中編
その後。
目の前で起こった出来事に人並みに茫然として、とりあえず、彼女は事実を受け入れた。
否、受け入れざるをえない状況になってしまったというのが正しい。
少年は、菜月の目の前で、当たり前のように、犬の姿になった。
そう、なってしまったのだ。
今まで生きてきて、ここまで驚いたことはなかった。こういうことは漫画や映画や小説やテレビ――空想の産物、架空の生き物、絶対存在しないものだと、思っていたのに、いとも簡単に全てが覆されてしまったのだ。
それとも、これはまだ夢の延長なのだろうか。
そうであってほしいと願ったが、頬をつねっても、時間が立っても、目が覚めることはなさそうだ。
どちらにしても、裸で家の中をうろうろされても困るので、菜月の持っている中で、唯一少年が着ることが出来そうな服を見つけ差し出す。
「とりあえず着て」
服をどうするかなどの日常的な問題は、後で考えるしかないだろう。
この部屋に裸の少年がいることについては、言い訳をする存在がいない一人暮らしでよかったのかもしれない。拾ったときは犬だったなどと言っても誰にも信じてもらえないだろうから。
「で、結局のところ、あなた犬男なわけね?」
菜月の言葉に、少年は傷ついた顔をした。犬男という響きが気に入らなかったらしい。
けれど、狼に変身するのが狼男なら、犬に変身する場合は犬男ではないだろうか。
「意味はあっているけど、少し違うと思う」
控えめに反論されたが、他にも聞きたいことがある菜月は聞かなかったことにした。
「まだ未成年なの?」
一番聞きたかったのは、これだ。
「そうだよ」
否定されるかと思ったが、少年はあっさり答える。
「どうして、あんなところにいたの?」
「行く所がなくて」
「家出?」
「違う。人捜しをしているんだ」
少年は真剣な顔をしている。
言っていることに嘘はなさそうだ。
「俺を育ててくれた人を捜してる。ある日突然いなくなっちゃってさ。ずっと捜して捜して、ようやくこの町で、あの人の匂いを見付けたんだ」
少年の頬が興奮のためか、ほんのりと紅色に染まり、瞳が潤んだ。
「でも、俺、お金なくて。犬の姿でうろついて、残飯とかあさってしのいできたんだけど。ちょっと、もう限界って感じで」
「そういう時に、私に拾われた、と」
「そうそう、なんだか、あなたが助けてくれるような気がしたんだ。同じ匂いがしたし」
菜月は、少年の言葉にひっかかりを覚える。
「さっきも言った。同じ匂いって何?」
「ええと……ないしょ」
少年は言葉を濁した。
何か言えないわけでもあるのだろうか。
それともふざけているのだろうか。
目の前にいる少年に文句を言おうとしたけれど、すがるような目で、彼女の顔を見つめているのに気付いて、いやな予感がした。
「お願いがあるんだけど」
ほんの一瞬、菜月はその場から逃げたくなる。
聞かないほうがよい願い事だと、本能が察知したのかもしれない。
「すごく図々しいお願いなんだけど。しばらく俺のこと、居候させてくれないかな」
嫌、と答えたかった。そうするのが正しい道のように思えた。
なのに。
少年の大きな瞳が、おねだりする犬みたいに潤んでいるのを見てしまうと、はいと言わなければならないような気がしてくるのだ。
これは、ずるいと思う。
小動物系にこんな目で見られたほだされてしまいそうになる。
「あの人の手がかりが見つかるまででいいから、お願いします。迷惑かけないようにするし、あなたがそうしろっていうなら、俺、犬の姿でずっと外で暮らすし」
殊勝な態度で、深々と床につくぐらい頭を下げられ、縋り付くような目をされて、断れる人間など、それほど多くはないだろう。
菜月もその例外ではなかった。
「手がかりが見つかるまでだからね」
という条件つきでだったが、少年はその言葉に目を輝かせて喜ぶ。
「ありがとう! 俺、りっぱな番犬になれると思うよ」
それも、何か違うような気がしたが。
すっかりあきらめてしまった彼女は、軽く肩を落としたまま、『そう』と呟くことしかできなかった。
少年は、秋と名乗った。
約束したとおり、犬として菜月の部屋に住み着くことになった彼は、夜はソファーの上で眠り、昼は人の姿になって、熱心に例の恩人とやらを捜している。
ちょうど大学が夏休みにはいっていたため、菜月はほとんど毎日をバイトに費やしていたのだが、帰宅した時、家の中に誰かがいる、というのは案外気持ちいいのだということを思い出していた。
『ただいま』や『おかえりなさい』を言ったり言われたりは、久しぶりだ。
一人暮らしをはじめたのは、大学生になってからだが、それ以前から、家族とは一線を置いていたという経緯がある。
母親が死んだのは、彼女が小さい頃だった。
父親は、三年前、単身赴任で家を出た。ついていくかどうか迷ったが、進学の関係で、一人こちらに残った。そのうち、単身赴任先で知り合った女性と父親が再婚して、なんとなく疎遠になった。
今の義母が嫌いなわけではないが、家に帰りづらいのは事実だ。一年前に弟が生まれてからは特にその気持ちが強くなっている。
互いにそのほうが気楽だと思っていて、たまに親と会うと緊張してしまう。
とはいうものの、ひとりきり、というのは、気楽ではあるけれど、寂しくもある。
誰もいない真っ暗な部屋は、空虚で物悲しくなるものなのだ。
だから、秋がいてくれるのは嬉しい。
彼は、菜月が一人で住んでいる理由を尋ねたりしない。
尋ねないのは、優しさからなのか、それとも、菜月にそれほど関心がないせいなのだろうか。
後者かもしれないとは思う。
秋が恩人を捜す熱心さは、尋常ではない。そのためなら、どんな手段もとりそうだ。見ていると危なっかしくて、つい手助けをしたくなる。
それだけではなく、秋といるのは楽しかった。
菜月が作るなんでもない料理に感動してくれるのは、新鮮な経験だったし、一緒に片付けをしたり、テレビを見たり、笑いあったりするのも楽しい。
そんな何気ない日常を、菜月を素直に受け入れている。
だが、それでも、秋と菜月の関係は、大家とその間借り人という域を出ることはない。彼はいつかいなくなる人だと分かっていたからだ。
ずっと一緒にいられるわけではない。
あまり親しくなれば、別れる時に辛くなる。
そのことを理解していて、必要以上に互いのことを話すことはなかった。
それでいいと、菜月は思っていたのだ。
そんな関係が変わってしまったのは、少年が菜月の家に住み着いて、一月ほど経っただった。
いつもなら、バイトが終わって菜月が帰宅するよりも前に、秋は戻っているはずだった。
彼女の気配を感じて、扉を開ける前に玄関に立ち、出迎えてくれる。
それなのに、その日に限って、秋の姿が見えなかった。いぶかしく思いながらも、中に入る。
誰かがいる気配はあるのに、静かだ。
明かりもついていない。
「ただいま」
呼び掛けても返事がなかった。
普段なら、すぐに秋は飛び出してくるのに、おかしい。
何かあったんだろうか? 不安に思いながら、居間を覗く。
「秋?」
彼は暗い部屋の真ん中に座っていた。
カーテンが開いたままの窓から、まるい月が見えていて、少年は、それを見上げたまま、動かない。
入ってきた彼女の気配に気付かないはずがないのに。
その背中が菜月を拒否しているようだった。
動けない。
下手に声をかけられない。
壊れてしまいそうなくらい、少年の後姿は頼りない。
そうやって、どのくらい、立ち尽くし彼の背中を見ていたのだろう。
もうこれ以上見ていると苦しくなる――そう菜月が思い始めた頃、秋がゆっくりとふりかえった。
大きな瞳が、濡れているように見える。
泣いていたのだろうか。
「お帰りなさい。月がきれいだよ」
「あ……うん、ただいま」
なるべく普通に答えたつもりだったけれど、声はぎごちなかったかもしれない。
「ずっと、そうやって月を見ていたの?」
明かりをつけることもできず、菜月はためらいがちに少年の隣に座った。
何かあったのかと素直に聞けばいいのに言葉に出ない。
「月を見ていると不思議な気持ちになる。心の奥があったかくなるような気がするんだ」
秋は、両方の手のひらを胸にあて、目を閉じる。全身で月からの光を浴びているようだった。
気持ちいい、という言葉につられるように菜月も空を見上げる。
「菜月さんは月を見ても、何も感じない?」
なにげなく――さりげなく秋は言った。
「こんな話、信じる?」
「え、なあに?」
「月が俺みたいな存在に力を与えるって話。いつだって思う時に自由に姿を変えられるけど、満月の下では、いつもより変身はスムーズで楽だよ。月には何か不思議な力があるのかな」
「そうなんだ。私も月を見るのが好きだよ。夜、寝付けない時なんて、窓を開けて空を眺めていた」
月に不思議な力があるのかどうかはわからない。
けれど、そう信じるのは悪くない。
「あのさ、菜月さんに触っていい? 触れていると月を見ている時と同じで幸せな気持ちになれるんだ」
おずおずと秋がそう尋ねてきた。
やわらかい栗色の髪が、すぐそこにある。
指先が、ほんの少し震えているのがわかる。
彼女にとっても、少年にとっても、互いの存在は淋しさを紛らわす存在なのかもしれない。誰かにすがりたい気持ちが、こういう行動をおこさせる原因なのかもしれない。
そう感じていたのに。
秋を抱き締めたいという思いを押さえることができそうにない。
「あの人の手がかり、消えちゃった」
少年がささやく。
あの人――彼が言っていた捜し人のことだ。そういえば約束したのだ。その人を捜す間、ここにおいてあげると。
「何故なんだろう。いつだってそうなんだ。手がかりが見つかりそうになったと思ったら、あの人はもうそこにはいない」
避けられているみたいだ、と自嘲気味に笑った。
「俺、弱気になっている。あの人は見つからないし。こんなに旅しているのに、仲間だっていやしない。ひとりぼっちなのかな、俺」
「そんなこと……」
ない、などとは言えなかった。
『あの人』ではなくとも、大事にしてくれる人がいるかもしれない。
仲間ではなくとも、愛してくれる人がいるかもしれない。
けれど、菜月が何を言っても、慰めになるとは思えなかった。
ずっと側にいてあげると伝えるのは簡単なことだけれど、彼がそれだけを望んでいるとは思えない。
「私が、あなたの仲間だったらよかったのにね」
そうすれば、少年のことをわかってあげられるのだろうか。
少年の孤独を癒すことができるだろうか。
秋が菜月の瞳を覗き込んだ。
何かを訴えかけるように細められた目に、何故か心が騒ぐ。
「もし俺が……」
掠れた声が、彼の喉から響いた。
「俺があなたを……」
言葉を詰まらせる。
彼女の顔だけを泣き出しそうな目で見つめている。
そのまま、どのくらいの沈黙があったのだろう。
彼は、その続きを何も言わなかった。
だた『なんでもない』とだけ言って目を伏せた。
だから、菜月は大事なものを包むこむように彼を両腕で抱きしめた。
秋が気持ちいいと言ってくれるのと同じように、そうしていると、彼女自身が暖かくて優しい気持ちになれるのだ。
しばらくすると、秋の鼓動が穏やかになる。
「寝ちゃったの?」
柔らかな彼の頭に頬を寄せて、菜月はささやいた。
返事はない。
起こすのもかわいそうで、遥はそのままで、月の光をあびながら、秋の寝息を聞き続けていた。
心の中に、不思議な感情が存在しはじめたことに、気がつかないふりをしながら。




