黄砂に舞う羽根「砂漠の都(5)」
その日の夕暮れ、シスター・セレンはいつもどおり夕食の買い物を済ませ、自分の勤める教会へ足早に帰ろうとしていた。
セレンは生まれた時からこの街を出たことがなく、かれこれ一五年ほどこの街に住んでいるが、それでも夜は怖いし、この街の治安がいいとも思っていない。そのため、僧衣の下には、護身用としていつもハンドガンを忍ばせている。だが、そのハンドガンの銃口はこれまで一度も火を噴いたことがない。
ネオンが店を彩りはじめ、屋台からは香ばしい肉やソースの焼けた匂いが漂ってくる。
武器や防具を扱うジャンクショップの横を抜け、セレンは裏路地の横を抜けるところだった。昼間ならば、この裏路地を通って教会に帰るのだが、日が落ちはじめてからは通りたくない路だ。そのため、いつもならば素通りするのだが、今日に限っては違った。
裏路地の闇から音が聴こえた。
「ちょっと嬢ちゃん、手を貸してくれないかい?」
それは中年男性の声音だった。
セレンは闇の中に顔を突っ込み、そこにいる男を確認しようとした。セレンの頭には困っている人を助けなくてはいけないという使命感だけで、それが危険な行為だったことをすっかり忘れていた。仲間以外の人間と関わらないことが、この街でトラブルに巻き込まれない鉄則だったにも関わらず。
薄暗い路地の中に入り、壁に寄りかかり腹を押さえて座っている中年男がセレンの目に入った熊のような男は顔を歪ませながら歯を食いしばり、見るからに苦しそうな表情をしていた。
「大丈夫ですか?」
とセレンが声をかけると、男は荒々しい息遣いで答えた。
「ちょっと腹の調子が……よくなくってよ……」
「悪い食べものに中ったん――!?」
セレンは物陰から突然現れた男によって口を押えさられてしまった
そう、一人が病人のフリをして、残りの一人が物陰に隠れて獲物を狙う。男たちは暴漢グループだったのだ。
普段、暴漢に襲われる割合が多いのはこの街の人間ではない。それが今、暴漢グループに襲われているのは、この街に一五年も住む者だった。セレンは自分の間抜けさを悔やんだ。
セレンの口は泥臭くて毛むくじゃらの分厚い手によって塞がれ、真後ろにいる男の身体がセレンのヒップや背中にぴったりと密着している。時折、耳に吹きかけられる荒い息にセレンは身震いした。こんなときにセレンにできることは神に祈るのみ。だが、その祈りも通じない。
病人のフリをしていた男が立ち上がったかと思うと、セレンは乳房を鷲掴みされた。
「尼さんのクセになかなかいい乳してんじゃねえか」
目の前で舌舐めずりをする男を見てセレンは失神しそうになった。きっとこのまま男たちにいいようにされて、身包み剥がされて売られるか、殺されるか、するのだろうセレンはいっそのこと殺して欲しいと思った。
地面には先ほどセレンが羽交い絞めにされてしまったときに落とした買い物籠があり、その周りには汚れてしまった野菜や果物が散らばっている。それを見たセレンの目頭は熱くなり、大粒の涙が頬を伝って地面に次々と落ちた。――嫌だ。
心の中でなにかが吹っ切れたセレンは、自分の口を塞いでいた芋虫みたいな指を、歯を立てて思いっきり噛んでやった
「痛えっ!」
情けない声をあげて男がセレンから身体を放した瞬間、セレンはその隙を突いて僧服の裾を捲り上げ、太ももに装着していたホルダーからハンドガン抜いて構えた。
銃口を向けられた男は両手を高く上げ、セレンに指を噛まれたもう一人の男は、噛まれた指を口に銜えながらセレンから距離を取った。
「わ、わたしから離れて、さっさとどこかに行ってください……さ、さもないと撃ちますよ!」
セレンは自分では凄みを効かせて言ったつもりだったのだが、その言葉は振るえ、ハンドガンを構える手も大きく震えていた。それを見た男は銃口を向けられながら嗤った。
「嬢ちゃん、ちゃんと銃口を向けないと当たんねえぜ」
そのとおりだった。セレンの手は震えていて、銃口は男から明後日の方向を向いている。これではとても銃弾が命中するとは思えない。
「撃ちます、本当に撃ちますよ!」
セレンは叫ぶが、もはや男たちは信じていない。この女には撃てないと確信している。
口から指を抜いた男がセレンにジリジリと詰め寄り、セレンの前にいる男の巨大な手が伸びる。
「撃ちます! あっ!?」
撃てなかった。セレンは手首を掴まれて捻られ、そのままハンドガンを地面に落としてしまった。銃を持っているだけでは、護身用にはならないのだ。
セレンの身体は巨漢の男によって力のまま地面に押し倒され、僧衣が泥で穢された。
再びセレンは男に捕まり、もう一人の男がハンドガンを拾い上げてまじまじと見詰めた。
「こりゃマガジンが装填されてねえぞ。がははっ、こんな玩具で冷や汗かいて損したぜ」
ハンドガンには弾が入っていなかった。これではセレンが引き金を引いていても弾は出るはずもなかった。銃の取り扱いに慣れていないセレンは、そんなことも気づいていなかったのだ。
シスターに覆いかぶさる熊のような男が、穢れを知らない乳房を激しく揉みしだく。
「止めっ!?」
叫ぼうとしたセレンの顎が無理やり閉じられた。自分の顎から伸びる毛むくじゃらの腕をセレンが目線で追うと、そこにはニヤついた男の顔があった。セレンは熊男に上に乗られて胸を掴まれ、もう一人の男には顎を無理やり閉められ叫ぶこともできなかった。
再びセレンは心の中で神に祈りを捧げた。
そのときだった。
裏路地に缶カラを蹴飛ばしたような音が響いた。
男たちは耳を尖らせて、音のした方向を勢いよく振り向き、熊男が声をあげた。
「誰だてめぇ!?」
「俺のこと? ただの通りすがり」
闇の奥から現れたのは左肩を手で押さえた少年だったその押さえている手からは、紅い血が滲み出していた
セレンは神に感謝した。これで自分は助かるかもしれない。けれど、次の少年の言葉にセレンは愕然とさせられた。
「ちょっと横通るけど、俺のこと気にしないでお楽しみを続けて」
この言葉に男たちは口を開けてきょとんとした。
少年の態度は男たちが怖いとか、関わりたくないとか、そういったものではなく、本当にどーでもいいと言った態度だった。この少年は、少年の顔を持った冷酷無慈悲の悪魔かもしれない。
空気の横を通るように少年は男たちの横を歩いていく。
このときほどセレンは自分の不幸を呪ったことはなかっただろう。救いの手が現れたと思ったら、それは悪魔だった。だったらはじめから手なんて差し伸べて欲しくない。ぬか喜びとはこのことだ。
だが、話の展開は少し違った方向に向かうことになった。セレンの顎を押さえつけていた男が、セレンを解放して立ち上がり、少年の背中に向かって叫んだのだ。
「おい小僧、俺たちの顔見たからには生かしちゃおけねえ!」
そう言った男の手には銀色に輝く刃のギザギザしたナイフが握られていた。
振り返った少年はすごく機嫌の悪そうな顔をして、自分の左肩から右手を離し、その手で紅く染まった右肩の傷口を指差した。
「俺さ、今すごーく機嫌悪いわけ。なんでかっつーと、撃たれたから。マジで痛くてイライラすんだよ!」
歯車の回転する音が裏路地に響いた刹那、ナイフを持った男の左頬を少年の拳が激しく抉った。それは目にも止まらぬ速さだった。
少年に殴られた男は五メートルほど宙を飛び、地面に落ちてからは服に泥をつけながらゴロゴロと五メートルほど転がった。
相棒が一発でヤラれたのを見て逆上した熊は、頭に血を昇らせてセレンの上から立ち上がると、なにも考えずに猪突猛進で少年に素手で殴りかかった。しかし、少年は赤子相手のように軽く熊を躱し、熊の腹に左膝で一発喰らわせてやった。それで熊はノックアウト。
少年は口から泡を吹いてうつ伏せになる熊の尻を踵で蹴飛ばし、満足げな笑みを浮かべた。
「糞ったれが。俺に喧嘩売ろうなんざ一億年早ぇんだよ」
そう言って少年は熊の後頭部に唾を吐きかけた。
目の前で繰り広げられた出来事に唖然としていたセレンであったが、我に返って地面から立ち上がり僧衣についた汚れを手で払うと少年の前に立ち、大きく右手を振り上げた。
「この人でなし!」
バシン!
日も沈み真っ暗になってしまった裏路地に鳴り響く音。
セレンは涙ぐみながら少年の頬を叩いた。
普段であれば人に手を上げるなどしなかっただろう。しかし今は、極限状態の恐怖から解放されることにより、いろいろなことが思い出されて頭に血が昇っていた。
なにがセレンの感情を高めたかというと、それは少年の行動にある。
「あなた、わたしが襲われてたというのに、助けもしないで立ち去ろうとしましたよね!」
「別にいいじゃん、結果的に助けてやったろ?」
「助けて頂いたのは感謝いたしますけど……あっ!?」
会話の途中でセレンは目を丸くして、自分の口をはっと息を呑みながら手で押さえた
セレンの視線は少年の左肩に注がれていた。そして、紅く染まる少年の肩を見ているうちに、セレンの顔からスーッと血の気が引き、頭に昇っていた血が一気に足元まで落っこちた。
「だ、大丈夫ですかぁ!? 肩から血が出ているじゃありませんか、すぐに手当てしないと! あ、あの打ったりしてごめんなさい、ちょっと冷静さを欠いていたみたいで……」
と言っているセレンは今も冷静さを欠いているようだった。
目の前で慌てふためく年端も行かぬ尼僧を見て、少年はため息をついてパイロットハットの上から頭を掻いた。
「肩の怪我なんか大したことねえよ」
少年とセレンの歳は同じくらいだと思われるが、二人の纏っている雰囲気は明らかに違った。セレンはおどけなさの抜けない少女であり、少年は口も性格も悪いただのガキのようだが、少年はセレンとは明らかに違う影を纏っていた。
歩き去ろうとする少年の背中をセレンは見送りそうになってしまった。なぜだが、少年の背中に声をかけることに気が引けたのだ。しかし、セレンは喉から声を絞り出した。
「あの、待ってください。病院まで付き添います!」
少年が無愛想な顔つきで振り返った。
「病院は行かねえ」
「駄目ですよ、病院に行かなきゃ!」
「俺って頑丈だから、血なんてとっくに止まってんし。病院とかあんま好きじゃねえんだ」
「では、わたしの家で手当します」
「一晩泊めてくれんなら行く」
「えっ」
少年は悪戯な笑みを浮かべ、それを見たセレンは少し戸惑った。だが、命の恩人であり怪我人である少年をこのまま放って置くわけにはいかず、セレンは首を縦に振った。
「わたしの家は寂びれた教会ですけど、それでよろしければお泊めします」
「うんじゃ、泊めてもらうわ。で、あんた名前は?」
「わたしですか、わたしはセレンと申します」
「ふ〜ん、俺の名前はアレン、よろしく」
差し出されたアレンの真っ赤な右手を見てセレンは少し戸惑った。アレンの手は乾いてひび割れた黒い血に覆われていた。そんな手で握手を求められても困ってしまう。
すぐにアレンはセレンの表情を悟って、服で手についた血を適当に拭い去り、再び右手を差し出した。けれども、乾いた血は拭い去れず、また少し付いていたが、セレンは相手の好意を裏切ってはいけないと思いアレンの手を握った。
柔らかかった。アレンの手は思ったよりも柔らかくて温かい手だった。そのことにセレンは少し心を解きほぐす。
「柔らかくて赤ちゃんみたいな手ですね」
そう言われた途端、アレンは握っていたセレンの手を激しく振り払い、唇を尖らせて怒ったようにそっぽを向いた。
「俺は赤ん坊じゃねえ。ほら、さっさとあんたんちに案内しろよ」
「別にそういった意味で言ったんじゃないですけど……。わかりました、わたしの家に案内します、付いて来てください」
なぜ相手に態度を悪くされたのかわからないまま、セレンはしゅんとした表情で歩きはじめた。が、その足が急に止まる。
「ああっ!? 夕飯のおかず!」
地面に散乱する野菜や果物を見て、セレンの瞳は少しずつ濡れはじめていた。それでもセレンは涙を堪えて、黙々と地面に落ちて汚れてしまった食べ物を拾い集めて籠の入れていく。
籠の中にリンゴ持った手がそっと入る。それはアレンの手だった。
「洗えば食えんだからクヨクヨすんなよ」
別にそういうことで泣きそうになってるんじゃない。セレンはそう思いながらも、アレンに優しさを感じて嬉しかった。
――最初の印象よりも悪い人じゃないかもしれない。