黄砂に舞う羽根「帝國の影(6)」
木製のドアが軋めきながら開けられ、中から無数の皺が刻まれた老人の顔が出てきた。
「どうぞ中へお入り」
三人は老人に促されるまま家の中に入った。
茶色いローブを羽織った老人の後姿は、まるで枯れ果ててしまった老木のようだ。幾星霜を生きた老人は、その姿からも声からも、性別を判断することすらままならない。
石造りの家の室内には古ぼけた木製の家具が並び、この家で使われている金属はすべて真鍮だった。そして、どこからかお香を焚いた独特な匂いが漂ってくる。
居間に通された三人が椅子に座って待っていると、老人が薫り立つコップを三つトレイに乗せて運んできた。
「どうぞ召し上がれ」
枯れ枝のような手からセレンはコップを受け取り、コップの中身を覗き込んで鼻で息をした。
鼻を抜ける心地よい花々の甘い香りが口の中で広がり、セレンは薫りに誘われてコップに口を付けた。
「美味しい」
と、自然と口から零れた。
至福の顔をするセレンを見て、老人がにっこりと微笑む。
「裏庭に生えていたハーブに、特性のシロップを三滴ほど加えたもんさ」
老人の言葉は緩やかな川のせせらぎのようで、この家の中の時間は外の時間の流れよりも遅く流れているようだった。
セレンはこの家に懐かしさと温かみを覚え、いつまでものんびりとティータイムをしていたい気分だったのだが、彼は違うらしい。
「俺様は前回ここに来たとき、まんまと惑わされちまったが、今日はそうはいかない」
目をギラギラと輝かせ、気合十分なトッシュの横で、あくびをする音が聞こえた。
「わたし……なんだか、眠くなっちゃいました……」
眠い目を擦りながらあくびをしたセレンは、腕を枕にしてテーブルの上に沈んだ。そして、すぐに彼女の鼻から安らかな寝息を聞こえてきた。
眠りに落ちてしまったセレンを見て、トッシュは訝しげな表情をしていた。
「やはり、この飲み物に睡眠薬が入っていたのか」
トッシュの言葉を受けて、アレンはカップの中を満たす液体を覗き込んでいた。
「ふ〜ん、そーなんだ。飲まなくてよかった」
食べることと寝ることが思考の大半を占める彼にしては珍しく、アレンは一口も飲み物に手をつけていなかった。もしかしたら、野生の勘とやらで危険を察知していたのかもしれない。
老人が静かに笑う。
「ほっほっほっ、同じ罠には引っかからんか」
「俺様が二度も同じ罠に引っかかってたんじゃ、世間様に顔向けできんからな。さて、シスターが眠ってくれたのはちょうどいい、クーロン地下に眠るエネルギープラントの話でもしようか」
以前にもトッシュはこの老人の家を訪ねている。そのときは話半ばで眠気に襲われ、気づいたらクェック鳥の背中に揺られ、砂漠の真ん中を彷徨っていた。同じ過ちは繰り返さない。
クーロン地下にエネルギープラントがあるというのはアレンも初耳だった。トッシュはここに来るまで詳しい話をなにひとつしていなかったのだ。
「クーロン地下にエネルギープラントがねぇ。で、この『姐ちゃん』となんの関係があるわけ?」
老人は表情一つ変えないでアレンの顔を見つめていたが、やがて破顔一笑した。
「おぬしはわしを『姐ちゃん』と呼ぶか。ほっほっほっおもしろい小僧じゃ」
『姐ちゃん』と呼ばれたのが嬉しかったのか、老婆は不気味な笑いを低く立て続けている。
トッシュは『この老人、『婆さん』だったのか』という感心した表情をしていたが、すぐに気を取り直して話を元に戻した。
「クーロン地下に眠るエネルギープラントの開発に、あなたが携わっていたという話は前回もしたと思うが、覚えておいでか大魔導師リリス殿?」
「わしを耄碌したただの婆と思っているのかい?」
妖婆リリスは妖艶と笑った。その笑みを見たトッシュは、久しぶりに背中に冷たいものを感じ、自分が額から汗を流していることに気づいてすぐに拭った。
「いいや、失礼した。それでエネルギープラントの件だが、あそこの入り口を開けられるのは、この世でもうただひとり――あなただけと思っているのだが、やはり開ける気はないか?」
「ないね」
リリスの返事はあっさりしていた。だが、ここまでは前回来たときと同じだ。
正直トッシュには切り札もなにもなかった。彼はもとより考えるより身体が先に動く性質なのだが、ひとたび頭を使えば切れ者と早変わることから、その辺りを高く評価して彼を高額で雇う者も多い。だが、今回に限っては目の前にいる老婆の心を動かす材料が、なにひとつ見つからなかったのだ。
う〜ん、と深く唸って、それっきりトッシュは口を開かなくなってしまった。その代わりにアレンが口を開く。
「なあ姐ちゃん、金で雇われる気はないのかよ?」
「ないね、わしは金なんぞに興味ない」
それは前回トッシュが条件として提示し、すでに断られている。金では動かないのだ。
「そんじゃ、姐ちゃんの望みを叶える代わりにってのは?」
「自分の望みは自分で叶えられる」
「じゃあさ、俺と一晩過ごすってのは?」
「ほほっ、おもしろいこという」
平然ととんでもないことを言ってのけたアレンを見る妖婆の瞳は妖しく輝いている。その瞳は目の前にいる『少年』が、『少女』であることを見透かしているようだった。
鼻を小刻みに動かしたアレンは、少し部屋を漂うお香の匂いが強くなったのを感じた。すると、すぐ隣でトッシュが顔面からテーブルに突っ込んで気を失った。香りにやられたのだ。
この部屋での脱落者は二人目。セレンもトッシュも深い眠りに落ちてしまった。その中でアレンだけが平気な顔をしている。
妖婆リリスの目は輝きを放っていた。それは嬉しさの表れだった。自分の妖術にかからぬ者に対しての興味関心。
「おぬしには効かぬか」
「ちょっと鼻が詰まっててさ」
鼻をわざとらしく啜ったアレンは、まだ手をつけていなかったコップに口を付け、薫り立つ液体を一気に胃に中に流し込んだ。
「美味いね」
――なんともなかった。それどころか、アレンはトッシュのカップにも手をつけて、中味を一滴残さず飲み干してしまったではないか。
「ふほぉ〜っほっほっほっほっ、おぬし何者じゃ?」
「唾飛ぶから大口開けて笑うなよ。俺は俺だ、ただのガキさ」
「魔導手術を受けた『少女』をただのガキとは言うまい」
「……なんだ、やっぱバレてたのか。だったら姐ちゃんもさ?」
「わしもわしじゃて」
「あっそ」
素っ気ない返事をするアレンであるが、彼女は目の前にいる妖婆に関する秘密をなにか知っているようだった。だが、別に追求するつもりもないらしい。
いつの間にかリリスの手にはポットが握られており、妖婆はアレンのカップに煌びやかに輝く液体を注いだ。
「このハーブティーが気に入ったのなら、いくらでも飲むがよい」
「お菓子ないの?」
「おぬしに食わす菓子などない」
「ケチ」
「わしをケチとな?」
「あーそうだね、あんたはケチさ。〈扉〉くらい開けてくれりゃあいいのに」
「その『扉』の向こうになにがあるか知っておって、そんな口を聞いておるのか?」
「いいや、知んないし、そんな興味もない。俺はただ横でぶっ倒れてる、この兄ちゃんに金でで雇われただけだし」
深い眠りに落ちているトッシュは、当分目を覚ましそうになかった。
妖婆はアレンの瞳を見つめていた。ただ見つめているだけではない。妖しい彩を放つ瞳で見つめている。妖婆でありながら、その艶かしい瞳は妖婆のものではない眼光。
アレンは決して視線を逸らそうとはしなかった。これは二人の間で繰り広げられる壮絶な戦いなのである。だが、その静かな戦いもすぐに終わってしまった。
ぐぅぅぅぅぅ〜〜〜っ。
アレンの腹が奇怪な音を立てて鳴いた。
「腹減ったんだけど」
「緊張感のない奴じゃ。わしの瞳で見つめられたものは男女問わず、獣であってもわしに魅了されるはずなのじゃが。食欲が性欲に優るか」
「ババアの身体になんて欲情しねえよ、ふつー」
妖婆リリスの眼光は人の身も心も虜にするはずであった。それがいとも簡単に破れてしまったのだ。
「ほっほっほっ、おぬしになら〈扉〉の向こうになるが『いる』の話してやってもよいぞ」
「興味ないね」
「じゃが、そこで眠っておる若いのはどうかの? 若いのは〈アレ〉のことをただのエネルギープラントだと思っておるようじゃが、実際はもっと恐ろしい存在じゃ」
「で、なにがいんのさ?」
「〈アレ〉の正体は人型エネルギープラントとでも言っておこうかの」
「でさあ、あんた〈扉〉を開けてくれる気あんの?」
「さて、それはおぬし次第じゃな」
「条件は?」
「ない」
「はぁ?」
『おぬし次第』と言っておきながら、条件はないという。これではなにをしていいのかわからない。
突然、どこからか玲瓏たる鈴の音が家中に鳴り響いた。
「招かれざる客が来たみたいじゃな」
リリスの意識は家の中ではなく、窓の外に向けられていた。
「外にずっといたの気づいてたクセに」
アレンがボソッと言うと、リリスは妖々と微笑んだ。
「相手の出方を伺っていただけさね」