04
それから二年が経った大学三年生の夏。去年の八月のこと。
私も私の周りの同級生たちも翌年の三月から始まる就職活動に備えて、この夏休みを企業のインターンに充てていた。カオルもそのなかの一人だった。
世間のお盆休みが明けた頃、久しぶりにカオルと飲む約束をしていた。毎日インターンとバイトの日々で友だちと話していなかった私は、この予定を心から楽しみにしていた。
いつものようにカオルが決めた居酒屋へ行くと、彼女は既にそこにいた。
「ごめん。待たせた?」
「全然。今日たまたますんなり帰れただけ」
「ほんとー? 先飲んでてくれても良かったのに……」
そう言いながらバッグを置き席に着くと、すかさず店員がお絞りを持ってきた。
「とりあえず生とカシオレ一つずつで」
メニューを開くこともせず、カオルが注文する。それが私たちのお決まりのセットだった。
「なんか久しぶりだね」
店員がいなくなったところで、ようやく落ち着いて会話ができる。
「そうだね。最後に会ったのっていつだっけ? ライヴ……行ったよね。あれって六月?」
「そうそう。六月。てことはそれ以来だから二ヵ月ぶりぐらいか」
「そっかー。じゃあまあまあ久しぶりだね。どうだった? フミ、インターン何やってるんだっけ?」
「私ホテルだよ」
「ホテルかー。いいね。どんな感じ?」
「なんかバイトの延長線みたい。実際に社員さんに付いてフロント立ったりもするし……」
「へー! いいね! 本格的に仕事してるんだ」
「まあそんな感じかなぁ……。カオルは?」
私の投げた質問に対して、カオルが少しだけ眉根を下げたところで店員がジョッキとグラスを一つずつ持ってやってきた。それを受け取り、とりあえず乾杯する。
「おつかれー」
「おつかれ」
カオルはいつだって美味しそうにビールを飲む。決して格好付けているわけでも背伸びしているわけでもないその姿は様になっている。
「で、なんだったっけ?」
「カオルはどこのインターンやってるの?」
「んー、商社だよ。一応」
「一応ってなに?」
「なんかさ……」
生ビールに口を付ける。
「インターンっていうか、なんか就活セミナーって感じでひたすら話聞いたりグループディスカッションしたりするだけなんだよね。全然仕事っぽい仕事しないし、いつも会議室に閉じ込められてるから実際の仕事とか職場の雰囲気とか、全然わかんないんだよね」
「結構それ言う子いるねー」
「だよね。あたしも良く聞くけど、いざ自分となると何のためにやってるんだろってなるよ。こんなんだったらもっと実際の仕事に近いことさせてくれるようなインターン参加したほうがいいような気がしてくるし……」
ふう、と桜色の唇から溜息が漏れる。私の前ではこんなふうに疲れた表情を見せたりもするけれど、大学でのカオルは相変わらずいつも人に囲まれて笑っていた。講義中に発言することも多いし、彼女のことを気に入っている教授にはよく話を振られていた。そんな彼女のことだから、きっと就職活動も上手くいくだろうと思う。講義も真面目に出ているし詳しく聞いたことはないけれど、成績も良いだろう。何も心配するようなことなんかないように思うのに、そういう人こそ誰よりも就職活動の準備に精を出している。
「そもそもインターンなんて関係ないって言う人もいれば、インターンの時点で内々定貰ったって話も聞くから、もうよくわかんないよね。やればやるほど就活が不安になってくる……」
「それねー」
「今日はどこのインターン行ったとか、説明会行ったとかOB訪問したとか……、そういうこといちいちネットで報告するのも見てて疲れる」
カオルが本音を吐いてくれるから、私も安心して本心を打ち明けることができていた。
「あーいるよね。そんなのネットに書くことでもないのにね」
メニューのページを当てもなく捲りながら、カオルが私の意見に同意してくれた。まさか私が誰のことを指して言ったのかまでは気づいていないといいけれど、鋭い彼女のことだから敢えて何も言わないのかもしれない。
同じ学科でカオルの周りにいる派手な子たちは、毎日自分の就活の状況をSNS上で報告している。ときには同じセミナーで仲良くなった他大学の学生と、終了後にスタバによって一緒に撮った写真をアップする子までいる。
特に仲良いわけでもなく、入学したてのころになんとなくツイッターとフェイスブックで繋がった彼女らの投稿を見るたびに、私はオフの日でも疲れる。
「ね、とりあえずなんか食べるもの頼も。フミ、酔っちゃうでしょ。あたしも超お腹空いてるし」
カオルは本当のところは、彼女たちをどう思っているのだろう。カオルはいつも本音を話してくれるけれど、それは自分自身や私の知らない人や物事に関することだけで、共通の知り合いについてはほとんど何も語らない。だから私は彼女の口から誰の悪口も聞いたことがない。
「そだね」
メニューを捲るカオルの指先には、もうネイルは施されていない。
店員を呼んでいくつかの料理と追加の生ビールを頼む。カオルのジョッキの中身はほとんど無くなっていた。
「フミ、そういえば最近彼氏とどう?」
「え? 急に何?」
「就活の話ばっかするの嫌じゃん」
私には大学二年の夏休みから付き合っている恋人がいた。彼との関係が始まる前から、何度もカオルには話を聞いてもらっていた。
「そう言われても別に何もないよー」
「もうどれぐらい? 一年経った?」
「えっと……、もうすぐかな。今月末で一年」
「うわー。早すぎ。付き合うか付き合わないかってとき、よくこうやって飲みながら語ったよね。あれからもう一年とか信じられない」
「それねー。あのときはまさかこんなに続くとは思ってなかったけど、なんだかんだね」
「なんとなくで一年続くなら良いじゃん」
そのことばになんとなく含みを感じて、カオルの目をまじまじと見た。覗きこんだところで私なんかが見つけられるようなものは何も隠されていないのだけれど。
私はカオルの恋愛話をほとんど聞いたことがない。高校時代に長く付き合っていた彼氏がいたということは知っているけれど、私が知る限りではそれ以来恋人はいない。あれだけたくさんの人に囲まれていて、大学内のカオルはいかにもモテそうな女子なのに、不思議だ。
「カオル、なんかあったの?」
「うーん……」
カオルは視線を下げて、ジョッキに手を伸ばす。残っていたビールを一気に飲み干した。それとほぼ同時に店員が生ビールとだし巻き卵を持ってやってきた。
程よく焼け目の付いた卵焼きに添えられた大根おろしに醤油を掛けて、カオルは箸を手に取った。
「いただきまーす」
予め四等分されていた出し巻き卵の一切れを口の中に放り込んだ。どうやら本当に空腹だったらしい。
「うまぁ……」
幸せそうに卵を頬張るカオルを見ていると、こっちまでお腹が空いてくる。しばらくそうして次から次へと運ばれてくる料理を食べていた。
はまちの刺身に箸を伸ばしながら、ようやくカオルが口を開いた。
「なんかねー、今までこんなに話が合う人に出会ったことないってぐらいの人に会ったんだ」
「え? どんな人?」
「実はさ……、インターン先の人事の人なんだけど」
「まじで?」
「うん。二十七歳で結構イケメンでさ。しかもOBなんだよ」
「なにそれ。すごいじゃん」
「なんか本の趣味がばっちり合うんだよね。めちゃくちゃ語れるんだよ」
「それ超良いじゃん」
でしょ。そう言いながらカオルはジョッキに回した自分の指先を見つめた。そしてたっぷりと沈黙を味わった後、ぼそりと呟いた。
「……でも結婚して子どももいる人だから、それだけー」
それは唇から音がころりと零れ落ちたかのようだった。言い返すことばが思いつかなくて、カオルの顔を見つめた。彼女のことばの裏にある気持ちが透けて見えるような気がした。
「二十七で子どももいるとか、早いね」
その気持ちに触れてしまっていいのかわからず、結局こんなどうでもいい発言しかできなくなる。
「ほんと、そうだよね」
カオルはそう言いながら右手で左手の指先を包み込むように握った。
「あーあ、結婚してなかったら惚れてたのになぁ」
笑う。彼女のその微笑みは今までに見た誰のどんな笑顔よりも悲しく、美しかった。
そしてその美しい笑みこそが、これ以上近づかせまいと張り巡らされた彼女自身を護る鉄条網のようだった。
「……きっと他に良い人がいるよー」
「そうだよね」
カオルは笑った。悲しげで美しい顔で。
あのときにもっと踏み込んで話を聞いていたら、もしかしたら私たちは本当に友だちになれていたのだろうか。カオルは今も生きていたのだろうか。一緒に飲みに行ったりしていたのだろうか。