1
「これは魔法の砂時計。これに願えば最長二年、時間を巻き戻すことができます」
小物屋の店主は花織が手にとった金色のペンダントを、そう説明した。
「悪いけど、お前との婚約は破棄させてくれ、花織。オレはこの娘と結婚する」
二人の待ち合わせに使う、いつもの小ぢんまりしたカフェで。
向かいに座った婚約者、大久保裕貴は自身の隣に座る少女の手をにぎりながら、恋愛ドラマのイケメン主人公のような顔つきと口調でそう宣言した。
「いやいやいや、待って」
藤原花織は手を挙げて裕貴を制する。
急展開すぎる。悪夢としても性質が悪い。だって。
「本気で言っているの? その娘…………どう見ても高校生よね!? あなた、三十歳でしょ!?」
店内に流れる静かな音楽を一時かき消して、花織の声が響いた。
そもそもの発端は一年前。三十歳になった花織は大学時代の友人に、合コンにちかい飲み会に誘われ、そこで二十九歳の大久保裕貴と出会った。
「ちょっと押しが強いな」と思わされる裕貴はどちらかというと苦手な部類だったが、高校で国語教師をやっているだけあって語彙は豊富で、メールの丁寧な文章にも好感がもてて、勧められた本はどれも面白かった。
気づくと裕貴とのデートは十回を超え、半年前には裕貴の口から「新居はここがいい」「式場はあそこがいい」という話題が出るようになっていた。
「ちょっと早くない?」と戸惑う花織に、裕貴は「オレは来年、三十だし。教師は出会いが全然ないから、花織さえ良ければ、もう結婚を考えてほしいんだ」と、はにかむように答えられ、その笑顔に花織は(まあ、いいか)とOKしてしまった。
そして四カ月前、花織の両親へ裕貴を紹介し、次は裕貴の両親に花織を紹介しようという直後「試験期間に入ったから」と会えない日々がつづき、ようやく「今度の週末に会えないか?」と裕貴から連絡が来たのが、一昨日のこと。
花織が裕貴からプレゼントされたオープンハートのペンダントをつけ、約束より十分早く待ち合わせのカフェに到着すると、裕貴が見知らぬ少女と座って待っていたのである…………。
「お前には悪いと思ってる、花織。けどオレは、オレ達は純粋に愛し合っているんだ。オレが守りたいのはただ一人、美優だけなんだ!!」
まるで少女漫画のヒーローのような台詞を口にして、裕貴は『美優』とやらの肩を抱き寄せる。「恐ろしい魔女から愛する少女を守る」とでも言わんばかりに。
「裕貴…………っ」
美優もうっとりと裕貴にすがりつき、汚らわしいものでも見るように花織をにらんでくる。
花織はめまいがした。
あらためて確認すると、少女は顔立ちはむろん、服装も紺のブレザーに赤のストライプのリボンタイと、どうみても高校生、『未成年』だった。
「信じられない…………」
花織はうめく。
「信じられないとは思う。けど、オレ達は純粋に愛し合っているんだ。もう離れられない。お前にいくら反対されようと――――」
「本当に信じられない! あなた、教師のくせして自分の教え子に手を出したの!? 頭おかしいんじゃない!? 親や同僚にどう説明する気よ! それに、結婚!?」
苦しげに切なげに語る裕貴に、花織は指摘せずにはいられなかった。
「あなた、たしか二年のクラスを担任しているのよね!? 高校の二年って、受験で大事な時期じゃない! そんなデリケートな時期に教え子に手を出すなんて! 教師としても大人としても、無責任にもほどがあるでしょ!?」
「だから、美優への本気の愛の証明として、責任を果たすためにも結婚を…………」
「本気で愛しているなら、まず手を出したら駄目でしょうが、この場合!!」
どん! と花織はテーブルを叩いていた。
耳を澄ませていた別テーブルの客達と店員が、思わず身をふるわせる。
「せめて、卒業まで待つべきでしょ!? 教師なら、本気で想っているなら、どうして相手の人生を潰すような真似をするのよ!!」
「いい加減にして!!」
耐えかねた様子で少女が会話に割り込んでくる。
「先生は、あたしの人生を潰してなんかない!! 先生は一生あたしを守って、幸せにしてくれるって誓ったんだから!! あたし達は本気で愛し合ってるんです、親とか受験は関係ない!! どうせ結婚したら家庭に入るし、あたしは十七だから、もう結婚できるし!! 結婚したら専業主婦になって、毎日、二人の家で先生のためにお弁当を作ってあげたり、ご飯を用意して待っててあげるんです! 先生も、そうしてほしいって言ったし! お金や権力を盾にしたって無駄よ、先生はあたしを選んだんだから!! 自分が捨てられるからって、先生を悪く言わないで、オバサン!!」
妹尾美優は叩きつけるように反論して、胸をはった。ストレートの艶やかな黒髪がさらさらと肩を流れる、可愛らしい少女だ。スタイルもいい。
けれど「先生と結婚して主婦になる」と宣言したその姿は、お世辞にも賢さを感じさせなかった。
「そうだ、オレは美優を守る! 美優は俺の運命なんだ、絶対に苦労はさせない!!」
割り込んだ美優の言葉に励まされ、裕貴もしっかりと美優の肩を抱く。
ここだけ見れば、たしかに『障害から愛する少女を守ろうとするヒーロー』の図だ。
花織は呆れ果てた。もはや頭痛も感じない。
「とにかく、そういうわけで、オレはお前とは結婚…………」
「結婚なんか、するわけないでしょ!! このロリコンっっ!!」
「えっ…………」
「三十歳の教師のくせに教え子に手を出す男なんて、死んでも無理!! 気持ち悪い!! たとえ一生独身でも、ロリコンだけはありえない!!」
花織は手早く目の前の元婚約者からプレゼントされたオープンハートのペンダントを外すと、ばん! とテーブルに叩きつけるように置いた。
「返すわ! 二度と連絡して来ないで!! さよなら!!」
顔中に本気の恐怖と嫌悪を浮かべ、来たばかりのコーヒーにも手をつけずに席を立ち、一目散に会計を済ませてカフェを飛び出す。
花織を知る者が見れば「Gに遭遇した時の反応だ」と表現しただろう。
『本気で純粋に愛し合う二人』は、ぽかんとテーブルにとり残された。
「教え子かぁ…………いやまあ、世間にはそういう夫婦もいるし、芸能界とか年の差カップルは多いけどさぁ…………リアルではちょっと…………」
裕貴から別れ話を切り出された翌日の夜。
裕貴のことを知る友人を居酒屋に呼び出し、事の顛末を語ると、ジョッキを持った友人達も一様に微妙な表情を浮かべた。
「自分が高校生の時は、憧れもしたけどね。そういうマンガとかドラマとか」
「花宮愛歌の『彼と私の秘密の授業』とか、本気でハマったしねぇ。名取先生、恰好よかったなぁ。けど、現実でそれが『いいか?』って言われると…………微妙」
「実際に大人になって社会に出て、大人の男性と接するようになると、高校生と恋愛する大人の男は『ヤバい』としか感じないよね。あれはフィクションだから楽しいわけで」
「うんうん」と友人達は赤らんできた頬でうなずき合う。酔いもあって、めいめい好き勝手にしゃべっていく。
その明るい騒がしい雰囲気に慰められて、花織の気持ちも上向いていく。
『三十歳で十七歳の教え子に手を出した』とわかった瞬間、自分でも驚くほど裕貴への未練が吹き飛んでいた。今は本気で気持ち悪い。
裕貴に会いたいと思う時は、二度と来ないだろう。
花織は「おつまみ追加しよ~」と差し出されたメニューを受けとり、好物をさがす。
一瞬、黒い小さな不安がよぎった。
癖のない艶やかな黒髪をした、可愛らしい十七歳の少女。
あの少女は、数年後も同じ台詞を言えるのだろうか。
理由はどうあれ、教え子を高校中退させるような男なのに?
花織は首をふった。
あの少女のことは、あの少女自身と彼女の両親、それから夫となる裕貴がどうにかすることだ。自分が口を出す事柄ではない。
そう切り捨て、花織はおつまみとチューハイのお代わりを注文する。
「よし! 今夜は呑むよ!!」と誰かが威勢よくジョッキを掲げた。
久々に、にぎやかな時間を過ごし、いい気分で一人暮らしのワンルームに帰宅すると、スマホに母からの留守電が六件も入っていることに気がついた。
水を飲み、二日酔いの薬を飲みながら、スピーカー機能を『オン』にして留守電を聞く。
内容は予想の範囲を超えなかった。
『どうして、大久保さんと結婚しておかなかったの。別の女に略奪されるなんて…………三十一歳にもなって、なにをのんびりしていたのよ。あなたも若くないのよ、もう高望みなんてできないの! とにかく一度、帰ってきなさい。お見合いの話があるから…………』
花織は二日酔い防止のラムネを十粒ほどまとめて口に放り込み、口内にひろがっていく甘酸っぱさをじんわり味わいながら、母の言葉を右から左に聞き流す。
田舎の旧家で育ったせいか、とにかく母の考えは古い。
『女は二十代前半で結婚して、家庭に入るべき』『家庭に入ったら夫に尽くすべき』『仕事をつづけるなんて、みっともない』と、いまだにかたくなに信じている。
二十二歳で父と結婚して三十五年間、専業主婦をつづけてきた母にとって、三十一歳になっても独身で仕事を手放そうとしない娘は、理解の範疇外を超えて異次元の存在だろう。
バッグを開けて中身を所定の位置に戻していくと、チャラ、と小さな金属音が響く。
「忘れてた――――」
金色のチェーンが出てきた。小さな金色の砂時計がぶらさがっている。
ペンダントだ
数日前、仕事帰りに気まぐれに入ったアクセサリーショップで見つけ、購入した物だ。
店主からは『魔法の砂時計』と紹介されていた。
『これに願えば最長二年間、時間を巻き戻すことができる』と。
むろん、信じたわけではない。
だが話の種としては面白いと思ったし、たいした金額ではなかったし、ペンダント自体も純粋に花織好みのデザインだったので、購入した。様々なアクセサリーの中でも、小ぶりのペンダントをさり気なくつけるのが、花織の好みだった。
スマホが最後の留守電を流している。
『三十一歳じゃ、出会いなんてないのよ? 今、結婚しておかないと、あとで――――』
甘いはずのラムネに苦味が混じる。
ふり返れば、裕貴は必ずしも花織の好みに合致していたわけではなかった。
それでも彼の押しを受け容れてしまったのは、花織の心の隅にも『三十一歳』という年齢が重しのように存在していたからだろう。
母のような生き方をしたいわけではない。けれど。
裕貴のような男と関わったせいで、大事な一年を浪費した。
そう思う自分がいるのも、事実だ。
花織はペンダントの砂時計を見つめた。
最長二年。すべて巻き戻した場合は、二十九歳。
むろん、あの店主の言葉を信じたわけではないけれど。
(でも――――)
叶うものなら、裕貴と付き合った一年間を。
いや、それ以上の最長二年間を――――
花織はぎゅっとペンダントをにぎった。