて…………私、翔を見捨ててしまったのよ!?」
「成美、それは違う!」
大貴は鞄を投げ出すように置いて、成美の目を正面からのぞきこんだ。
「君は、辻本を見捨ててなんかいない。すべて辻本の望みだったんだ。君には何も知らせず、心配もかけず、ただ自分のことを忘れてほしい。それが辻本の最後の望みだったんだ。君が知ってしまうことを、こんな風に苦しむことを、辻本は望んでいなかった。知らないままでいてほしかったんだ。辻本も…………僕も…………」
「無理よ…………」
成美は否定した。
「こんなことを知って…………今までみたいに平然と暮らすなんて、絶対に無理。幸せになんてなれない。私、翔にひどいことをしてしまったのに…………忘れるなんて、できない!」
首をふる成美の言葉に、大貴の声も激しくなる。
「じゃあ、どうするって言うんだ? 辻本のもとに戻る、とでも!?」
成美の肩をつかむ大貴の手に、力がこもる。
「君は…………君は、僕と結婚して幸せだったんじゃないのか!? 美貴と三人で、幸せだったんじゃないのか!? 今『幸せだった』って言ったじゃないか! なのに、辻本のもとに戻るって言うのか!? 辻本が忘れられないのか!? だったら僕は、君のなんなんだ!?」
大貴は成美の肩をゆさぶって言い募る。
「僕は…………僕だって、君を愛してきた。辻本と婚約したと知って、何も言わずに身を引くことに決めて、それでも君を愛していた。辻本が死んでからは、辻本の分まで…………いや、辻本以上に、絶対に君を幸せにすると誓って、そうしてきた。美貴も君も、二人とも誰にも負けないくらい愛してきたんだ。それなのに…………!」
「大貴…………」
「ああ、そうだ! 僕は君が好きだった! 辻本から病気の話を聞いた時、心底驚いたけれど、腹の中では喜んでもいたよ。『僕にもチャンスが回ってきた』って! 我ながら、醜いと思うよ。自分勝手だ。でも、それくらい君のことが好きだったんだ! あきらめられなかった!!」
「大貴」
「だから、辻本から君のことを頼まれた時は…………君にプロポーズを受けてもらった時は…………せめて誰より幸せにすると誓った。辻本の生死に関わらず『僕を選んで良かった』と言ってもらえるように…………それなのに…………まだ君は、辻本を愛しているのか? 僕がなにをどう努力しても、辻本には敵わないのか…………!?」
「それは…………っ」
「ママぁ」
緊迫した夫婦の空気をぶち壊して、間延びした幼い声が割り込んできた。
「おトイレ…………」
リビングの入り口で、パジャマ姿の美貴が目をしょぼしょぼさせて立っている。
「ああ、美貴。ちゃんと先に『おトイレ』と言えたんだな、すごいぞ」
「パパ?」
予想外の声に美貴はぱちりと目をあける。そして笑顔になった。
「パパ! おかえり!」
「ただいま、美貴。おトイレに行こうか」
夫が娘を抱っこして、トイレに向かう。
それをきっかけに夫婦の会話は中断し、成美も大貴も、ひとまずは眠ることにした。
大貴は夫婦の寝室で眠ったが、成美はとうてい一緒に寝る気にはなれず、仕事用の部屋で横になる。
翌朝も仕事に行く夫を見送ることはできず、「ママ、どうしたの?」と不思議そうにする娘をいつものように保育園に預けると、財布とスマホを持って家を出た。