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誰も知らないくせに  作者: 青井在子
02, いつかのその日まで 小田良輔
8/23

08


 実力テストは夏休みが明けた二日後から二日間に渡って実施される。

その日は八月二十六日。テスト初日の九月二日まではあと七日ある。野球部では毎年八月二十五日から夏休みが終わるまでの期間は、課題が終わっていない生徒への救済措置として普段の休日ならば一日中ある部活が午前だけで終わるのだ。


 俺とカオルはお互いに予定の無い午後を教室で一緒に勉強をする約束をした。


そう。今でもはっきりと覚えている。初めて二人で会った日。


俺は午前中の練習を終えると部員たちと別れて一人で教室で弁当を食べながら、カオルが現れるのを今か今かと待っていた。

不意に携帯が鳴って飛び上がるほど驚いたことも覚えている。咳払いをしてから通話ボタンを押した。


「もしもし。どこにいる?」


カオルの声だった。


「一組の教室。今、飯食ってた」

「わかった。じゃあ行くねー」


電話を切る。心臓が耳元で激しく鳴っている。遠くからスリッパのパタパタという音が近づいてくる。いつもと違って校内は人が少ない。それが三年生の教室がある階ならともかく、この階はほとんど人の気配は無い。きっとカオルの足音だ。ふと短い髪に手をやる。さっき鏡を見たから大丈夫なはずだ。

滑りの悪い引き戸が開けられる重たい音がする。


「ごめんね、お待たせ」


エアコンの低い音だけがする教室内に、カオルの声は不思議なくらいに響いた。


「全然待ってないよ。飯食ってたし」

「それ、聞いたよ」


そう言って笑いながらカオルは俺の前の机をくるりと回転させ、俺の机とぴったりと突き合わせた。

下敷きでパタパタと顔を仰ぎながら、アイツは俺の真正面に座った。そう。真正面に。

こんな至近距離でカオルのことを見るのはこれが初めてだった。静かな教室でカオルに聞こえてしまいそうなほど心臓が大きな音を立てている。


「数学と英語、どっちからやる?」


そんな俺の動揺になど一切気が付かずにカオルはスクバを漁り、テキストを二冊机の上に出した。そして初めてしっかりと二人の目が合った。

たぶんこの瞬間までカオルは気が付いていなかった。向かい合わせになった机二つ分の距離が、案外近いことに。

初めてカオルの目が泳いで、頬が少しだけ赤くなった。右側の髪を耳に掛けると、黙ることを恐れるかのように、英語にしようか、と明るい声を出した。


俺は曖昧に返事をしてカオルが手にしているのと同じテキストとノートをエナメルバッグから引っ張り出した。同じ時期に貰った同じもののはずなのに俺のものは表紙がなんとなく色褪せていて皺がある。


「ちょっと見せて」


カオルは俺が机に広げたワークブックを手にとってぺらぺらとページを捲り始める。一応真面目に取り組んでいたから、○も×も実際の俺の実力を表している。そう思うと見られることに恥を感じる。


「そっかー。前も言ってた気がするけど、完了形があんまり得意じゃないんだ?」

「そうなんだって。まじで意味わかんね」

「ややこしいよねー」


カオルはおもむろに自分のノートを取り出し、白紙に一本線を引き、片方の端に矢印を付けた。そして真っ直ぐ引かれた線の中央に小さなスマイルマークを描いた。


「これが話している今ね」


スマイルマークの下に「今」と書いた。


「例えばおとといから病気ですって言いたい場合は……」


矢印と反対の端に「過去」と書き、そのすぐ横に「おととい」と書いた。


「おとといっていうのは過去のある一点だよね。そこに注目してるから……」


スマイルマークから「おととい」に矢印が書かれ、さらに「おととい」から「今」へと矢印が足された。


「現在完了っていうのは過去のある一点から今までを繋げて考えるってこと」


俺はカオルによってスラスラと描き出される図に見入っていた。


「……わかりにくいかな?」


カオルが自信なさげに俺の顔とノートとを見比べる。


「や、そんなことない」

「そっか。じゃあ英訳してみて」

「え?」

「僕はおとといから病気です。はい」


おずおずとシャーペンを握り、自分の真っ白なノートと睨み合う。カオルの説明がわかりづらかったわけじゃない。ただもっと根本的に俺は英語が苦手なのだった。

“I”だけ書いて固まってしまった。


「おっけー。じゃあ現在完了の形は覚えてる?」

「いや、正直なにがなんだか……。ごめん」


自分から誘ったとはいえ、カオルの前でこんな恥をかくことになるとは。日ごろからもっと真面目に授業を聞いておくべきだったと、初めて心から反省した。

カオルは微笑んで自分のノートにシャーペンを走らせる。


「現在完了の形は、have+過去分詞」

「過去分詞?」

「そう。Write-wrote-writtenとかやったでしょ。その三番目のやつ」

「ああ」


そう言われて考えてみる。病気になるなんていう動詞なんて習ったか?


「……ごめん。例文が悪かったかも」


俺の混乱した脳内を覗いたかのようにカオルが謝る。


「beの過去分詞はbeen。病気になるはbe ill。どうかな?」

「うーん……」


“I have been ill”


「そうそう。あとはおとといからの部分だけ」


“I have been ill since”


「おとといってなんて言うんだっけ?」

「the day before yesterday」


“I have been ill since the day before yesterday.”


「これでいい?」


カオルが俺のノートにさっと目を走らす。そしてペンケースから赤いボールペンを出して、大きくマルを描いた。


「正解! ごめんね。わかりにくい問題出しちゃって」

「違う。森の説明はわかりやすいけど、俺がめっちゃ馬鹿なだけだって」

「そんなことないよ……。でもコツはわかりそう?」

「うん。たぶん」

「じゃあもうちょっと問題出すね」


そう言ってカオルは自分のノートに1、子どものころからゆうやとは知り合いだ。2、彼は昨夜から家にいない。3、あなたは昨夜からここにいるのですか。と書いた。


「英訳してみて」


俺はまた頭を回転させる。形はhave+過去分詞で……。


 結局俺たちは最終下校時刻である十六時半まで二人で勉強していた。お互いに苦手科目を教え合うと言う約束だったが、俺がカオルに教えることなんてほぼなかった。できないと言っていた数学でさえ、俺よりアイツのほうが理解しているだろう。


「はー。疲れた」


上履きからスニーカーに履き替えながら思わずそう声が漏れた。


「おつかれさま」


カオルが静かに笑う。もしかすると教えてもらっておいての今の発言は失礼だったかもしれないと思う。


「……ごめん」

「なにが?」


くすくすとアイツは楽しそうに笑う。その笑顔が一緒に過ごした時間をカオルも楽しんでいたと言う証のように思えた。

夏休み中に会える日はまだある。明日だって会う約束をしている。家に帰ればメールでも電話でもできる。それでも今離れてしまうのが惜しかった。


「なあ、腹へらね? マック行こうぜ」


カオルは笑顔で頷いた。


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