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ちょっと気持ち悪い描写があるかもしれません。

「美優、行くぞ」


 聞き覚えある声を耳がとらえ、ドラッグストアで商品を手にとっていた花織はふりかえった。

 二年ぶりに聞く、たった今まで忘れていた声。

 三十すぎと思しき男が、灰色のパーカー姿の若い女をうながしている。

 女は小さなハンドクリームを一つ持ち、わざとらしい甘ったれた声で男にねだっていた。


「ねぇ裕貴ぃ、これ買ってぇ」


「あぁ?」と大久保裕貴は眉間にしわを寄せる。


「ハンドクリームなんて、もう持ってるだろ? いくつ買えば気が済むんだ」


「前のが、もう終わっちゃったのぉ。買ってよぉ。裕貴だって、手をつなぐ時、美優の手がガサガサしていたら嫌でしょ? 美優も裕貴に『手が汚い女』って思われたくないもん」


「しょうがねぇなぁ」と裕貴の顔がにやにやと崩れる。


「美優はほんと、金のかかる女だなぁ。こんな金食い虫、養ってやれるのはオレくらいだぜ?」


「やったぁ、裕貴、愛している」


 裕貴はハンドクリームを持った妹尾美優の腰を抱き、二人はハリウッド映画の恋人同士のようにぴっとりと密着しながら、レジへ向かう。

 花織を含めた居合わせた全員が(はいはい、ごちそうさま)という表情をしていた。

 嫉妬はないが、関わりたくもない。花織は絆創膏の箱を手に、少し離れた位置で裕貴達の会計が済むのを待っていたが、事情を知らない同行者が声をかけてきてしまう。


「並ばないのか? 藤原さん」


近江(おうみ)さんっ、いや、その…………」


「藤原?」


 同行者、近江(かなで)のよく通る声はレジ前まで届き、会計中の裕貴がこちらに気づいてしまう。


「…………花織? うわ、マジで花織か、久しぶり! 何年ぶりだ?」


 裕貴はレジを美優に任せて、花織のもとにやってくる。

 花織は店を飛び出したかった。


「偶然だな。今なにしてんだ? 仕事は相変わらず…………」


「知り合いか?」


 なれなれしく話しかけてくる裕貴をさえぎるように、近江が花織に訊ねる。

 裕貴はそこで初めて近江の存在に気づいたようだ。「なにアンタ?」という顔つきで近江を見る。


「まあ…………昔の知り合いです」


「おいおい『知り合い』って。冷たいな、元彼だろ?」


 言葉を濁した花織に、裕貴は近江にマウントをとるような顔つきでしゃべり出す。


「ここで会えるとは思わなかったよ、花織。まだ、あのアパートに住んでんのか? 久しぶりに飯でも、どうだ? 連絡先を…………」


「妻帯者が何を言っているの?」


 花織は口論する意欲すらわかず、最短ルートで会話を拒絶する決定を下す。


「三十歳のいい年齢(とし)した教師の立場で、運命だの純愛だの言って、十七歳の教え子に高校を辞めさせてまで結婚したのは自分でしょ。妻を大事にしなさいよ」


 手厳しい口調で言い捨てると、相手の返事を待たずにレジに向かい、商品をレジに置く。

 裕貴はなにか言いたげだったが、周囲の視線を意識したのだろうか。会計が済んで待っていた美優の肩をこれ見よがしに抱き寄せ、店中に聞かせるかのように声をはりあげた。


「元気で良かったよ、花織。二年前、三十一のお前を捨てて傷つけたのは悪かったと、今でも思っている。けどオレが愛しているのは、やっぱり美優なんだ。お前にもいい男が現れることを祈ってるよ。じゃあな、オレ達、このあと結婚記念日のディナーなんだ」


 美優の腰に手を回し、勝ち誇るような表情で裕貴は店を出て行った。

 会計に気をとられていた花織は一時、裕貴の言葉を理解し損ねる。

「藤原さん?」と近江に呼びかけられて、我に返った。

 嵐のごとき悔しさに襲われる。


(なによ、あの勝者の笑み!! なんでこちらが、捨てられて憐れまれる立場になっているのよ! あんたに祈ってもらう義理なんてないわよ、結婚記念日のディナー? それがなに!? 羨ましがるとでも!? ああっ腹立たしい! なにか言いかえしてやれば良かった!!)


「あああ」と身をよじって苦悶する花織に、「大丈夫か?」と近江が声をかけてくる。

 彼はたいていの場面で淡々と平静を維持していた。


「すみません、お見苦しいところを…………」


 花織は気をとりなおし、そそくさと会計を済ませた絆創膏の箱をバッグにしまう。


「それはかまわないが…………今のが、例の『高校生に手を出して別れた元婚約者』か?」


「もう、一時でも婚約していた事実すら忘れたいですけれどね…………」


 短期間でも、あんな男との結婚を考えていたことは、花織の人生の汚点だ。

 二年前に迷わず捨てた男だが、今日、再会して、判断の正しさをあらためて実感した。


(結婚しなくて正解だった、あんな男…………!)


「お待たせして、すみません。じゃ、近江さんお勧めのバイク店に行きましょうか」


 ドラッグストアを出て、うながした花織だったが、近江は動こうとしない。


「どうかしましたか?」


「いや…………」


 近江は考え込む表上で、裕貴達が去った方向を見ていた。






 その半月後。花織は知人の男性に誘われ、大久保家のホームパーティーに出席していた。


「いやー、藤原さんと大久保先輩が知り合いだったなんて、奇遇だなぁ」


 赤ら顔で笑う知人の白々しいこと。


「まあ、今日は無礼講ってことで、楽しくやってくれよ」


 裕貴も鷹揚な態度で花織にワインを勧めてくる。

 花織はオレンジジュースを飲みながら、はらわたが煮えくり返る思いを堪えていた。

 おかしいと思ったのだ。知人は本当に『()っているだけの()』で、親しいと言えるほどの間柄ではなく、ましてやその先輩など、赤の他人だ。当たり前のように参加を断る花織に「絶対に藤原さんも楽しいから!」「気前のいい人でさ、よくホームパーティーを開いて、金のない俺達にごちそうしてくれるんだ!」と、しつこく食い下がり、根負けした花織が「形だけ」という条件で出席を承知したのである。

 玄関ドアが開かれて裕貴が顔を出した瞬間、花織は『まわれ右』しそうになった。


「藤原さん、そんな仏頂面しないで。せっかくの酒だし、飲みましょ?」


 花織を誘った知人が、にやにやしながらグラスを差し出してくる。

 はじめから知っていて、あんなに強引に花織を誘ったのだ。

 野次馬根性丸出しのその顔を、許されるならビンタしてやりたかった。

 他の客の手前、騒ぎを起こす気にはなれず、花織はジュースのグラスに静かに口をつける。が、こうなると手土産に持参した有名店のお菓子セットすら惜しく思えてくる。


(早く帰りたい)


 乾杯して五分で痛烈に思った。

『先輩宅のホームパーティー』は実質、『男の飲み会』だった。花織をのぞいた六人の招待客は全員男、花織の知らない裕貴の後輩達で、『後輩』達は遠慮なく『先輩』の家で呑み、食べ、騒ぐ。

 先輩の裕貴も大笑いしながら、どんどんアルコールを流し込んでいき、三十分も経つと、酔っていないのは女性だけとなった。

 冷静にテーブルの上とリビング内、そしてキッチンへ視線をむける花織に、真っ赤になった裕貴が呂律の回らない様子でワインの瓶を突き出してくる。


「全然、飲んでないじゃないかぁ、花織ぃ。少しは呑めよぉ」


「けっこうよ。帰りはバイクなので」


 花織はミネラルウォーターに口をつけながら、冷ややかに辞退する。


「バイクぅ? お前、まだあんな物に乗ってるのかぁ?」


 裕貴は顔をしかめたが、花織は無視する。

『バイクなんて、可愛い女が乗る物じゃない』と裕貴に反対されたのは、付き合っていた頃だ。赤の他人になった今まで、あれこれ言われる筋合いはない。

 肩を抱こうとしてきた裕貴の手を花織が払った時、嫌な音が――――誰かが呻いて、ついで「うわっ、汚ぇ!」と別の誰かが叫んだ。

 酔った後輩の一人が盛大に嘔吐してフローリングを汚したのだ。

 その有様に全員が顔をゆがめ、一気に酔いが覚める。


「あーあ。大丈夫かぁ、田島ぁ」


「すんません、先輩…………」


 裕貴の言葉に後輩が頭をさげる。

「おーい、美優」と裕貴はキッチンにいる妻を呼んだ。

 頭のうしろで無造作に髪を一つにしばった美優がリビングにやってきて、即座に室内の酸っぱい匂いと惨状に顔をゆがめる。


「美優、あとを頼む」


 言われて、美優は泣きそうな顔になる。花織は聞き咎めた。


「あとを頼むって、どういう意味? あなたは手伝わないの? 裕貴」


「田島がこれじゃ、もう飲むのは無理だろ? 送って来る。お前達も支度しろよ」


「ちょっと田島さん? 自分の不始末なんだから、自分で後片付けを…………」


「いいよ。今日は客なんだ、こっちが始末するって」


 裕貴は鷹揚に後輩達をうながし、後輩達も次々に荷物と上着を持って玄関に向かう。


「お前も来いよ、花織。家まで送る」


「けっこうよ。バイクで来てるって、言ったでしょ」


 花織は、背に触れようとする裕貴の手を払って荷物を持つと、「待てよ、もう少し…………」と引き止める声を無視して玄関を出た。

「じゃ、夕食までには帰るから」と妻に言い残す裕貴の声を背に、さっさとエレベーターに向かい、一人で乗って一人でエントランスを出る。

 裕貴達がエントランスを出た時、花織はもう角を曲がって姿を隠していた。

 裕貴はしばし周囲を見渡したが、花織がいないとわかると、あきらめてタクシーを呼び止め、二台に別れて後輩達と乗り込む。

 タクシーが去っていくのを見送った花織は、しばし迷った。

 自分が関わる筋の話ではない。しかし。

(一回だけ)と自らに条件を課すと、花織はマンションにひきかえした。






 チャイムを鳴らす。

 出ないかもしれない、と思ったが、すぐに『はい』と応答があった。


「藤原です。忘れ物をしたの。開けてもらえる? 裕貴はいないわ」


『…………』


 しばしの戸惑いが伝わったあと、そっと玄関ドアが開いた。


「…………なんですか、忘れ物って」


 細くドアを開け、その隙間から美優は疑いのまなざしで訊ねてくる。

 花織はドアに手をかけて大きく開き、美優が意表を突かれている隙にその脇をすり抜け、靴を脱いで部屋にあがった。


「ちょっと! なに勝手に…………!」


 背後から美優が追ってくる。

 無視して大股でリビングに向かうと、リビングは散々な有様だった。

 二十を超えるワインの瓶やビール缶が転がり、テーブルも床も濡らして、八人分の料理は文字どおり『食い散らかされて』いる。とどめは先ほどの嘔吐だ。脇に、美優が用意したであろう新聞紙や雑巾が積みあげられていた。


「手伝うわ。一人じゃ大変でしょ」


 花織はバッグを置き、上着も脱ごうとする。

 美優は驚いたようだが、きっ! とにらみつけてきた。


「要らない! 帰って!」


「この量を一人で片づけるのは大変よ。裕貴は出て行ったし。少し手伝うわ」


「要らないったら!! 帰って!! ほっといて!!」


 美優は泣きそうな表情で叫ぶ。

 花織は憐れみを覚えた。


「一人じゃ大変よ。いくら客でも、あれはひどすぎるし。裕貴も自分の客の不始末なのに、手伝いもしないなんて最低だわ」


「裕貴を悪く言わないで! いいから、ほっといてよ! あたし一人でやらないと、あたしが裕貴に怒られるんだから!!」


「裕貴に怒られる?」


 美優が「はっ」と我に返った。青ざめて口を押さえる。

 花織はたたみかけた。


「裕貴に怒られるの? こんなひどい有様なのに、それでも、あなた一人で片付けないといけないの? どうして裕貴は手伝わないの?」


「だって…………それが、妻の役目だし…………」


「妻だからって、どうして全部、一人でしなければいけないの? あなたは掃除が好きなの? 他人が吐いた跡を片付けるのが好きなの?」


「そんなわけない…………!」


「だったら、裕貴に手伝わせればいい。今日の客は全員、裕貴の後輩でしょ? 裕貴が呼んだ客が汚したんだから、客に掃除させないなら、招待主の裕貴が掃除するのが当然でしょ。どうして、あなたが一人で後始末をさせられるのよ。夫婦は支え合うものよ。妻に嫌な仕事を一方的に押しつけるのは、夫でも許されることじゃないわ」


 美優は驚いたように花織を見た。明らかに狼狽し、あとずさる。


「だって…………あたしは働いてない穀潰しで、裕貴に養われている金食い虫だから…………」


「裕貴が言ったの? あなたのことを『穀潰し』だって」


 美優はうなだれる。


「家事は、あなたがやっているんでしょ?」


 こくり、と美優は小さくうなずく。


「全部?」


 再度、うなずく。


「掃除も洗濯も料理も、全部あなたにやってもらっているのに、裕貴はあなたを金食い虫だって言ったの? あなたに食事を作ってもらっているのに? 今日のパーティーの料理だって、あなたが全部、用意したんでしょ? 裕貴は料理のできる男じゃなかったもの。それで『穀潰し』っておかしくない? あなたはちゃんと、養われている対価を払っているじゃない」


「でも…………裕貴がそう言ったんだもの…………」


 弱々しく美優は呟く。

 花織は自分の――――いや、半月前の近江奏の推測が的中したことを確信した。

 花織は断言した。


「それはモラハラよ。あなたは裕貴に、DVをされているのよ」


 美優は目をみはって立ちすくんだ。

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