《茜空・車椅子・家族》
キィィー……キィ…
背後から、金属の擦れるような音がする。
寂れた音が、屋上に響く。
その音に気がついて、私は後ろを振り返った。
そこには、車椅子に乗った病弱そうな女の子が穏やかに微笑んでいた。
年は、私と同じぐらいだろうか……
背が小さくて、幼い顔つきをしている。
「あなた、何をしているの?」
女の子は、微笑みながら、私に問いかけた。
私は、その子を見つめながら答える。
「絵を描こうと思ったの」
「絵を?」
「……でも、この空を表せるような色が見つからないんだ」
夏の暑さが残る病院の屋上の床には、いくつもの絵の具のチューブが散乱している。
目の前に広がるのは、綺麗な色の夕焼け空……
私には、この空を描けない。
ううん、きっと、この空を描きたいわけじゃないんだ。
本当は、もっと別の物を描きたいはずなんだ。
でも、それが何かわからないから、どうしようもなくて、もどかしい。
私は、もう一度、その子の顔を眺めた。
少し長い三つ編みの髪を垂らし、私と同じ場所に小さなえくぼがある…
女の子は、チェックのベージュのパジャマの上から薄い桜色のカーデガンを羽織っていた。
この姿から見て、きっと、この病院に入院しているのだろう。
「もしかして、あなたは絵描きさんなの?」
その子は、車椅子をゆっくりと私の元に進ませながら、私に尋ねてきた。
「うーん…どうなんだろうね……」
「あなた、名前は?」
「私の名前?」
突然、名前を聞かれてきょとんとする私に微笑みながら、コクンと頷いた。
「私の名前は、富田由香里」
「あたしの名前は、水野茜」
その瞬間、二人の間を、強く冷たい風が吹き渡った。
空が一層紅くなり、雲の隙間からきらきら
と光が差し込んだ。薄暗い世界を、一瞬で明るくした。
何かの合図のように感じた、この瞬間を、私はけして忘れないだろう。
私たちは、その日から時々、病院の屋上や病室で会うことになった。
それ以外では、会うことが出来なかったけれど、とても楽しかった。
互いに『好きな物は何?』とか『嫌いな物は?』とか、すごく普通なことばかりだったけれど、それだけでも楽しかった。
私には家族がいない。
産まれてすぐに、茜が入院しているこの病院で捨てられたのだ。
今まで、ずっと1人で生きてきた。
だから、何でも打ち明けられる茜の存在は日に日に大きなり、私の中では、なくてはならない存在になった。
茜は、産まれた時から体が弱く、小さい頃から入院や退院を繰り返しているのだという。
両親は共働きで、ほとんど会えないから、いつも病室では1人なんだ、と少し寂しそうに話していた。
今日は、いつもの屋上ではなく、茜の病室に来ていた。
茜の病室は1人部屋だった。
病室には、ほとんど何も置かれておらず、ただ窓際の花瓶に花が飾られているだけだった。
その花も、しおれかけていて、こまめに手入れをしているようには、見られなかった。
「そこに、座って」
茜が私にいすに座るように勧めた。
私は、茜のベットの近くにある小さな椅子に座る。
最初に口を開いたのは茜だった。
「来週ね、誕生日なんだ。17歳になるの」
「おめでとう。17歳ってことは、私と同じだね」
「あ、そうなんだ。てっきり、由香里の方が年上だと思ってた」
「そんな老けてないよ」
私は笑った。
茜は、更に私に質問してきた。
「ねぇ、将来は何になりたいの??」
「うーん…。特に決めてないよ」
「由香里は、絵が上手だから、美術の先生になれば良いんじゃないの?」
「あはは。そうかもね」
でも、今の生活じゃ大学に行けない。専門学校さえ、行けるかわからないのだ。
はっきり言ってしまえば、お金がない。
私には、両親がいないから…
カタカタ…カタカタ…
外の風が強いせいか、窓ガラスが音を立てた。雲行きが怪しかった。
「最近、寒いわよね。雪でも降るのかな??」
時刻はまだ6時前だと言うのに、それでも、もう外は暗くなりつつあった。
「……冬は、嫌いだな」
「…え??」
「なんでもない。独り言…」
茜が、ぼそりとつぶやいた言葉。
なんでもない、という一言で、私は気にもとめずにいた。
茜が口を開く。
「……あたしは…」
何かを押し殺したように黙り込む茜。
私が不安そうに見つめていると、茜はゆっくりと首を振り、にこっと笑った。
まるで、自分の思ったことを否定するよう
に。
「まずは、病気を治さなきゃね」
茜は、本当は何を言いたかったのだろう。
何になりたいと言いたかったのだろう…
にこっと笑った顔も、少し寂しげに見えた。手には届かない何かを心の中に仕舞い込んだようにも見えた…
私は、そのことには触れず、茜に微笑みかけた。
「大丈夫、きっと治るよ」
茜が、私を見上げる。
私は、もう一度、優しく笑った。
「大丈夫、治るって!信じなきゃ」
なんの根拠もないけれど、そう言った。
茜に少しでも笑ってほしくて、悲しい顔なんてしてほしくなくて、つい言ってしまったんだ。
「……うん、そうだよね」
茜は、不安そうにしながらも、笑ってくれた。
きっと、茜は誕生日を終えて、無事に退院もして……
普通の子と同じように学校に行って、毎日を笑顔で過ごせる日がくるって思ってた。
そう信じてた。
……日に日に白く、細くなっていく体。
笑顔が少なくっていく茜。
それを見ても、私は茜の身に起こっていることに気づかずにいた。
ううん、もしかしたら、気づきたくなかったのかもしれない。
翌朝。
いつもより冷たい空気に気がついて、私は目を覚ました。
胸の奥が重苦しくて、寒気がする。
風邪でも引いたかな?
でも、喉も痛くないし、熱もない。
……なんだか嫌な予感がした。
窓ガラスからは、ちらちらと白い雪が見えた。
あ、冬が来たんだ。
そう思ったとたん、急に胸が重苦しくなり、不安でたまらない気持ちになった。
『…冬は、嫌いだな』
強張る表情。
不安げな瞳。
あの時、茜が伝えたかったことはいったい何だったのだろう??
そのとき、ふいに、茜の悲しそうな顔が頭の中をよぎった。
『大丈夫、きっと治るって』
その言葉が茜を深く傷つけてた。そして、茜は私を苦しめないように、わざと明るく笑ってたんだ。
行かなきゃ。茜の元に…!
私は簡単な朝食で済ますと、手っ取り早く、着替えをすませて、タンスの奥から出した厚いコートを着た。
そうして、静かにアパートの外へ出て、駆け足で病院に向かった。
時刻は、まだ、6時ちょっと前。
まだ、辺りは薄暗く、青白い月が私を見下ろしていた。
どうか、どうか……神様、お願いします。茜を連れて行かないでっ……
そう思いながら、雪の積もったアスファルトの歩道を走った。やっとのことで、病院に着き、病院の白い廊下を駆けて行った。
…137 、138、 139号室!
139号室は、茜の病室だ!
「………茜ッ!!」
茜の名前を叫びながら、扉に体当たりするように開けた。
そこには、茜がいた。けれども、いつもと様子が違う。肌が青白くて、呼吸が乱れ、息苦しそうだった。
「茜、茜っ!!大丈夫??しっかりしてッ」
「………ゆ、ゆかり??…なんで、ここにい…」
「喋らなくていいから!!今、看護婦さんを呼ぶから…」
私が、ナースコールのボタンを押そうとする。
しかし、それを、茜が細い手で阻止しようとする…
なんで…??どうして…??
頭の中で、疑問と不安が広がった。
どうして、茜は自分の命が危険なのにも関わらず、阻止しようとするの。
あきらめているの。
でも、茜があきらめていようがいまいが、私には関係なかった。
「茜、やめて!早く、呼ばなきゃいけないんだよっ!じゃないと、茜が…茜が……!」
「ううん…大丈夫、平気だよ」
焦る私と裏腹に、茜は眉を寄せて苦しみながらも、静かに微笑んでいた。
その瞳の奥が、とても澄んでいて、優しい色をしていた。
死ぬ間際なのに、どうして、こんなにも安らかな顔をしていられるのだろう。
私だったら、安らかに死を迎えることなんて出来ない。出来ないよ…
「……由香里、話を聞いてくれる?」
茜が苦しそうに呼吸をしながら、私に顔を向ける。「最後の願いを聞いて」と、でも言いたげな瞳で私を見つめる。
「…何??」
「あたしね、もう、長くないの」
茜の口から出た信じられない言葉。1番、聞きたくなかった言葉。
私は、大声で言った。
「な、何を言ってるのよ!まだ、これからじゃないっ!!絶対に死なせないから!」
「ううん、もう死ぬの」
「バカを言わないで!!」
私が今までにないくらい怒鳴ったせいか、一瞬、茜は肩をビクッと震わせた。
けれど、悲しそうにもう一度微笑んだ。
「……由香里、ありがとう。
あたしね、由香里に出逢えて本当に良かったと思っているの。
由香里は、知らないかもしれないけれど…
あたし、由香里のことを前から知っていたのよ。
屋上で1人で絵を描いていることも…
由香里がなぜ1人で居るのかも…
由香里の家族のことも…」
茜は、私を初めて知った日のことを、話し始めた。
思い出すように、窓の外の遠い何かを見つめた。そうして、ゆっくりと微笑んだ…
「私は由香里と会う一週間前に、医師から余命3ヶ月を宣告されたんだ。
信じられなかった。
嘘だと言ってほしかった…
3ヶ月しか生きられないのなら、死んだ方がましだと思ったんだ」
茜が、余命3ヶ月…
そんな宣告を受けていただなんて…
「何度も何度も屋上を行ったり来たりしてた。
…そうしている内に、あなたに会ったの。
その日は、真っ青な空が広がっていて、いつもにまして空がとても澄んでいたの。
青い空の下で筆を動かすあなたが、孤独そうなのに、堂々としていて…
その瞳が生き生きと輝いていた」
茜は懐かしむようにしながら、私に笑みを見せた。
屋上に行ったり来たりしていた理由は、多分、屋上から死のうとしていたからだろう。
茜は、ゆっくりと力強く微笑んだ。
「……だから、あたしは惹かれたの。
あなたの凛とした姿に…
そして、あたしとは違うあなたと友達になりたいって、初めて心から思えたの」
「茜……」
「でも、もう無理みたい…
体が言うことを聞いてくないの」
茜は、ふふっと笑った。
その笑みさえ、切なく見えて、胸が苦しくて、鼻の奥がつんとした。
自分でも、視界がぼやけてくるのがわかった。
泣いちゃダメだ…
そう言い聞かせても、顔が熱くなってきて、涙がぼろぼろ出てきた。
もう何がなんだかわかんなくて…
ただただ、つらくて…
茜が居なくなることに、耐えきれなかった。
「嫌だよ、茜…いなくならないで…
傍にいてよ…
私、茜がいなくなったら、また、一人ぼっちだよ…」
「………ごめんね。
でも、別れが来ると知ってても、由香里の傍にいたかった。
由香里を泣かせてしまうと分かってても…」
私は、茜を見つめた。
茜はにっこりと笑うだけで、けして涙を見せなかった。
茜は、最後の別れを告げた。
「ありがとう。傍にいてくれてありがとう。
友達でいてくれてありがとう…
由香里の家族は、あたしだよ。1人じゃない。
忘れないでー……」
天使みたいに優しい笑顔で、ぎゅっと弱々しい力で私の手を握りしめた。
そのまま、すっと眠るようにまぶたを閉じる。
「…茜、茜……あか、ね…」
いつも自分に勇気と希望を与え続けていた、あのあたたかい手は、自分の手からすっと滑り落ちた。
涙がとめどなく溢れてきて、胸が締め付けられて…
茜の二度と見ることの出来ない笑顔を胸に焼き付けた。
そして、今気がついたんだ。
私が本当に描きたかったのは、誰かの笑顔。
幸せな笑顔…
それを、茜が教えてくれた。
真っ暗だった部屋に朝日が射し込む。それは、未来への一筋の光のように輝いている。
泣くな、自分。
強くなるんだ。
これから、どんなつらいことがあってもきっと大丈夫。茜がいなくなってしまっても、茜と過ごした記憶さえも消える訳じゃない。
窓の中から、空を見上げる。
うっすらとぼやける視界の先。そこには、茜の大好きな紅い空が広がっていた。
「またね、茜…」
遥か彼方の紅い空に向けて、私は、そう呟いた……