続3・前篇
『ある婚約破棄のその後』の誠也視点の続編です。
『ある婚約破棄のその後』に目を通してから読むことをお勧めします。
『時間を戻せる魔法の砂時計だってさ。三回、使えるんだって』
金色の小さなペンダントをつまみながら、セフレだった女はそう言った。
「ちくしょう…………どうしてこんなことに…………っ」
相沢誠也は歯ぎしりした。声には恨みと憎しみ、そして不安と恐怖がにじんでいる。
留置所だ。誠也は学生時代からの女友達――――より正確にはセフレ――――の外岡環を殺した容疑でここに入れられている。
昨日までは大企業の社長令嬢と婚約したエリート社員として、誰からも羨望の目で見られていた自分が、今日は『殺人者』として留置場に入れられている。その落差に、誰よりも戸惑い恐怖を抱いているのは、誠也自身だった。
(あれは罪じゃない! 環が勝手に転んだだけだ! ただの偶然だ! それなのに…………! そもそも悪いのはあっちだろうが! 環が先に俺を脅迫してきたんだぞ!?)
三年前。環が同棲中の恋人と別れる前後から、誠也は環と定期的にホテルに行くようになった。並行して、誠也は別の女友達、飯島希美とも交際をはじめた。環とはあくまで体のみの関係で、彼女と結婚する気など微塵もなかった。
一年前。誠也は希美にプロポーズし、直後に大きなプロジェクトを抱えて希美に会えない期間がつづく。すると誠也の能力を認めた社長から令嬢との縁談を持ちかけられ、令嬢との結婚を前提とした交際がスタートした。これが半年前だ。
数週間前、誠也は令嬢にプロポーズし、社長の許しと援助も得て挙式準備がはじまり、令嬢との同棲もはじめて、希美ともひそかに別れることに成功し「人生の勝ち組コースに乗った!」と確信した、その矢先。
環に足を引っ張られた。
セフレとしか思っていなかった女、あちらも遊びと割りきっていたはずの環は、令嬢との結婚を知った途端、「希美との関係を社長と令嬢に暴露されたくなければ、五百万円払え」と言ってきたのだ。
環は「希美から預かった」と言って、誠也が希美に渡したプレゼントや指輪、二人きりで旅行した時の写真を手に入れていた。
『一年も前に希美にプロポーズして、指輪まで渡していたくせに、半年前から平然と社長令嬢と付き合って、結婚まで決めるなんて。ホント、アンタもクズよねえ。令嬢やお義父様の社長が知ったら、なんていうかなあ~?』
電話だったが、誠也はニタニタ笑う環の顔が見えた気がした。
けっきょく誠也は五百万円を払った。
プレゼント類はどうでもいい。名前でも入っていなければ、誰が誰に送ったかなど立証できまい。ただ、二十枚以上の旅行の写真。こちらを放置するわけにはいかなかった。
誠也は呼び出されたレストランで環に要求された金額を支払い、プレゼント類を入れた紙袋を受けとったのだが、その中に肝心の写真は入ってなかった。強欲な環は「なにかあった時の保険に」と、渡さなかったのだ。
誠也は激高した。五百万円も払わせておいて肝心な品物は「渡さない」では筋が通らない。それに環の性格を考えれば、写真を残せば今後も脅迫してくることは間違いない。
誠也は激しい怒りと焦りに押されて、レストランを出て帰ろうとする環の肩をつかみ、ピンヒールをはいていた環はバランスを崩して階段を転げ落ちて頭を打ち、動かなくなったのだ。
その最悪のタイミングで通りすがった人間に悲鳴をあげられ、気づけば誠也は警官から事情聴取をうけていたのである…………。
「あれは俺のせいじゃない…………俺のせいじゃない…………約束どおり写真を持ってこなかった、環が悪いんだ! あんなハイヒールをはいていた環が、勝手に転んだ環が…………!!」
がじがじと爪を噛んでいるとチャラ、と、かすかな音が聞こえた。
胸ポケットをさぐると、金色のチェーンと小さな砂時計が出てくる。
先月、環が誠也のマンションに来た時、誠也の寝室に忘れて行ったペンダントだった。
五百万を渡すついでに返すつもりでポケットに入れ、そのまま忘れていたのだ。
――――時間を戻せる魔法の砂時計だってさ。三回、使えるんだって――――
ペンダントをぶらぶらさせながら、環が口にしていた台詞を思い出す。
「はっ…………!」
誠也は吐き捨てた。
(なにが魔法だ、なにが時間を巻き戻せる、だ。それが事実なら、今この場で即刻、時間を巻き戻してみせろ。俺がこんな所に入れられる前、環が事故で死んでしまう前――――いや、もっとずっと前、巻き戻せるだけ巻き戻してみろ!!)
誠也は小さな砂時計を壊れんばかりに、にぎりしめる。
(俺はこんな所にいる人間じゃない、俺は環を殺していない、俺は無実だ! 全部、あの強欲で悪辣な女の自業自得、環のせいだ!! 戻せるもんなら戻してみろ――――!!)
誠也は心から望み、祈った。
ふと、意識が途切れる。
目を覚ました。誠也は自分の部屋にいた。カーテンが閉めきられている。誠也は寝ぼけ眼のまま、体に染みついた習慣でスマホをさがし、時間を確認した。
「九時…………うたた寝していたのか…………?」
起きようとして――――気づいた。
「…………なんで家に?」
寝る前は、たしかに留置所にいた。あの冷えた空気、かたく冷たい床の感触、たしかに覚えている。
「釈放されたのか…………? にしては…………」
留置所から家まで移動した覚えがまったくない。
誠也は不審と不安を露わに、室内を見渡し――――気づいた。
リビングのテーブルの上に無造作に放置された経済紙。
その日付と年数。
それはたしかに二年前の年数だった。
「今度こそ、うまくやるぞ…………!」
誠也は文字どおり踊り出したいほどの興奮と幸福感をかみしめ、万感の一言をもらした。
話は本当だった。誠也は間違いなく、二年前に戻っていた。
新聞はもちろん、テレビのニュース、スマホのカレンダー機能と、考えつくすべてのもので年数し、最後に意を決してある番号に電話をかける。すると。
『もしもし? 急にどうしたの、誠也』
聞こえる声は間違いなく、死んだ外岡環のもの。
誠也は「悪い、かけ間違えた」とごまかして通話を切り――――歓喜の声をあげた。
時間が巻き戻った。
自分は二年前に戻り、環の死も冤罪も、すべてなかったことになったのだ。
「地獄で仏」どころではない。まさに「地獄から天国へ」の気分だった。
「これが夢なら永遠に覚めるな」と、誠也はリビングのテーブルに年数と日付と曜日がセットで表示される電子時計を置き、冷蔵庫から缶ビールをあるだけ持って来て栓を開ける。
「今までの人生で、これ以上にうまいビールはない!!」
そう口に出すほど、うまいビールだった。
普段は節制を心がけている誠也だが、この夜は手と心の進むまま、アルコールを存分に堪能してリビングで寝入ってしまう。
翌朝。二日酔いの頭痛に悩まされながらも、自分がやるべき道筋は見えていた。
「とにかく、あの未来は絶対に避けるぞ!」
社長令嬢との結婚を目前にしての、ろくでもない女からの脅迫。そして、その女を殺した罪での逮捕である。
誠也は数日かけて記憶をさらい、念入りに策を練って実行に移した。
まず、飯島希美に別れ話を切り出した。
希美との交際がはじまったのは、誠也が時間を巻き戻した時点からは約三年前。巻き戻せた時間は二年間。つまり今は、希美と付き合って約一年。
二年後に環に脅迫された原因が、希美と社長令嬢と同時に付き合った二股である以上、希美との別れは必須であり最優先だった。
誠也はいつものカフェに希美を呼び出し、彼女からもらったプレゼントもすべて返す。
「ごめん。希美は好きだけど…………やっぱり結婚相手って感じじゃないんだ」
「そんな、どうして急に…………」
渋る希美に誠也はできるだけ優しい口調で、それでいて考える猶予を与えぬよう、言葉でたたみかける。
「希美との付き合いは楽しかった。友人としてなら、これからも付き合っていきたいと思う。けど…………この前、会った時『二十九までに結婚したい』って言っただろ? あれを聞いて俺も考えたんだ。俺達は今、二十七だ。あと二年しかないのに、希美にとって大事なこの時期に、結婚する気がないのに付き合いつづけるのは、不誠実だと思う。希美のためを思うなら、一日でも早く別れるべきだと思うんだ」
「それは…………」
「俺は希美の願いを叶えてやれない。だから、これは返す。一年間ありがとう。楽しかった」
希美はなおも渋ったが、けっきょく別れを承知した。「二十九歳までに結婚したい」というのは彼女の本心であり、そこを突かれたのが大きかったようだ。
「誠也からもらったプレゼントも、今週中にそっちに送るから…………」
希美はそう約束して、誠也が持参してきたプレゼントを引きとった。
誠也は苦労して苦しげな表情を保ち、カフェを出て希美と反対の方向に歩いて角を曲がると、大きく息を吐き出す。そして安堵のため息をついた。
(やった! これで未来は大きく変わったはずだ!!)
もとの人生では、二年後に環が誠也を強請る証拠となったのは、希美との旅行の写真だった。しかし旅行の一年も前に希美との別れが成立した今、あの北海道旅行の未来は消えた。脅迫の材料となった、あの写真も存在しなくなるのだ。
それはすなわち、環に脅迫される未来もなくなったという意味だった。
誠也は一気に心がかるくなった。
恐ろしくも忌まわしい未来を、自分の手で変えた手応えがある。
明るい未来を確信しながら、誠也は電車に乗り込んだ。
問題は環だった。一回目の人生を考えれば、希美とは別の意味で、環との別れは緊急かつ絶対の条件だ。あんな強欲で悪質な女、関わるだけで害にしかならない。
しかし単純に「もう会わない」と言い出して、環が納得するとも思えない。
そこで誠也は策を弄した。
環の目的は金と結婚。大金を引き出せる夫候補として、誠也に目をつけたのだ。
ならば、誠也よりもっと高収入の男が現れれば。
誠也は培った人脈を駆使して『異業種交流会』と称した『合コン』を設定し、「人数が足りない」と、環を呼び出した。環は疑いもせず、二つ返事でやってくる。
誠也は環に、同僚や、仕事で知り合った男達を次々紹介していった。みな若くて、誠也と同じかそれ以上に有能で、将来性のある人材ばかりだ。むろん、相応に年収も高い。
環は目を輝かせて彼らに『突撃』した。次々と連絡先をもらうことに成功して、ほくほく笑っている。その環の反応を確認して、誠也もほくそ笑んだ。
合コンを設定しても、環がめぼしい男を捕まえられなければ目的は果たせない。なので、誠也は抜かりなく根回ししていた。
環が目をつけるであろう男達に「あの女はちょっと金の匂いをちらつかせれば、すぐにやれる女だ」と、ささやいていたのだ。
誠也のもくろみは成功した。環が男達から次々連絡先をもらえたのは、つまりそういうことなのだ。
誠也にしてみれば、環が彼らに夢中になれば誠也への興味を失うばかりか、誠也のライバルである彼らを引っかき回してくれる可能性もある。強欲でプライドの高い女だ。自分が使い捨ての遊び相手にされたと知って、黙っているはずがない。それは誠也が一度目の人生で身を持って知っている。
環が彼らに怒り、なにかしらの妨害を仕掛けるようになれば、誠也にプラスに働くこともあるだろう。
誠也の狙いどおり、この合コン以降、環からの連絡はぱったり途絶え、誠也は自分が未来を変えたことを確信した。
誠也は仕事に打ち込む。仕事も順調だった。
なにしろ誠也は二年分、時間を巻き戻している。
他の人間は絶対に知らない二年分の知識や情報を、誠也だけは知っているのだ。
誠也はそれをおおいに活用した。自分が担当するプロジェクトで起きる事故や失敗は、すべて先回りして一つ一つ潰していき、さらにライバル達の失態のフォローにまでまわって、同期はむろん、ライバル達とも大きく差をつけた。
好調はつづき、ある重要なプロジェクトを成功に導いた立役者となった誠也は、社長に呼び出され、何度か食事に付き合わされたあと、「儂の娘に会ってみないかね」と言われた。
「ぜひ」と、とっさに答えた誠也だが、内心では驚き、戸惑っている。
失敗した一度目の人生で、誠也はたしかに社長令嬢と挙式寸前までいった。
しかしそれは、時間を巻き戻す直前のこと。
社長令嬢との出会いは、時間を巻き戻す半年前。
今は、巻き戻した二年分のうち、半年を過ぎたばかり。
つまり令嬢との出会いは、前回の人生とくらべて一年も早い。
(これは…………吉か? 凶か?)
誠也は迷う。
一度目の人生より仕事の成果を出して評価をあげた分、社長の目にとまりやすくなったのだろう。その理屈はわかるが、この展開は明らかなイレギュラーだ。
はたして、このまま進んでよいのか。前回と異なる展開である以上、前回と異なる展開が待っている可能性は高い。
けっきょく、誠也は令嬢との見合いを受け容れた。
そもそもイレギュラーというなら、この時期にすでに希美や環との関係を清算していること、仕事で前回以上に評価を上げている現実自体がイレギュラーなのである。いまさら迷ってもしかたあるまい。
それにイレギュラーといっても、縁談自体は前回でもあったことだ。
むしろ異なる人生を歩んでいるはずなのに、ふたたび令嬢との縁談が持ち込まれたのは、それだけ自分達の縁が深い証かもしれない。誠也はあまり信じないが、あえて表現するなら『運命の相手』ということだ。
そう解釈し、誠也はホテルのロビーで、社長令嬢との二度目の出会いをはたした。
令嬢――二十三歳の村瀬瑠美子は相変わらず清楚で淑やかな美人で、前回の誠也はその控えめな態度も気に入って、結婚を申し込んだのだ。
父親である社長の猛プッシュもあり、縁談はとんとん拍子にまとまっていく。
「なんだか、急すぎて怖いです。結婚は、もう少し時間をかけるべきでは…………」
時折、将来の妻は不安を口にしたが、誠也は「結婚はまとまる時は早いものだよ。大丈夫だよ」と押しきり、社長も「ナーバスになっているんだろう」と聞き流す。
見合いから半年と少し。高級ホテルで、誠也と瑠美子の結婚式が挙げられた。
(まあ、前回も出会って半年で、挙式の準備がはじまったんだし)
誠也はそうふりかえって、今回のとんとん拍子にも疑問を持たない。
希美や環とは、瑠美子との出会いより半年も前に別れているし、念のため二人には招待状も送っていない。見合い以降も誠也は仕事で結果を出しつづけ、前回以上に評価も上がっている。
すべてが誠也にとってこれ以上ないほどうまく回っていた。
誠也は自信に裏打ちされた足どりで、ホテルのチャペルに花嫁と並んで立ち、「誓います」と神父の前で宣言する。
(ようやくここまできた)
そう、万感の思いが込みあげた時。
「瑠美子!!」
チャペルの扉が勢いよく開かれ、花嫁を呼ぶ声が響き渡り、厳かな雰囲気が破られた。
招待客も神父も誠也も瑠美子も、いっせいに扉をふりかえる。
立っていたのは、ラフな格好の若者だった。
「行かないでくれ、瑠美子! オレはやっぱり瑠美子が好きだ! 君を愛してる!! オレには瑠美子が必要なんだ!!」
「真志…………っ」
「つまみ出せ!!」
花嫁の父が叫んで、チャペルの隅で進行を見守っていたプランナーやホテル従業員が『真志』と花嫁に呼ばれた若者に駆け寄る。
「瑠美子のお父さん! どうかオレの話を…………」
「黙れ!! 貴様に『父』と呼ばれる覚えはない! 貴様のような学生に娘はやれんと言ったはずだ!!」
社長は大きく腕をふって若者の言葉を遮る。若者は男の従業員に囲まれる。
あ然とする誠也の隣で花嫁は数十秒間、苦悩の表情を浮かべたが、ドレスの裾を引きずって走り出す。
「お父さん、ごめんなさい! 私、やっぱり結婚できない! 私が愛しているのは真志なの!!」
「はあ!?」
驚く花婿を置いて、瑠美子はウェディングドレスのまま恋人に駆け寄り、真志もしっかりと花嫁を抱きしめる。
乱入してきた男と花嫁は見つめ合い、手と手をとりあうと、そのまま開け放たれた扉からチャペルの外へと飛び出した。
「瑠美子!!」
社長の声は招待客の驚愕と歓声にかき消され、誠也は呆然と祭壇前にとり残される。
それからあとは散々だった。
誠也は「結婚式で花嫁を他の男に奪われ、逃げられた男」として社内中の噂の的となり、経緯は出席していた友人達の口から招待しなかった友人達の間へもひろがる。
花嫁は数時間後に捕まったが、もはや「心の無い結婚はしない」と頑としてゆずらず、真志とかいう若造は「瑠美子との結婚を認めてください」と社長に土下座をくりかえして、社長はかんかんに怒っていたものの、最終的には娘の意思の固さの前に折れた。
けっきょく誠也と瑠美子は離婚となり、瑠美子は真志と共に誠也の前で「本当にごめんなさい。誠也さんには本当にご迷惑をおかけしたと思っています」と土下座したが、それはしょせんパフォーマンスにすぎない。瑠美子と真志が土下座したところで、せいぜい誠也の溜飲がさがる程度の効果しかなく、広がってしまった噂を消すにはほど遠いのだ。
当事者が勢ぞろいして話し合いに臨んだ社長宅の広いリビングで、誠也はずっと怒りがおさまらなかったが、最終的にはその怒りをおさめることにした。いや、おさめた『ふり』をすることを選んだ。
何故なら、離婚に対してそれなりの代償を提示されたからだ。
お嬢様育ちで結婚までの『腰かけ』として働いていただけの瑠美子に、多額の慰謝料は払えない。そこで父親である社長が、娘の不始末の肩代わりを約束したのだ。
誠也と瑠美子は挙式前にすでに婚姻届を出していたため、瑠美子が真志と結婚するなら、まず誠也との離婚が必須となる。離婚といっても結婚期間は一週間にも満たないため、要求できる金額は少ないが、婚約破棄よりは金額が大きくなる。
社長は式場や二次会のキャンセル料はむろん、本来、娘が払うべき慰謝料もすべて払った。法的には『いきすぎ』の高額を誠也に提示し、娘の幸せのため、誠也が真志に要求した、真志が払うべき慰謝料まで「自分が払う」と言い出したのである。
「お父さん…………!」
「瑠美子のお父さん…………」
娘も娘の恋人も感激の瞳で社長を見つめたが、誠也は瑠美子に対して一気に冷めた。
(慰謝料も払えない小娘と若造が、父親に肩代わりさせておいて、なに美談にまとめてるんだ)
醜聞にはなったが、この件においては、誠也は社長に大きな貸しを作ったことになる。高額の慰謝料も手に入れ、(当面は我慢するか)と結論を下した誠也は、離婚を渋るふりをして引き出せるだけ引き出すと、離婚届に判を押した。
涙を流して抱き合う瑠美子と真志を無視して、社長の家を出る。
それから一週間は、まあまあ平穏だった。
はじめこそ腫物を扱うように気を遣われた誠也だが、「しかたないさ」と気にしていないそぶりで仕事に没頭していると、周囲も「社長のお嬢さんもひどいですよねぇ~、あたしだったら相沢さんを選ぶのにな~」などと軽口を叩くようになってくる。
(俺にはこの砂時計がある。もっといいチャンスが回ってくるはずだ)
そう信じて仕事をこなしていた、ある金曜日の夜。誠也は望まぬ客を迎えた。
環である。
帰宅したら、マンションの部屋のドアの前に立っていたのだ。おそらく住人と一緒に一階のエントランスを入ってきたのだろう。
誠也は(引っ越しておくんだった)と心底、後悔した。
「もう会わないって言っただろ。帰れ」
「いいじゃない。どうせ花嫁に逃げられて、寂しい夜を過ごしてるんでしょ?」
結婚式には招待しなかったが、出席した別の友人達から聞いたのだろう。環の声には嘲笑がにじんでいる。一方で、誠也にも仮説を立てる余裕があった。
環に合コンで男達を紹介してから、一年と少し。
おそらく本人は有望な男達を複数キープして「ど、れ、に、し、よ、う、か、な~」と選ぶ立場のつもりでいたのに、実ははじめから使い捨ての相手にすぎなかったと知り、怒り心頭に達しているのだろう。
けっきょく誠也は環を部屋に入れた。そうしないとドアの前で暴れそうな勢いだったからだ。
(環の口から、あいつらの情報を聞き出すこともできるかもしれないしな)
そう、己をなだめて鞄を置き、キッチンでコーヒーを淹れはじめる。
「お酒あるでしょ。ビールでもワインでもいいから」
「ない。これを飲んだら帰れ」
「はあ? 久々に会った友達に、冷たくない?」
リビングのソファに勝手に座って文句を言う環の後頭部に、(いっそ息の根を止めてやろうか)という考えが誠也の脳裏をよぎり、慌てて頭を激しくふる。
(それは駄目だ)
それをしたせいで、前の人生でどんな目に遭ったことか。
あの愚行はくりかえせなかった。
誠也が環にコーヒーを差し出すと環は拒み、「お酒あるでしょ」と勝手に冷蔵庫を開けようとする。それを誠也が「やめろ」と環の腕をつかんで止める。
環の目的は明らかだ。要は誠也とヨリを戻したがっている。わかっているからこそ、誠也も酒など飲めない、飲ませられない。飲ませたら、環の思うつぼだ。
ひとしきり「帰れ」「泊めろ」と押し問答がつづき、さすがに環も誠也の本気の拒絶を悟り、冷めもしたのだろう。「なによ! せっかく人が優しくしてあげようと思ったのに!!」と、かりかり怒りながらコートをひっつかむ。
ちょうど上司から誠也のスマホに電話が入り、誠也は環から目を離して、廊下に出る。
環は意趣返しを思いついた。リビングのテーブルに置かれたままの誠也の仕事鞄をあさり、財布を引っぱり出す。中はカード類が多かったが、現金も入っていた。
環は紙幣だけ全部抜きとって、自分のポケットに突っ込む。彼女にしてみれば「せっかくの優しさを無下にした慰謝料」としか思っていない。
財布を閉じようとして、金色の輝きに気がついた。
「これ、あたしのペンダントじゃない」
小さな砂時計のペンダントは、環が気まぐれに入った店で気まぐれに購入し、すぐに失くした品物だった。
「なんで誠也が持ってるのよ。あたしの物なんだから、返してもらうわよ」
言って、小さな砂時計もポケットに突っ込み、誠也の財布を放り出すと、まだ廊下でスマホと話している誠也を無視して玄関を出た。
誠也も、玄関で靴を履く環のうしろ姿を目にしながら、ずっとスマホと話していた。
上司との確認の電話を終え、環も出ていって、誠也は一息つく。が、テーブルに放り出された自分の財布を見て、顔をしかめた。即座に中身を確認すると、五万円弱がなくなっている。
「こういうことをするから、本命になれないんだ! 気づけ!!」
だが誠也はもっと恐ろしい事実に気づいた。
「あいつ…………!!」
砂時計がない。
誠也は玄関を飛び出した。
「環!!」
環はちょうどエレベーターを待っていたところだった。誠也が追いかけてきたのを見て、にやにやとふりかえる。
「なによ、今さら引き止めたって」
「返せ! 俺から盗っただろ!!」
環はむっ、と唇を「へ」の字に曲げた。
「言いがかりね。あたしがあんたの財布からお金を盗ったって、なんの証拠があるわけ?」
「俺は『金を盗った』とは言ってない。ただ『盗っただろ』と言っただけだ。どうして金のことだとわかったんだ?」
環は固まった。こういう考えの浅さ、行動の軽さが環が人に嫌われる原因だが、本人はまったく気づいていない。
誠也は手をつき出した。
「金は持って行っていい。ただ、ペンダントは返せ」
「はあ? なんでペンダントよ。とり返すなら、お金でしょ」
「いいから、ペンダントを返せ。あれは…………人に渡すと約束したんだ。お前が盗んだ五万で買った、ということにしてやる」
「へえ。人に、ねぇ。それって、女? …………まさか、希美じゃないわよね?」
「どうでもいいだろ、なんで希美が出てくる」
疑り深いまなざしで見つめてくる環に、誠也はたたみかけた。
「渡さないなら、窃盗ってことで警察を呼ぶ。お前が盗った五万は財布の中か? 警察に調べさせて、お前の紙幣から俺の指紋が検出されたら、どう弁解するつもりだ?」
環は半歩さがって緊張の面持ちとなる。
「それでなくてもお前、警察とは関わりたくなさそうだもんな。お前が派遣にしてはやたら大金を持っていること、気づいてないとでも思ってるのか? お前、セレブ婚をしたいみたいだが、一度でも警察沙汰になった女に…………」
「ああもう、うるさいわね!!」
環は叫んだ。
「そんなに欲しければ、くれてやるわよ、こんなもの!!」
ポケットから金色のチェーンを引っぱり出す。そして、そのまま手をふりあげた。
誠也のマンションは外廊下。その解放された空へと、砂時計を投げ捨てようとしたのである。
「やめろ!!」
誠也はとっさに環の腕をつかむ。
「放しなさいよ! 放せ、クソ野郎!!」
「砂時計を返せ、この…………!!」
環はペンダントを捨てようと廊下の柵から身を乗り出して腕を突き出し、それをさせまいと誠也が環の腕を捕まえる。争う二人の声が廊下に響く。
もみ合ったのは二、三分。毎週、ジムで鍛えている誠也は砂時計をにぎりしめると、環を思いきり横なぎにふり払った。
(よし、とり返した!)
そう思った時だった。
「あっ…………」
環は間抜けな声を出してバランスを崩した。
そのまま廊下の柵を乗り越え、廊下の外に落ちてしまう。
五階から一階の地面へと。
誠也が捕まえる間もなかった。
悲鳴があがる。
「ひ…………人が! 人が落ちて…………!!」
ふりむけば、同じ階の別の部屋の住人がドアを開け、こちらを恐怖の表情で凝視している。もみ合う声が聞こえて、様子を見に出てきたのだろう。
「待て、これは…………!」
「ひっ! 人殺し!!」
住人はすかさずドアを閉め、鍵をかけてしまった。
このままでは警察を呼ばれるかもしれない。
(また…………あの悪夢をくりかえすのか!?)
誠也は愕然と立ちすくみ、絶望にも似た恐怖を味わう。
「冗談じゃない…………!!」
頭をかきむしり、「ああ、くそっ!!」と手の中の金色の砂時計に祈った。
「巻き戻してくれ…………時間を巻き戻してくれ!! あと二回、巻き戻せるはずだろ!?」
環はこの砂時計について『三回、時間を巻き戻せる』と言っていた。環の様子から察するに、環は本当に時間を巻き戻せることを知らないのだろうだ(知っていたら、もっと早くに絶対にとり返しに来ていたはずだ)。つまり、環は一度もこの砂時計を使っていないはず。
「頼む…………!! あと一時間…………! いや、三日でいい! 巻き戻してくれ!!」
「頼む」と誠也は切実に念じた。
はたして。