僕たちが本当にほしかったモノ
初めて君と繋がったのは、いつだっただろう。小学生の頃だったかな? 確か、君の方から誘って来たんだ。
「ねぇ、セックスしない?」って。
「今から遊ぼう」みたいな軽い口調だった。
僕は当然「何で?」って聞いた。君の言っていることが良く分からなかったから。
君は、「理由なんてどうでもいいよ」って言って笑った。少し寂しそうな顔だったのを覚えてる。
僕は馬鹿みたいに「お母さんに怒られるから」って言って逃げ出した。その日の君が怖かった。幼稚な自分とは別の生き物に感じられた。
そして、現実を受け止められなかった僕は、「今日、眠ってしまえば、明日の彼女はいつも通りに戻っているはずだ」と信じて、君から背を向けた。……でも、
「待って!」
君は、僕の手を掴んだ。「置いてかないで」。そう言ったわけじゃないけど、そんな顔をしていた。その言動は、大人びている彼女の印象とはかけ離れていて、僕は余計に困惑して、何を言えばいいのか分からなかった。
幼馴染にセックスを迫られた時、どう対応すればいいのかなんて誰も教えてくれなかった。誰にも縋らない君が、僕を呼び止めたことが理解できなかった。
けれど、僕らより数段大人びていた君が言うことには何か意味がある、そう思ってしまう僕もいた。だから――
「いいよ」って。気付けばそう答えていたんだ。
彼女は心底嬉しそうな顔をして、「ありがとう」って言っていた。
――そんな気がする。もう遠い昔の記憶。僕は、忘れてしまったから。
――――
「ねぇ、隼人。人って、何で頑張るのかな?」
どこか遠くを見上げて、彼女――綺音は、そう呟いて白い息を吐く。
校舎の屋上。僕たち以外誰もいない静かな場所。
「……さぁね。難しいことは分かんないや」
実際、考えたことなんて一度もなかった。考えようと思ったことも今までなかった。そんなことを考えたところで、僕が得られるものはありはしないから。
「つまんないね、隼人って」
「知ってる」
何で君は問うのだろう。僕なんかに聞くのだろう。
誰よりも頑張っているのは君なのに。それを知っている僕なのに。
綺音は小さく笑みを浮かべて僕に語る。
「私はね、人は、辛いことや忘れたいことから逃げるために頑張るんだと思うんだ。少しでも苦しいことを忘れたいから、必死に崖を上ろうとするの。下を見たら、そこは暗闇しかないからね」
……やっぱり、君の言っていることは分からない。頭の悪い僕じゃ理解できやしないのだろう。
彼女は一度、手すりに寄りかかって、街の風景を見渡した。
何の面白味もない、ただの家々。見飽きた光景と冷えた空気。どれもこれも、いつもと何も変わらない。
――僕たちみたいだ。つまらない日々に浸かっている僕たちみたい。
「よっし」
君はそう言ってこちらを振り返り、何も言わず、ただ僕を見る。
「………」
分かってる。これが日常だから。退屈でありきたりな日々の一つでしかない。
僕は、そっと彼女の肩を……
――――
僕と綺音は幼馴染だ。お互いの思っていることは一つも理解できないけれど、身体だけは繋がっている歪んだ仲。
セフレでも恋人でもない。ただ、彼女が求めて、僕がそれに応じているだけ。倫理も恋も快楽も、そこにはないし、僕らはそれを求めてなどいない。幸福とセックスは必ずしも伴う訳ではないのだ。
……でも、僕はそれでいいと思ってる。僕はつまらない人間で、彼女は優秀な人間だから。友人としては釣り合わないし、一緒にいたって、きっと彼女は面白くない。
――だから、僕らはこれでいい。彼女が僕を求めなくなるその日まで。ずっと、その瞬間を待っていればそれでいい。それが僕の役目で、僕という人間が、彼女の幼馴染である理由。
「知らなければよかった」。そう思ったところでもう遅い。知ってしまった以上、彼女が癒される時を僕は待ち続ける。僕が出来るのは、彼女の『愛』に応えてやることぐらいだから。隣に立てなくても、その髪を梳いてあげるぐらいは出来るはずだから。
歪んだ僕らは、いつかその日に終わりを迎える。彼女が、本当の愛を見つけられる、その日まで。――そう、思っていたんだ。
だけど、僕が思う以上に、
――終わりは、近かった。
――――
中学校の卒業式が終わった日。二人きりの教室で、君は静かに笑ってた。いつもはロクに笑わない癖に、その日は、壊れた機械みたいに声を殺してケタケタと。
「何で笑ってるの?」
気付けばそう聞いていた。聞かずにはいられなかった。
君は、目に涙を一杯溜めて、口の端を歪めて、
「兄が死んだんだ」って。
そう言って笑った。そう言って、泣いていた。
その一言から間も置かずに、君は堰を切ったように喋り出す。聞いてもないのに、狂ったみたいに兄の自殺を語り続ける。喋らなければ死んでしまうかのように。無理に笑って、本心を隠すように。
僕は、どうしようもなく苦しくて、その姿を見ていられなかった。完璧な筈の綺音。何を失ったとしても泣くことはない君。そして、その彼女が今、涙を零す理由。全てを知っていたから。君が壊れているのを分かっていたから。
けれど、僕ができることなんて何もない。慰める資格は僕にはない。――卑怯者の僕では救えない。だから、
――口を、塞いだ。
一瞬。君の色が染み込んでくる。涙がしょっぱくて、それ以上に僕も泣きたくなった。
唇を、離す。君は、僕を見ていた。目を見開いて「何で?」と問うように。
分からない。頭の悪い僕には答えられなかった。それしか、僕にはできなかった。
君は、涙を拭って、言葉を漏らす。いつもの明るい君だった。その言葉は、明るい話には程遠くて、ちっとも笑えなかったけど。
「……私さ、兄に犯されたこと、あるんだ。レイプってやつだよ」
笑ってた。「どうだ?」なんて言って、僕の驚く顔を楽しむように。
だから、僕も言ってやったんだ。はっきりと声にして伝えるために。
「……知ってた」
ずっと、ずっと前から知っていたんだ。君があの日泣いていた理由を。君が僕を求めたその訳も。
知ってしまったから。僕には、君の隣に立つ資格はない。知っていて、何もできなかった僕には。
短い沈黙の後、君は「そっか」と呟いて――僕の顔を軽く殴った。
何も言えない僕に「不意打ちのお返し」と、君は笑ってた。
身内を亡くした彼女には不謹慎だけど――その顔は、とても綺麗だった。
――――
綺音が僕の前で泣いたのは『卒業式の後』が二回目だった。
あの日。二人、初めて生まれたままの姿で抱き合っていた時以来。ベットの上、まだ小学生だった彼女は、声を上げて泣いていた。僕は、ただ黙ってた。どうすればいいのかも分からなかったし、これ以上触れてしまえば、綺音は壊れてしまいそうだったから。
……本当に、そうだったのだろうか?
ただ怖かっただけ。踏込たくなかった。僕は何も知らないって。見てない。聞いてない。何も。何も。そう思って、意識を閉ざして……。
今となってはもう分からない。僕の思う『救い』が、彼女にとっての『救い』だったのかも。僕があの時、綺音を受け入れなかったとして、彼女が幸せになったという確証も。
結局は、そういう話。
僕という人間は無力で、何をしたって、彼女を救うことは出来なかったっていう、簡単な話。
――――
先日、綺音は自ら命を絶った。兄と同じく首を吊ったそうだ。遺書には「死にます」と一言だけ。恐れることのなかった綺音らしい遺言だ。『死』すらも彼女にとっては一つの現象だったのだろうから。
お通夜には呼ばれなかった。別に僕と綺音の両親は仲良くなかったから。僕の親は、彼女が死んだことにも気付いてはいないだろう。
当然、僕も行かなかった。行ったところで、何をしてあげればいいのか分からなかったから。死んだ綺音はもう、僕の知っている彼女ではない。僕と繋がっていた綺音も、兄の死を笑い泣いていた彼女も。もう、ここにはいない。どこか遠くに行ってしまった。
そこは、退屈だろうか。辛いことはあるだろうか。柄じゃないけど、彼女の幸せを祈ったりしてみる。
届きはしない祈り。二度と聞こえないあの声。
――もう、綺音には会えない。
視界が、ぼやける。そう思った時には遅く、僕は、涙を流していた。理由もわからず、ただ涙が頬を伝っていく。
……好きじゃなかったのに。繋がっていたのは身体だけだった筈なのに。
いつから僕は変わっていたのだろう。「彼女の隣には立てない」なんて、自分を偽って、想いを隠せるぐらいになっていたのだろう。僕には分からない。今、確かに分かるのは、自分の中にあるただ一つの気持ちだけ。
――でも、それも、もう、届かない。彼女は、僕を置いて、逝ってしまった。一人、退屈でどうしようもない世界に。綺音のいないこの世界に。
だけど、もし僕が、この気持ちを彼女に伝えたとしても、綺音は笑って受け流していただろう。「好きな人がいるから」って。
傷つけられても、愛されていなくても、彼女は、彼のことが好きだったから。もう一度、抱いてほしかったから。
……あぁ、馬鹿みたいだ。そんなことで悩んでいた僕も。そんな想いを引きずっていた綺音も。皆、大馬鹿者だ。
――ふと、空を見る。白い雪が頬に融ける。今年も変わらず雪は降るようだ。
それと同じ。変わらず退屈な日々は続いていく。綺音を失った景色だけが流れてく。
彼女がいなくなった今、僕は、何を求めて生きていけばいいのだろう。綺音という生きがいを失った今、僕は、生きる意味を見つけていけるだろうか。
――たぶん、それでも、僕は生きていく。色のない世界に、必死で筆を進めていく。例え、どんなにその絵が下手くそでも。僕の選んだ人生を見て、「つまんないね」と彼女が笑ったとしても。
結局は、そういう話だ。
無力で、まだ、これからの人生がある僕の話。
叶う筈のない愛を求めて喘いでいた彼女の話。
ただ今は、僕の話を、君に伝えられないことだけが、とても寂しい。