想い
ルービスは人の話し声で目を覚ました。廊下で人々が囁き合う声や、パタパタと走り回る音が聞こえる。外を見るとすっかり日は暮れ、月が空に昇っていた。
外の様子を確かめようとドアの近くまで行くと「王子」という言葉が聞こえ、ルービスは身を固くした。ドアに耳を近づけ、様子を伺う。少し離れたところで早口で何人かが話している。やはり、たまに「王子」という言葉が聞こえるような気がするものの、話の内容までは聞き取ることができない。
ドアを開けて様子を聞こうと手をかけた時、廊下の空気が一変するのを感じた。
突然の静けさ、遠くから何人かの足音が響く。こちらに向かっている。
ルービスは思わずドアから離れ、部屋の中央まで戻った。王子だと思うとルービスの心臓は早鐘を打ち始めた。
足音はドアの前で止まった。男の声が二言三言聞こえる。承知しました、という声も聞こえてきた。ますます王子であるに違いない。案の定、ドアのノック、一呼吸おいてドアが開き、付き人とともに男の姿が現れた。
付き人は一礼すると、再びドアを閉めながら廊下へと消えた。
ルービスは入ってきた男の姿に見入っていた。貴族というのはこういうことをいうのだと感じる。
思ったよりも身長が高く、目鼻立ちがはっきりしている。緑色の服を着ている。街では見たことのない服だ。肩と襟に特徴的な飾りが付いている。当たり前だが高価な印象を受ける。髪はブロンドで短いが、後ろ髪を少量伸ばし結んでいた。ルービスはひとしきり観察し終わり、再び男の顔を見た時に、自分がずいぶん長い間観察にふけっていたことに気づいた。男はルービスと目が合うと、もう観察は終了かとでもいうように、首をかしげて見せた。
「ディーブだ。D、と呼んでくれ」
やはり王子だった。ディーブは上着をドアの横にかけ、微笑んだ。
「昼間の格好も勇ましくて良かったが、なかなかドレスも似合うじゃないか。とても綺麗だ」
声も間違いなく、あの輿の中から聞こえていたものだったが、近くで聞くと心地よく感じられた。それは自然な微笑や、話し方からくる印象なのかもしれないとルービスは思った。
ディーブの物腰の柔らかさ、所作の華やかさに目を奪われた。彼が話すたび、動くたびにまるで光を放つようだ。
(まるで光に包まれているような人だ)
「怪我の具合は・・・? 大丈夫かい?」
すっとディーブがルービスに近づいてきた。ルービスは離れようとして、自分の体が緊張から動かないことに気づいた。声も出てこない。
目の前に来たディーブは、ルービスの顔を何度も覗き込みながら、ルービスの右手を両手で包み込んだ。ディーブはルービスが話すのを待っているのか、無言になった。ルービスはディーブの顔を見ることができず、うつむいたままだった。
「食事をまだとっていないんだろう?」
あきらめたのか、そう言ってディーブはテーブルへ歩いて行った。テーブルのワインを手に取る。
「飲めるか?」
ルービスは返事をしようとしたが、まだ声が出ない。必死でうなずく。
「…なぜ、わざと負けた?」
ディーブがワインを注ぎながら言った。ルービスは驚いて顔を上げた。ディーブは真剣なまなざしでルービスを見返している。
「わざとなんて!」
やっと出た声は裏返っていた。自分の声ではないみたいだ。
「君が負けるほどの男ではなかっただろう。現に、途中までは優勢だった」
「・・・」
「結局はそれほど兵になりたかったわけではなかったのか?」
「それは違う!」
ディーブはワインを置いて、しっかりとルービスに向き直った。
「どれほどあの時を待ち望んだことか…! だけど・・・」
「・・・だけど?」
「…タオスは私の幼馴染だ・・・」
ルービスは声を落とした。
「なるほど、私の人選ミスだったか」
ディーブも声を落とし、悲しげな表情をした。
「私に・・・勝ってほしかったの?」
「・・・勝つと思っていた」
ディーブはワインの入ったグラスをルービスに差し出した。
「兵士になりたいというのはこじつけだろう?」
ルービスは視線を落とした。わかりやすい反応だった。
「この国にいながらパズバに乗り込んでくるぐらいだ、よほどの理由があるんだろう?」
ディーブはそう言って椅子に座った。ルービスが顔を上げると、もう一つの椅子を手の平で示した。
「話してくれないか、興味だけで聞くつもりはないよ」
ディーブの言葉には偽りは感じられなかった。ルービスはゆっくりともう一つの椅子に腰を下ろして語り始めた。父親が語っていた自立した女性への憧れ、未知の世界に飛び出したいという知識欲、そして父親への思い。
「白い塔?」
「ここからは見えないけれど、ビビデの街からは見える白い塔。そこにいると思う。…父は私が生まれた年に母を残して塔に向かって・・・。だけど、戻ってこなかった」
「場所がわかるのなら、捜すことはできる」
「自分で行きたいの。父の歩いたところも見てみたい。だからお願い、国から出して」
ルービスはすがるようにディーブのほうに体を乗り出した。
「この国が嫌いなのか? 確かに女性には窮屈に感じるかもしれないが、大切にされる。それが男の義務だ。この国は女性にとって素晴らしい国だと言われているんだ。他の国からもここに住みたいと移住を希望する女性が後を絶たない。外では確かに自由だが、自分の身を自分で守るということは女性にとって並大抵のことではない」
「知ってる。私ももちろん、この国はすばらしいと思っている。愛している。・・・だけど、私の住むところではない」
「外は厳しいぞ」
「わかっている・・・つもり。だけどここにいて後悔するよりはいい」
「母親も君のように?」
ルービスは首を振った。
「母は、この国の女よ。模範的なね。母を否定するわけではないけど、あれだけ愛していた父を、結局自分の足で捜しだそうとはしなかった。私には理解できない。・・・もちろん、私がいたということもあるだろうけどね。…本当は、生きて会わせたかった」
ディーブの顔が、再び悲しみに染まった。
「私が14の時に母が死んで・・・だけど親類もいなかったし。幸い貯金がたくさんあって、タオスのお父さんが後継人になってくれて、ずっと一人で暮らしてきた」
「なるほど、それで一人で生きていくという自信があるというのか」
「まさか、自信なんて。私は守られ、楽しんだだけ。厳しさは知らないもの」
「気に入った!」
ディーブが突然大声を出した。腰から剣を抜いてルービスに差し出す。
「取れ」
ルービスが受け取ると、ディーブはもう一つの剣を出した。
「本気でかかってくるんだ」
ディーブはもう立ち上がっていた。