別の国、別の時代における「世界の中心」を妄想するのが好き
よく考えるのが、「昔の東洋人にとって、世界の中心は中国だったんだろうな」ということです。今でこそ中国は世界に数ある国のなかのひとつ、ましてや西洋が基準となっている現代では世界の中心から外れたユニークな文化と言うことができますが、昔の中国人は恐らく、考え方も、建築も、文化も、科学も、自分たちが世界の中心であると信じて疑わなかったのではないでしょうか。今で言う「中国風」が「普通」で「世界の中心」です。
例えば、紫禁城のような建物を見れば、現代では「これは中国風の建物だ」と思いますが、昔はきっと「これは建物だ」としか思わなかったでしょう。昔の日本は中国をお手本にしていましたから、その頃の日本においてもそうだったのではないかと思います。遣唐使など、中国の優れた文化を目の当たりにした昔の日本人の気持ちになる妄想をよくします。そこには「中国風の」という枕言葉はありません。中国こそが文化の発信地であり、文明の最先端です。今のような西洋基準の世界に慣れ親しんだわたしには、そんな中国を基準とする世界観はわかりません。
このように、「今とは違った」感覚を妄想することが好きです。異世界トリップに対する萌えに近いかもしれません。異世界における「世界の中心」はどこなのか、現代とは違った中心を持つ異世界の人々を見て主人公はどう思うのか、そのあたりを考えるのも異世界トリップの醍醐味と言えるでしょう。




