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「モラハラじゃないか?」


 半月前、偶然入ったドラッグストアで裕貴と美優と鉢合わせ、別れたあと。

 二人の立ち去った方向を見て、近江奏は花織に告げたのだ。

「おそらく、あの妻はあの男にDVを受けている」と。

 淡々とした奏の言葉と表情に、花織は最初、なにを言われたのかわからなかった。


「いやいやいや。DVって、配偶者に暴力や暴言をふるうことでしょう? 裕貴は奥さんとラブラブでしたよ。さっきもハンドクリームを買ってあげたりして」


「充分な生活費をもらっていないんだろう。三百円のハンドクリームも買えないレベルで」


「ええ?」と首をかしげる花織に、近江は説明を重ねる。


「数千円のブランド物のクリームなら、夫にねだることもあるだろう。だが、家計を預かる主婦なら、三百円なんて自分で出したほうが早いし、その程度の余裕もないなら、相当、経済的に困窮していると見ていい。それにあの男、ハンドクリームをねだられた時に『金のかかる女』と言っていた。普通、三十過ぎて職もある男が、三百円程度に『金がかかる』というか? 推測だが、経済的DVをうけているんじゃないか?」


 花織は言葉を失った。

 たしかに、婚約者を捨てて未成年と結婚した男だけれど、DVなんて、まさか、そこまでひどい男だなんて――――

 立ち尽くした花織に、近江も「あくまで予想だ」と前言を訂正する。


「俺も専門家じゃない。ただの推測だ。驚かせて悪かったな」


 近江は謝罪して、この話はそれきりとなったのだが。






 半月前の会話を思い出しながら、花織は目の前の美優を見おろす。

 無造作に結んだだけの髪、やつれた表情、削げて血色の悪い頬。

 半月前もそうだった。地味な灰色のパーカーに安物のスニーカーとジーパンを合わせた美優からは、二年前のはじけるようだった若さや輝きはごっそり失われ、あれほど艶やかに輝いていた黒髪も、今はパサパサで見る影もなかった。

 花織は裕貴に心底、腹が立った。


「掃除も洗濯も料理も全部、あなたに任せて。今日のパーティーだって、裕貴は準備もなにも手伝わなかったんじゃないの? そこまでさせていながら『穀潰し』だの『金食い虫』だの、完全にDVよ。あなたは裕貴に虐待されている。三百円のハンドクリームすら自分で買えないなんて、二年前のほうがよほど自由だったんじゃないの?」


 美優は愕然と目をみはった。


「二年前のあなたは、もっときれいで幸せそうだったわ」


 一瞬、本気で『負け』を認めそうになったくらいに。

 美優の膝から力が抜け、フローリングにへたり込む。

 花織は慌てて屈んだ。


「大丈夫? とにかく、私も手伝うから…………」


「…………帰って…………」


 弱々しい声が美優の口からしぼり出される。


「あたし一人でやるから…………一人でやらないと、怒られるから…………」


 躊躇したが、花織はこれ以上の問答を断念した。

 万一、ここで裕貴が帰ってきたら、立場が悪くなるのは美優だろう。

 花織はバッグからスケジュール帳をとり出し、メモのページに自分のスマホの番号を記すと、そのページを破りとって、座り込んだ美優の手の近くに置く。


「私の連絡先。気が向いたら連絡して。要らなければ捨てて」


 呆然とする美優を残し、「じゃあ」と今度こそ大久保家を出た。






 さらに半月が過ぎる。

 大きな仕事をようやく片付けた週末。花織は惰眠を貪っていた。

 スマホが鳴る。

 知らない番号からだ。無視しようかと思ったが『十時十七分』の表示を見て、「そろそろ起きよう」と出ることにする。


「もしもし」


『…………』


 やや緊張した声音で応答するが、返事がない。


「? もしもし? どなたですか?」


 悪戯だろうか。

 切ろう。『終了』ボタンをタップしかけた、その寸前。


『…………たすけ、て…………』


「!?」


 小さな声が聞こえた。


『助けて…………』


「! 裕貴のところの! ええと、美優さん!?」


 花織は跳ね起きた。






 マンションのエントランスに飛び込み、インターフォンで目的の部屋番号を呼び出す。「藤原です」と名乗ると入り口が開き、エレベーターに乗って半月前に来た部屋へ向かう。

 インターフォンを押すと、しばらく待って玄関ドアが開けられた。

 出てきた美優はスマホをにぎりしめ、顔色は真っ青だった。


「大丈夫!? 熱は!?」


 ふらふらの美優は明らかに非常事態で、花織も二年前のあれこれが一時的に吹き飛ぶ。

「電話をかけたあとに測り直した」という熱は四十度ちかかった。


「病院は、まだ行っていないのね?」


 のろのろと美優はうなずく。

 先ほど電話をかけてきた時に言ったのだ。

『熱があるのに、裕貴に病院に行かせてもらえない』と。

『死んでしまう。助けて』と――――


「裕貴は高校ね?」


 美優はうなずく。花織は美優をうながした。


「出ましょう。まずは病院よ。きついだろうけれど、大事な物を持って来て。スマホと、お財布と…………」


 美優はふらふらした動きで、リビングのテーブルからピンクの財布を手にとる。

 花織はテーブルの上のノートに目がとまり、内容を確認すると、それを自分のバッグにしまった。


「保険証は?」


 美優は首をふった。

『裕貴が持っている』と言う。


「他に、失くしたくない貴重品は?」


 美優は少し考え――――力なく首をふった。

 花織は哀れみを覚える。

 病気とはいえ、まだ二十歳にもなっていない娘が、こんな絶望的なまなざしと表情をしているなんて。

 パジャマ姿の美優にコートを羽織らせ、ふらつく彼女に手を貸して玄関を出る。

 鍵をかけた後、美優からそのカギをとりあげて、ドアのポストの中に落とした。


「足元に気をつけて」


 花織は美優を支えてエレベーターに向かう。美優は血の気の失せた顔で、それでもしっかり花織の袖をにぎった。

 マンションを出て、タクシーを拾う。時間が惜しかったが、近隣の病院だと裕貴と顔見知りの可能性もある。花織のかかりつけの病院まで運んでもらい、そこで美優を医者に診せた。


「衰弱がひどい。きちんと食べていますか? 無理なダイエットなどしていませんか?」


 美優を診察した医者は花織に訊ねてきた。花織は声をひそめて医者に頼む。


「実は、彼女は既婚者で、夫のDVで、きちんと食べさせてもらっていない可能性があるんです。お手数ですが、他にも異常がないか調べて診断書を出していただけませんか?」


 医者も表情をひきしめ、「わかりました」と重々しくうなずく。

 幸い、熱は過労からくる風邪で「薬を飲んで安静にしていれば治ります」とのことだった。

 花織はふたたび美優をタクシーに乗せ、自分のワンルームに運び込む。

 客用の布団を敷き、そこに美優を寝かせて薬を飲ませた。

 そこへスマホの着信音が鳴る。

 熱でぼんやりしていた美優が、びくり、と反応し、恐怖の表情になった。

 画面をのぞくと、着信したメールの文面が表示されている。


『今どこ?』


 裕貴からだった。


「熱があるのに、家で休む以外の選択肢があるわけないでしょ?」


 花織は呆れたが、美優は苦しげに、それでも返信しようと画面を操作する。


「すぐに返事しないと…………裕貴が帰ってから、怒られるから…………」


 訊けば裕貴は、外出時は約一時間おきに美優に確認の連絡をしてくると言う。


「完全にDVじゃない」


 花織は苛立ちつつも、「『家にいる』って返答して」と美優に指示した。

 可能な限り、美優の不在の露見を引き延ばしたい。

 すると、さらに返信があった。


『今、母さん達から連絡があった』『今日、夕食を食べに来るってさ』『用意頼む』


「はあ!?」


 花織は目を疑った。


「病人って、わかっているんでしょ!? 『夕食を用意しとけ』って、なに考えてるのよ!? 訪問自体を断るべきでしょ!!」


『頼む』のあとについた能天気な笑顔のマークが、ぶっとばしてやりたいほど憎らしい。

 たまらず、花織は美優からスマホを奪いとり、文面を打ち込んだ。


『熱が高くて無理』『今日は遠慮してほしいの』


 送信すると、美優が凍りつく。

 即座に反応があった。


『は!?』『せっかく母さん達が来てくれるんだぞ!?』『もてなすのが妻の役目だろ!!』


 花織はさらに打ち返す。


『本当に体が苦しいの』『病院に行きたい』


 立てつづけに返信が来た。


『大げさだ』『熱なんて少し横になれば治る』『若いんだから』『苦しい苦しいと思うから、苦しくなるんだ』『思いきって体を動かせばすっきりするよ』


 花織は自分が見ている文面が信じられなかった。


「四十度の熱が、ちょっと休んだだけで下がるわけないでしょうが…………! 病院にも行かせないで、なに考えているのよ、あのバカ…………!!」


 今すぐ電話をかけて怒鳴りつけたい。が、恐怖の混じった瞳で花織と画面を見比べる美優の顔が視界に入り、花織は怒りを押し殺した。

 今はとにかく、事態がばれてはならない。


『わかった』『少し休んだら用意するね』


 すると裕貴から返信が来た。


『それでこそ俺の妻だ』


 笑顔のスタンプ。


『母さん達は俺が学校の帰りに迎えに行く』『お前は掃除と夕食を頼む』『母さんはいつものメニューで』『父さんの酒も買っといてくれ』『美優は料理が下手だから、ちょっと心配だよ』『前回も母さんに怒られたし』『今日こそ挽回してくれよ?』『今日のおもてなしがうまくいったら、夜はたっぷり愛してやるからな』


 文章の最後に添えられたハートマークと『いいね!』のスタンプを見た時、花織は全身に鳥肌が立った。他人の物でなければ、スマホを床に叩きつけていただろう。


「信じられない…………どうしようもないクズじゃないのよ…………!!」


 花織はスマホをにぎりしめ、毒づいた。


「あの…………どうしたら…………」


「あなたは寝てなさい。とにかく、体を治さないと」


「裕貴が、ここに来たら…………」


「来ないわよ。自分の妻が、まさか元カノの所にいるなんて、誰も思いつかないわよ。裕貴と別れたあと、引っ越しして住所も教えていないし。安心して休みなさい」


 嘘だった。引っ越しなんてしていないし、付き合っていた頃、裕貴は何度かこのワンルームに来たことがある。

 だがそれを正直に告げて、美優を不安がらせる必要はない。

 美優はほっとした様子で布団の中に入った。

 薬が効いたのだろう、あっという間に深い眠りにつく。

 花織はそれを確認すると、そっとその場を離れた。

 鍵とチェーンをかけた玄関で、美優のスマホを操作する。

 スマホはむろん、ロックが設定されていたが、先ほど返信のために美優がロックを解除してから、ずっとこっそり画面に触れつづけて、オフになるのを防いでいた。

 花織は美優のスマホのアドレス帳を開いて、ある連絡先をさがす。

 それが終わると、メール履歴をチェックしはじめた。

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