黄砂に舞う羽根「帝國の影(2)」
それは今朝のことだった。
「おい、金渡すからパンと野菜と卵とハムでも買って来い」
トッシュにいきなり金を差し出されたアレンは露骨に嫌な顔をした。
「なんで俺が行かなきゃいけなんだよぉ」
「俺様は街を出歩けんからな。家の中でガクガクブルブル震えてることしかできん」
「よく言うぜ」
トッシュから金を奪い取るように受け取ったアレンは、鼻で笑って部屋を出て行こうとした。そのアレンの背中にトッシュが声をかける。
「あと、タイムズ紙っていう新聞も頼む」
「あいよ」
アレンは背中越しに手を振って部屋を出た。
セレンよりも早く起きたアレンとトッシュは台所で食材を確認し、食材が乏しいということで、トッシュがアレンに朝食の材料を買いに行かせた。
街外れの静寂と物悲しさに包まれた教会を出て、石畳の上を散歩でもするように歩くと、やがて石畳の道が乾いた地面になり、アレンは少し大きな通りに出た。
街は朝から活気付いている。その活気の質は夜とは全く違うものだが、根底にあるものは人間の生だ。
生きるために必要なものとして、衣食住が挙がられるが、それを満たすことは難しい世の中だ。その衣食住のひとつである『食』がここにはあった。
ビニール屋根の店が立ち並び、店には所狭しと野菜や肉や魚食材が敷き詰められている。
彩り豊かな野菜や果物、生きたままの鶏やさばいたばかりの紅い肉、身が締まり鱗の輝く魚たち。ここに集まった食材はすべて街の外から輸入されて来たもので、食材の豊富さは文句のつけようがない。問題を挙げるとしたら、たまに食あたりを起すくらいなものだろう。
声のデカイ親父や頭にタオルを巻いた丸顔の女主人が、今日も朝から客相手に汗を流している。そんな人々の往来する店と店の間を歩きながら、アレンは目的の品を買っていく。
まずは豚のもも肉を加工したボンレスハムを二本買い、次は薫り立つパン屋の前で立ち止まり食パンを一斤買おうとしたが、やっぱりやめて一斤の三倍にあたる一本の食パンを買った。
新鮮な野菜も買い、卵も買って、さあ帰ろうとしたところでアレンは立ち止まった。
「デザート喰いてえ」
両手に食材の入った紙袋を持ち、アレンは『胃』の向くままに果物屋に向かった。
赤や黄色や緑の色鮮やかな果物たちが並び、甘い香りが店の周りに漂っている。
柑橘系の果物を見ただけで、アレンの口の中は甘酸っぱさで満たされ、彼女はゴクンと唾を呑み込んだ。
柑橘類の横には真っ赤に染まった林檎があり、色艶良くてこれも食欲をそそられる。
口元を拭ったアレンは結局両方買うことにして林檎に手を伸ばした。が、その林檎がアレンの手の先から突如姿を消した。
林檎が消えた方向へとアレンが視線を移動させると、そこには金髪の『ライオンヘア』が立っていた。
「あら坊や」
赤い林檎と真っ赤なルージュが妖艶と誘っていた。
一番美味そうな林檎を取られたことも腹立たしかったが、それよりも昨日の一件がアレンの頭に血を昇らせた。
「テメェ!」
アレンは持っていた紙袋を地面に置き、ライザの襟首に掴みかかろうとしたが、赤い林檎が宙に投げられライザの白コートが波打ち、ハンドガンがアレンの顔に向けられた。
「それで防ぐ気かしら?」
ライザのハンドガンの先にはグローブに隠されたアレンの左手があった。
「防いでやるよ」
「アナタの手は鋼鉄でできているのかしら? でも、このハンドガンから出る玉は鉛じゃないわよ」
「ふ〜ん」
興味なさそうな返事だった。それは絶対に防げるという自信の表れか?
ちょっとでも二人に触れれば、この争いに巻き込まれそうな危機に直面して、人々は後退りするようにこの場から徐々に離れて行った。
ライザの持っていたハンドガンから、なにかが蠢いているような奇妙な音が聴こえはじめた。
「このハンドガンは『失われし科学技術』を使ってアタクシがこの世に生み出した傑作。グングニールとアタクシが名づけたこの銃から発射されるエネルギーは、一瞬にしてすべてを灰にしてしまうのよ」
「ふ〜ん、魔導銃ってことか」
魔導をつくられた武器や兵器の威力はどれも威力が凄まじく、つくり出すこともとても困難なために滅多にお目にかかれない。それを前にしてもアレンは『ふ〜ん』で片付けてしまった。魔導銃ですらアレンの脅威ではないというのか?
物怖じしないアレンを前にして、ライザは苛立ちを覚えるとともに、ある種の欲求に駆られて上唇を妖しく舐めた。
「アナタがアタクシの足元で屈服する姿が見たいわ」
「それは嫌だ」
「アタクシに反発する者を屈服させてときの快感……」
いつの間にかライザの片手は自らの股間に宛がわれ、熱い吐息を漏らしながら、ライザは目の前にいる『少年』を今にも食べてしまいそうだった。
目の前でよがる女を見ながら、アレンは背筋をゾクゾクさせながら蒼い顔をした。
「うげぇ〜、早く俺のこと撃って殺してくれ……」
「もう駄目、愛しすぎて殺したい」
「だからさっさと撃てよ!」
「あぁん!」
雌獅子が甲高い喘ぎ声をあげた刹那、グングニールから稲妻が迸り左手ごとアレンの身体を貫かんとした。だが次の瞬間、ライザは瞳を限界まで見開き、稲妻がアレンの手の中へ吸い込まれていくのを目の当たりにした。
「どういうことなの!?」
冷静さを取り戻そうとしている最中で、ライザはグングニールをアレンに奪われ、その銃口を顔面に向けられた。
「俺の勝ち」
悔しそうな表情をしながらライザは唇を噛んだ。屈辱だった。自分の理解の範疇を超えたできごとが屈辱だった。しかし、それが彼女を再び燃え上がらせた。
「最高だわ、最高よ、どうしてもアナタをアタクシのモノにしたい」
「はいはい、わかったから自分の立場理解しろよ。あんた絶体絶命のピンチなんだぜ?」
「アタクシが窮地に追いやられているとでも言いたいのかしら?」
武器を奪われ、その武器で命を狙われている。これを窮地と言わずなんと言う?
だが、ライザは自身に満ち溢れた妖艶とした笑みを浮かべていた。
「アタクシは科学者にして魔導師。アタクシに不可能なことはなくてよ。でも、今日はお預け」
「はぁ? あんたこの状況から逃げられると思ってんの?」
「アタクシはどろどろに熟れた果実が好みなの。では、御機嫌よう。そして、これがアタクシの印」
ライザの手が風を鳴らして素早く動き、長く伸びた真っ赤な爪がアレンの頬を切った。
そして、ライザの姿は空間に溶け込むように消えてしまった。それはまるで白昼夢のような光景だった。
完全にライザが姿を消してすぐ、アレンは自分の頬を触れ、その指先についた鮮血を眺めた。これは夢ではない。
「空間転送か……いろんな意味で厄介な女」
アレンの周りには人ひとりいなかった。
途中まで何人かの人間がギャラリーとして残っていたが、ライザの持っていたグングニールが稲妻を吐き出し、辺りが激しい閃光に包まれた瞬間、ひとり残らず逃げてしまった。
アレンは片手に握ったままだったグングニールを、近くに置いてあった自分の買い物袋の中に投げ込み、地面に転がっていた林檎を拾い上げた。
拾い上げた林檎を服の袖で拭き、アレンは大口を開けて林檎に噛り付いた。
汁が口から零れ出し、口いっぱいに広がる甘酸っぱい香り。
「さ〜てと、買い物も終わったし帰ろっと」
このときアレンはトッシュに頼まれた新聞のことなど、すっかりと忘れていた。