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私は子どもの頃から勉強が好きじゃなくて、地元の商業高校をどうにか卒業するとこれまた地元の企業に一般事務として就職した。二十一歳で高校の同級生だったノボルと結婚して、二年後には娘を出産した。育てていくうちに、あの子にはどうか私みたいな平凡でつまらない人生を歩まないでほしいと願うようになっていた。せめて大学まで進んで広い世界を見てほしいと。
カオルは小さな頃から頭が良かった。私も夫も全くと言っていいほど本なんて読まないのに、あの子は読書が大好きだった。冗談交じりに夫婦で誰に似たのだろうと言い合ったこともあったけれど、それが誇らしくもあって、絵本や児童文学の本は惜しまずに買い与えた。
カオルはまた内向的な子でもあった。幼馴染のハルカちゃんは活発で私に向かってもよく喋る子だったのに対し、あの子は引っ込み思案で人見知りで、知らない人と会うとすぐに私の後ろに隠れていた。あれがほしいこれがしたいとワガママを言って親を困らせることの少ない良い子だったけれど、何を考えているのかいまいちわからない不思議な子でもあった。それでも面白かった本の話はよくしてくれていた。
保育園の年中の頃、ハルカちゃんがピアノ教室に通い始めると、カオルも習いたいと言い始めた。女の子だしそれくらいやらせておいてもいいかもね、と夫と相談して通わせることにして、痛い出費だったけれどピアノを買ってあげた。すると私たちが驚くくらい熱心に毎日練習し、その分メキメキと上達していった。
「お母さん、何の曲が好き?」
楽譜集を持ってきて私に聞いては、演奏してくれた。
小学五年生になると今度は英語を習いたいと言い出した。私も夫も英語なんて自分の名前と挨拶が出来る程度だった。これからの時代は必要かもね、とまた相談をして英会話教室に通わせることにした。先生は帰国子女だという日本人女性で、英語が全く話せない私も安心して話すことができた。半年ほど通うと、先生から英検を受けさせるように勧められた。カオルも挑戦したいと言ったから受けさせてみると、四級に合格した。本人いわく四級は誰でも合格するとのことだったけれど、両親揃って大喜びした。
カオルは宿題も言われなくてもやるタイプで、大人し過ぎるような部分はあったけれど目立った問題も起こさない良い子だった。
成績も良くてピアノも上手で英語もペラペラ話す。よく私からこんなできた子が生まれてきたものだと我が子ながら感心することが多かった。私もカオルの祖父母に当たる私の両親も鳶が鷹を生むとはまさにこのことだとよく言ったものだった。
心配していた引っ込み思案も中学に上がる頃にはすっかり治り、いつの間にか友だちの多い明るい子になっていた。英語教育に力を入れる公立校に進学し、部活でキーボードを演奏しながら相変わらず勉強面でも好成績を収めていた。
カオルがもうすぐ高校三年生になるという三月のある日。東北で大震災が起こった。この辺りもだいぶ揺れた。カオルはやけに地震を怖がる子だったから心配して何度も携帯に電話したが繋がらなかった。何事もないだろうとは思っていたけれど落ち着かずに庭に出て待っていると、何食わぬ顔をして帰って来た。
「どうしたの?」
私の様子を見て初めて異変を感じたと言うふうに眉を潜めた。
「大きい地震があったの。この辺も揺れたけど、大丈夫だった?」
「え? 地震? 全然気付かなかった」
心配とは裏腹に、カオルは友だちと自転車で下校中だったために全く気が付かなかったらしい。それなら良いけれど、とようやく胸を撫で下ろした。テレビでは被災地の様子が中継されていた。
カオルはコートも脱がずスクールバッグも肩に掛けたまま、黙って画面を見つめていた。
「本当にひどいよね……」
私が掛けた声も届いていない様子だった。
それからしばらくの間、テレビは地震関連の映像とニュースしか流れなくなると、カオルはリビングに降りて来なくなった。心配して部屋を覗くと布団を被って、薄暗い中で文庫本を読んでいた。
「目、悪くなるよ。明るいところで読んだら?」
「いいの」
「でも……」
「大丈夫だから」
カオルのその行為は少しの間続いた。春休みに入っても友だちとも長く付き合っている彼氏くんともあまり会っていないようだった。
そして大地震は我が家にもう一つ大きな影響を与えた。ノボルの会社のいくつかの工場が東北にあり、直接的なダメージを受けて操業ができなくなった。そのうえ例え工場が稼働してもまともに輸送できないこともあって、会社は社員の一部を休ませる他なくなった。出勤してきたとしても行う仕事がないのだ。被害に対応するため、休みが取れなくなるくらい部署もあったが、ノボルは幸か不幸か前者に含まれた。一応の給与は出たものの、通常の六割程度しかもらえなかった。普通に生活をするだけなら貯金も崩しつつなんとかなるものの、その年はなんといってもカオルが受験を迎える年だった。せっかくあれだけ成績が良いのだから、親としてはできるだけレベルの高い大学へ進んでほしい。そのためには本人が望めば塾にも行かせてやろうと、夫婦で決めていた。
自分の部屋にこもりがちになったカオルがリビングから出て行くと、ノボルが重い溜息を吐いた。
「いつまでこの状態が続くかまったくわからんらしい」
「そうなの……」
先が見えない不安のせいか、ノボルは常に苛立っているのをなんとか隠そうとしているような状態だった。とてもカオルの塾の話などできるはずもなかった。
「ちょうどこの前、パートで一人辞めた人がいるから店長にもっとシフト入れてもらえるように頼んでみる」
せめて少しでもノボルの心配を取り除けたらと思って言った一言だったのに、夫の顔は見る見る真っ赤になって私を睨みつけた。
「馬鹿にしてんのか!」
大きな声だった。ショックよりなにより二階にいるカオルにまで聞こえていないかが気がかりだった。
「そんなつもりじゃないけど……。あんまり大きな声を出さないでよ」
まだ言いたいことがありそうな様子だったが、ノボルは一度舌打ちをすると「風呂入ってくる」と言い残して出て行った。静かになったリビングで私は一人込み上げてくる涙と戦った。生活費。カオルの学費。進路。ノボルの機嫌。自分の仕事。悩まなければいけないことがありすぎて、私自身もパンクしてしまいそうだった。




