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その一方で三年生になるとカオルの成績はさらに上がった。家に帰って来て勉強をして食事と入浴を済ませると早めに就寝し、翌朝三時や四時に起きて勉強をしてから登校するという日々をこなしていた。一学期の中間テストは学年で六位という、私にとっては信じられないような順位を取っていた。それが嬉しくて嬉しくて堪らなくて、カオルが一層尊く思えた。その頃にはノボルの仕事量も少しずつ回復し始め、家族三人でお祝いに食事に出かけたほどだった。カオルも素直に喜んでいて、私は久しぶりに娘の笑顔を見たような気がした。
「これがカオルさんの今学期の成績です」
一学期末の三者面談で、向かいに座るカオルの担任の女性教師イシダは数字が並んだ小さな紙きれを差し出してきた。カオルと一緒になってそれを覗きこむ。小学校や中学校と比べて随分と簡略化された通知表だ。ほとんど5と4しかなく、一つだけある3は体育だった。可哀想なことに運動は私に似て不得意だった。しかしそれもどうでもよくなるほどの内申点の良さだ。
「カオル、すごいじゃない」
思わず先生の前で我が子を褒めてしまった。カオルは「やめてよ」と言いながらも、嬉しそうにしている。
「もともと成績の良い子でしたけれど、三年生になってからはより努力されているようですよ」
イシダ先生も誇らしそうに語る。
「今のカオルさんの成績ならN大とか県大も狙えるレベルですよ」
それから県外なら、と先生の話はどんどん続いていく。大学に縁の無かった私でも知っているような大学名がごろごろと登場した。
本当に自分の血を引いているのか疑問になるほど、カオルの成績は素晴らしかった。それだけではなく先生の話によればいつも友だちに囲まれている学校の人気者だと言う。カオルは私たち家族の、私の宝だ。
幸せな気分で教室を出た。
「お母さん、今日リョウスケと一緒に帰る約束してるんだけど、行ってもいい?」
「いいよ。でもそれにしてもカオルの成績にはびっくりしちゃった。毎日頑張って勉強してるもんね。本当にすごい」
「……べつに皆そんな感じだよ」
カオルはそっぽを向く。褒められるとどうも恥ずかしいらしい。その姿も堪らなく愛おしい。学校だと言うことを忘れて思わず抱きしめたくなる。
「カオルは行きたいなーと思ってる大学とか、あるの?」
「え?」
「そろそろ話しておかなきゃなーと思って。見学とかも行ってみなきゃいけないでしょ」
「うん。まあそうだけど……」
言うべきか言わざるべきか悩むような間があって、それからおずおずと続けた。
「……東京の大学行きたいんだよね」
その小さな声を聞いて、さきほどまで全身を満たしていた幸福感がすっと冷めた。こんなに努力している娘の希望さえ叶えてやれないのかと思うと、泣きたい気分にさえなった。
「カオル、家から通えないところは……」
「うん、わかってる」
カオルは真っ直ぐ前を向いたまま何度か頷いて、それ以上は何も言わなかった。健気で聡明で聡くて人に気を遣い過ぎる優しい娘。そんなこの子に親にまで気を遣わせたくはなかったのに。
「ごめんね……」
思わず漏れたそのことばに、カオルは返事をしなかった。
「カオル」
それじゃあ、と彼氏の元へと向かおうとするカオルを呼びとめた。振り返ったあの子の黒く澄んだ瞳を見つめる。
「お母さんもお父さんもカオルのことを本当に誇りに思ってる。……本当に。カオルの成績が上がることだけが今の家族の希望だわ」
カオルは黙ったまま私の目を見つめ返して、消えそうなほど小さな声でうん、とだけ言って歩いて行った。
そして明くる二月。私とカオルは並んで自宅のパソコンを覗きこんでいた。マウスを握るのはカオルだ。一回一回クリックするたびに心臓の音がどんどん大きくなっていき、冷や汗がこめかみを伝って落ちて行った。
「いくよ」
カオルのほうが私よりずっとしっかりしていた。うん、と答える声さえ上ずってしまう。
カチッ。またクリックの音がする。
数字ばかりが羅列するページが表示されて、カオルがカーソルで一つずつ追っていく。
「あった!」
「え?」
「これ」
カオルがカーソルを使って指した数字は、確かにあの子の受験番号だった。第一志望だったN大の国際教養学部に合格していたのだった。
「カオル! すごい!」
隣にいた娘をぎゅっと抱きしめる。目の奥がじんわり熱を帯びてきて、泣きだしてしまうことを予感した。腕の中のカオルは、はーっと長い息を吐いた。
「良かった」
そしてそれ以上は何も言わなかった。




