スタートライン
「今夜のうちにディーブ王子はお戻りになるでしょう。どうぞこちらでお待ちください」
ルービスの付き人と紹介された女性は深々と頭を下げた。
ルービスの家ほどの大きさがありそうな門を通過し、ビビデの街ほどの前庭を抜け、ルービスの持ち合わせている言葉では表現できない、荘厳な城の中に入り、ルービスはトーマンと別れた。
王子の行動はここでも予想外のことであったらしく、すでに噂はされてはいたようだが、トーマンの再度の(結婚の)報告に、王宮全体がパニックを起こしたような騒ぎになっていた。
ルービスの身なりを見てあわてた様子で奥に通され、風呂、整容と立て続けに休む間もなく清められ、ルービスはもともとの美貌が活かされ生まれながらのプリンセスのように変わっていた。
すでに日は落ちかけていた。
「あの、北はどっちですか?」
付き人はルービスに一番近い窓を示した。
「あちらになります」
ルービスはすがるように窓に駆け寄った。眼下には広大な庭と、見たことのない街並みが広がるだけで、ビビデの街も白い塔も探し出すことはできなかった。
「私はドアの外に控えております。用事がありましたらなんなりとお申し付けくださいませ。このたびはおめでとうございます」
再び深々と頭を下げ、付き人はドアの外へ消えた。
(おめでとう・・・? なんて皮肉な言葉なんだろう。でも、普通に考えれば確かにこんな夢のようなことは起こりえない・・・)
夢、と考えルービスは突然胸が高鳴るのを感じた。
(もうずいぶん昔に捨ててしまった女としての幸せ。まさかこんな展開になるとは全く考えていなかった。万が一、勝負に負けたとしても帰る場所は自分の家だ。そして次のチャレンジを考える。自分があきらめない限り、挑戦は続くはずだった。普通の求婚であれば阻止できるが、果たしてこの状態を切り抜けることができるのだろうか)
自分の着ているドレスを触れてみる。なめらかな布だ。透き通るような青。こんな色の布は見たことがない。初めての宝石。
街の女たちを思い出していた。女としての魅力を最大限に発揮し、男を支えるため尽くす女たち。世界は狭くとも、知識の深く賢い女はより強い男と共に生きることができる。その頂点にいるのが王なのだろうか。
(不思議だ・・・私でも心が浮き立つ。私はこの状態が嬉しいのだろうか)
この国では女の移動は勝手にはできない。街から街への移動も夫や父親の許可がいる。
母親に白い塔と父親の話を聞かされてから、ルービスの心は外の世界に奪われていた。母親が話してくれた、もちろん母親も夫である父に聞いたのだ、外の世界の女性の活躍。自立した女性。どこまでも自分の足で歩いて行ける自由。この国を、他の国をもっと知りたいとなぜこの国の女は思ってはならないのか。もっと知りたいとルービスは父親の帰りを待った。帰ってこない父親を想いながら、いつしか自分自身がその答えをつかみたいと思うようになった。
母親に厳しく女としての立ち居振る舞いや家事全般を指導されながらも、活発なルービスは外で男の子たちに交じって剣や武道にも力を入れた。家を守るという視点からある程度の武道も女はたしなんだが、ルービスは度を超えていた。眉をひそめる人々の中からそっとルービスの手をとったのがタオスの父親だった。タオスの父は王宮の警備の仕事をする剣の名手だった。タオスの父はルービスを自分の家の道場で稽古をつけてくれるようになった。
母親が亡くなった後、どうしていいかわからないルービスを元気づけ、一人で暮らしていけるように導いてくれたのもタオスの父だった。
タオスの父が、どんな思いでルービスを支えてくれたのかはルービスにもはっきりとはわからなかった。いつかタオスの妻になるものと思っていたのか、ルービスはそれを言われるのが怖くて避けていた。自分の中で、揺るがない大前提として国外に出ていることが自分の人生の始まりだったからだ。女として着飾るのも、恋をするのも、結婚するのも、もちろんしたくないわけではなかった。あこがれないわけでもなかった。ただ、スタートラインに立つまでは考えてはいけないことだったのだ。
(なのに、なんてことだろう)
どこか、なにかを期待している自分を感じてルービスは焦った。
輿の布にかかったシルエットを思い出した。自分を初めて認め、チャンスをくれた人物。張りのある声。
(まだ顔も知らない相手に、運命を感じているのだろうか、ばかばかしい)
ルービスは答えの出ない自分の気持ちをあれこれ考えていたが、いつしか居眠りを始めていた。