『Bar Ashveil 〜魔術師は夜を改稿する〜』 本編・番外編まとめ
【番外編】イグナス、日暮里で敗北を聞く
――アレイスター・クロウリーが死にかけていた。
日暮里駅から徒歩数分。雑居ビルの地下にあるバーへ足を踏み入れた俺は、カウンターの最も奥まった席で頭を抱えている男を見つけた。黒い外套は椅子の背に掛かり、足元には使い込まれた革鞄が置かれている。普段は人を見下ろすことに何ら躊躇のない男が、今は背骨を抜かれた死体のように身を折り曲げていた。
目の前にはウイスキーのグラスが置かれていた。氷はほとんど溶けており、外側を伝った水滴がコースターに黒い染みを作っている。灰皿には途中で火を消した煙草が四本残っていたが、いずれも長さが揃っていなかった。
俺は一度入口を振り返った。待ち合わせ場所を間違えたわけではない。日暮里は普段から乗り換えに利用している駅であり、仕事を終えてから立ち寄るにも都合が良かった。だが場所を指定したのはクロウリーであり、久しぶりに酒でも飲もうという誘いを受けただけなので具体的な用件までは聞いていなかった。
「クロウリー?」
「……あぁ。イグナスか」
顔を上げた彼を見て、俺は椅子を引く手を止めた。目元は赤く腫れ上がり、頬には何度も涙を拭った痕跡が残っていた。普段は神経質なほど気を遣っている襟元も乱れたままで、俺を認めた途端に何かを訴えようとしたものの結局そのまま俯いてしまった。
「何かあったのか」
「……あったとも。あぁ、あったのだよ」
クロウリーは震える手でハンカチを取り出した。
「イグナス。僕は今日、人間という存在がいかに矮小であるかを思い知らされたのだ。己の無知に気づかぬまま生きることが、これほどまでに恐ろしいとはな」
「そうか」
「君にはまだ理解できまい。僕が長年にわたって築き上げてきた思想と理論は、ほんの数時間で根底から覆されたのだぞ。僕の人生を支えてきた信念さえも、今となっては砂上の楼閣に過ぎなかったのかもしれん」
クロウリーは額に手を当てて天井を仰いだ。
俺は隣の椅子へ腰を下ろし、店主にジントニックを注文した。彼の衣服には争った形跡がなく、顔色も多少悪い程度である。何らかの精神的な打撃を受けたことは明らかだったが、その原因については今のところ何も分からなかった。
「研究で失敗したのか」
「研究……無論、そのように呼ぶこともできよう。しかし単なる研究上の失敗などという生易しいものではない。僕は今日、自己の存在意義そのものを問う審判を受けたのである」
「誰に」
「……先生に、だ」
クロウリーは唇を噛んだ。
よほど恐ろしい人物だったのだろう。彼は自分より権威のある人間を滅多に認めないし、仮に意見を否定されたとしても大抵は長々と反論する。その男が何も言い返せずに泣いているのだから、少なくとも相手は相当な人物であるらしかった。
「それで何をしてきたんだ」
彼は答えなかった。喉の奥で息が引っ掛かるたびに肩が震え、ハンカチを押し当てた目元から新しい涙が溢れている。
「……ク◯ニリングスだ」
「……何?」
「ク◯ニリングス。女性の身体と快楽を理解する上で、極めて重要な技術体系だ。僕は今日、その専門的な教育を受けてきたのである」
俺は運ばれてきたグラスを置いた。
「帰っていいか」
「待ちたまえ!」
クロウリーが勢いよく顔を上げた。
「君は僕の人生における最大の危機を、ただの一言で切り捨てるつもりか! 長年の知己がこれほどまでに打ちのめされているというのに、その態度はあまりにも冷淡であろう!」
「そんな話を聞くために来たわけじゃない」
「僕とてこのような報告をするために君を呼んだわけではない」
「なら何故呼んだ」
「誰かに聞いてもらわねば、僕はどうにかなってしまいそうだったのだ!」
クロウリーはそう叫ぶと再び顔を覆った。
奥のテーブル席にいた客がこちらを振り向いたので、俺は声を落とすよう注意した。彼は素直に頷いたが鼻を啜る音だけはどうにもならないらしく、しばらくハンカチを口元に押しつけていた。
俺はジントニックを一口飲んだ。まだ話の全容は分からなかったが、既に帰りたくなっていた。
「……日暮里駅前ク◯ニ塾というものがある」
「塾?」
「そうだ。女性による実践的な指導を受けられる施設でな。僕は以前からその存在に強い関心を抱いていたのだ」
クロウリーは鞄から一枚の紙を取り出した。印刷された案内には店名と料金が記されている。講習時間ごとに料金が設定されており、指名料などの記載もあった。どう見ても一般的な教育機関とは異なるものだった。
「……これはデ◯ヘルじゃないか」
「そのような分類がなされていることは承知している。しかし名称が何であれ、優れた知見を得られるのであれば形式に拘泥する理由などあるまい」
「そうか」
「僕は独学による研究の限界を以前から認識していた。己の技術が果たしてどの水準に達しているのかを知るためには、第三者による客観的な評価が必要だったのだよ」
クロウリーは胸を張ろうとした。しかし途中で何かを思い出したらしく、肩が崩れ落ちた。
「……惨敗だった」
彼は低い声で呟いた。
「惨敗だぞ、イグナス。疑いようのない完全なる敗北だ。弁解の余地すらないほど徹底的に、僕は己の未熟さを突きつけられたのである」
「具体的に何があったんだ」
「……採点だ」
「採点?」
「百点満点でな」
クロウリーは鞄から黒い革表紙の手帳を取り出した。万年筆で細かな文字がびっしりと書き込まれており、何枚かのページには赤い線まで引かれている。彼はその中から一枚の紙を抜き取り、何か恐ろしいものを差し出すような手つきで俺の前に置いた。
中央に数字が書かれていた。
二十四点。
「……これが僕の評価だ」
「随分低いな」
「分かっている!」
クロウリーは拳を握った。
「そんなことは百も承知だ! 僕は数字の意味を理解できないほど愚かではない。だが二十四点だぞ! 長年にわたり身体と精神の関係を追究してきた、このアレイスター・クロウリーがだ!」
彼はそこまで言うと唇を震わせ、とうとう新しい涙を流し始めた。その様子があまりにも悲壮だったので、俺は一応紙の内容を確認することにした。
採点項目には技術の安定性や相手への配慮などが並んでいた。項目ごとの配点は細かく分かれており、余白には改善点が丁寧な字で書き込まれている。総合点の横には女性の筆跡と思われる短いコメントまで添えられていた。
「これは先生が採点したのか」
「……そうだ」
「百点満点で二十四点?」
「そうだとも!」
クロウリーは拳で膝を叩いた。
「僕は講師に対して何の先入観も持たず、率直な評価を求めたのだ。慰めや社交辞令など必要ないと申し上げた。真理の探究者たる者は、例えどれほど残酷な結果であろうと直視せねばならないからな!」
「それで二十四点か」
「何度も言わせるな!」
彼は怒鳴った直後に再び涙を流した。
俺は採点用紙をもう一度確認した。衛生面には比較的高い評価がつけられていたが、それ以外の項目は軒並み低かった。技術面だけでなく講師への配慮についても改善の余地があると記されている。
「衛生面は評価されているな」
「当然だ。僕はその点に関して一切の妥協を許していない。爪の手入れも口腔衛生も万全を期していたのだから、そこを評価されたこと自体は至極当然の結果と言えよう」
「それなら良かったじゃないか」
「良くなどない! 衛生面が優れているのは最低限の条件に過ぎん。それを満たしたところで技術が伴わねば何の意味もないではないか。料理人である君なら、この程度の理屈は理解できるはずだろう!」
「まぁな」
「食材が新鮮であろうと、調理技術が未熟ならば料理として成立せん。それと同じことなのだよ」
クロウリーはそこで何かに気づいたらしい。
今まで自分が口にした言葉を思い返すように目を伏せ、ゆっくりと背中を丸めた。
「……僕の技術は、未熟だったのだ」
今度は随分と小さな声だった。
俺は黙ってジントニックを飲んだ。
彼は何度か鼻を啜ったあと、手帳を開いて別のページを示した。そこには講習中の出来事が時系列に沿って記録されており、発言の一部には赤い線が引かれている。
「……そもそも僕は、最初から過ちを犯していたのかもしれん」
「何をしたんだ」
「準備だ」
クロウリーは鞄から分厚い紙の束を取り出した。革紐で綴じられたそれは、どう見ても十数枚程度では収まらない分量だった。表紙には丁寧な筆跡で表題が書かれており、何故か自分の名前まで記されている。
『性魔術における身体的奉仕と意志の相互作用に関する予備的考察』
俺は表紙を見た。
クロウリーは少しだけ誇らしそうだった。
「……これを持っていったのか」
「当然であろう。初対面の講師に対して自らの思想的背景を正確に伝えることは、研究者としての最低限の礼儀だと考えたのだよ」
「相手は何と言ったんだ」
「最初は大変興味深そうにしていた。僕の研究歴を尋ねてきたし、資料の分量についても驚きを示していたのだ」
「何と?」
「……随分本格的なんですね、と」
俺はページを一枚めくった。文字は細かく、欄外には引用文献らしきものまで書き加えられていた。内容を読む気にはならなかったが、少なくとも作成に相当な時間を費やしたことは分かった。
「それで全部説明したのか」
「いや。残念ながら時間の制約があったのでね。導入部分と基本的な概念の説明に留めたのだ」
「どれくらいかかった」
「三十分ほどだ」
俺はジントニックを少し飲んだ。
九十分のコースで三十分も自分の思想を説明するのは随分と贅沢な時間の使い方だった。もっとも料金を支払っているのは彼自身なので、俺が口を挟む必要もない。
「先生は何をしていたんだ」
「熱心に耳を傾けていたとも。途中で何度か時計を確認していたが、恐らく講習の進行を気に掛けていたのであろう」
「だろうな」
「しかし惜しいことをした。あと一時間もあれば、僕の理論についてさらに深く理解してもらえたはずなのだが」
クロウリーはそこで言葉を切った。何かを思い出したらしく、再び俯く。
「……実技の時間が足りなくなったのだ」
「当たり前だろう」
「君に言われずとも分かっている!」
彼は苦しそうに顔を歪めた。
「僕はね、イグナス。知識と実践を等しく重んじてきたつもりだったのだ。しかし今日の僕は知識の伝達に重きを置くあまり、実践へ割くべき時間を自ら削ってしまった。それがどれほど愚かな行為であったか、今ならば痛いほど理解できる」
「次からは説明を短くすればいい」
「……それでは理論の全容が伝わらぬ」
「なら資料を渡せ」
クロウリーは少し考えた。
「……なるほど」
彼は真剣な顔で手帳を開いた。
「事前配布という方法があったか。確かにそれならば講習開始以前に思想的背景を共有できる。君の指摘は実に建設的だな」
俺は止めるべきか迷った。しかし彼は既に万年筆を取り出しており、手帳の余白に何かを書き始めている。どうやら次回の講習では事前に研究資料を送りつけるつもりらしかった。
「……いや。だが待て。彼女の連絡先を知らない」
「店に連絡すればいいだろう」
「個人的な連絡先を求めたわけではないからな。そこは節度を守るべきであろう」
「そうだな」
「もっとも資料を店へ預けるという方法はある。事前に講師へ目を通してもらえれば、講習そのものの質も大いに向上するはずだ」
俺は返事をしなかった。
彼は資料の表紙を撫でながら、既に次の構想を練り始めている。講師がそれを望んでいるかどうかについては、考慮されていないらしい。
俺は店主にチーズの盛り合わせを注文した。夕食はまだ済ませていない。妻にはクロウリーと飲んでから帰ると伝えてあるものの、こんな話を聞きながらまともな食事を取れるとは思えなかった。
「……ところでイグナス」
「何だ」
「君は料理人であろう」
「それがなんだ」
「ならば技術というものが、いかに繊細な均衡の上に成立しているかは理解できるはずだ。優れた料理人は単に素材を加熱するだけではなく、温度と時間を見極めることによって最良の結果を導き出すものではないかね」
「そうだな」
「僕はその考え方を応用しようとしたのだ」
クロウリーは手帳の別のページを開いた。
「まずは相手の身体的反応を観察し、適切な刺激の強度と持続時間を判断する。そのうえで段階的な変化を加えることで、より高度な結果を得ようと試みたのである」
彼はそこで唇を噛んだ。
「……だが先生は、それを認めなかった」
「何と言われたんだ」
「もっと相手の反応を見てください、と」
「普通のことだろう」
「普通のことだとも!」
クロウリーは拳を握った。
「だからこそ僕は衝撃を受けたのだ! そのような基本的な事項について指摘を受けるとは、夢にも思わなかった。僕ほど観察という行為に習熟した人間が、何故そのような失敗を犯したというのか!」
「反応を見ていなかったんだろう」
「見ていたとも!」
「それで何故言われたんだ」
クロウリーは口を閉じた。
何かを反論しかけたが、結局言葉にならなかったらしい。しばらく天井を見つめたあと、手帳の中から講師の発言を記録した部分を探し始めた。
「……君は恐ろしい男だな」
「何が」
「僕が必死に守ろうとしているものを、いとも容易く切り捨ててしまう。君には僕の思想に対する敬意というものがないのかね」
「知らん」
クロウリーは深く項垂れた。
俺はチーズを一切れ口に運んだ。熟成の浅いものと深いものが混じっており、添えられたクラッカーも湿気を吸っていない。少なくともこの店の仕事はまともだった。
「……僕はね、イグナス」
クロウリーは低い声で続けた。
「人間の快楽とは単なる肉体的現象ではないと考えている。そこには意識の変容が存在し、さらに意志と感覚の結合によって特別な精神状態へ到達する可能性があるのだ」
「そうか」
「ところが講師は、僕の説明を聞いたあとでこう言ったのだよ。理屈よりも目の前の相手を見てください、とね」
クロウリーはそこで涙を零した。目元から落ちた雫が手帳の上に染みを作り、書き込まれていた文字の一部が滲んだ。彼は慌ててハンカチで押さえたが、紙は少し波打ってしまった。
「……僕は反論できなかった」
「正しいからだろう」
「そうだとも!」
彼は大きく頷いた。
「正しいからこそ問題なのだ! 僕が長年にわたって構築してきた理論が、あれほど簡潔な一言によって無力化されるとは思わなかった。何ということだ。僕は知識を積み上げることに夢中になるあまり、最も基本的な事実を見落としていたのかもしれん」
クロウリーは両手で顔を覆った。
俺は皿に残っていたクラッカーを割り、チーズと一緒に口へ運んだ。彼が一つの失敗をここまで複雑に解釈する理由は分からなかったが、少なくとも講師の言葉自体は至ってまともだった。
「……それだけか」
「それだけとは何だ!」
クロウリーは顔を上げた。
「まだあるのだよ! 君は僕の苦難がそれだけで終わったと思っているのかね!」
「十分だと思うが」
「いや。むしろ本当の悲劇はその後に訪れたのである」
彼は再び手帳を開いた。
今度は別のページに赤い線が引かれていた。紙の上部には『第二の敗北』と書かれている。
「……先生は僕に、もっと力を抜くようにと言ったのだ」
「そうか」
「僕はその指示に従ったつもりだった。しかし講師はそれでも不十分であると判断したらしく、身体の使い方そのものを見直す必要があると告げた」
「なら直せばいいだろう」
「容易く言うものだな!」
クロウリーは手帳を閉じた。
「長年にわたって身体に染みついた技術を修正することが、どれほど困難な作業であるか君にも理解できるはずだろう。僕は今までの経験を根本から再構築せねばならぬのだぞ!」
「全部捨てろとは言われていないんだろう」
「……無論、そうなのだが」
彼は少し考え込んだ。
「しかし独自の技術体系には、その体系を支える一貫性というものが存在する。一部を変更すれば全体の均衡が崩れる可能性もあるのだ。君とて料理の工程を一つ変更したことによって、全体の仕上がりが変化した経験くらいあるだろう」
「あるな」
「そうであろう!」
「変えた方がよければ変えるが」
クロウリーは口を閉じた。
しばらく俺を見つめていたが、やがて何かを悟ったらしく深く息を吐いた。彼の中では随分と重大な結論に至ったようだった。
「……僕は己の方法に執着していたのかもしれんな」
「そうだろう」
「技術とは本来、目的を達成するための手段に過ぎない。それがいつしか自己目的化し、僕自身の満足を優先するものへ変質していたのだとすれば……」
クロウリーはそこで言葉を詰まらせた。目元が再び潤んでいる。
「……何ということだ」
彼はハンカチを取り出した。
しばらくするとクロウリーは鼻を啜りながら姿勢を正し、手帳に新しい項目を書き加え始めた。万年筆の先が紙を擦る音だけが響いている。
「……君の言葉は実に示唆的だな」
「そうか」
「僕は今日の講習について、もう一度根本から分析する必要があるだろう。技術の問題だけでなく、それを支える思想そのものを再検討せねばならん」
俺は店主に水を頼んだ。
クロウリーはまだ何かを書き込んでいたが、ようやく落ち着きを取り戻し始めたらしい。少なくとも先ほどのように何度も涙を零すことはなくなった。
「……それにしても、先生は実に優秀な女性だった」
「そうか」
「知識も豊富で観察力にも優れていた。僕のような人間に対しても最後まで誠実に向き合ってくれたのだ。その姿勢には深い敬意を抱かずにはいられん」
「良かったな」
「無論だ。僕は彼女を責めるつもりなど毛頭ない。むしろ彼女の指導は、僕にとって新たな境地への扉を開くものだったとさえ言えよう」
クロウリーは満足げに頷いが、その直後に目を伏せた。
「……だが」
「何だ」
「最後に一つだけ、どうしても理解できぬことがあったのだ」
俺はグラスを置いた。
クロウリーは手帳の最後のページを開いた。そこには他の部分よりも大きな文字で、何かが書き込まれている。
「……講師は僕に、もう少し普通に接してくださいと言ったのだ」
「そうか」
「僕はその意味を理解できなかった。普通とは何かね。人間の行動における普遍的な基準など存在するのか。文化や個人の経験によって価値観が異なる以上、普通という言葉は極めて曖昧な概念ではないか」
「どういう状況で言われたんだ」
クロウリーは少し考えた。
「……僕が彼女を女神と呼んだときだ」
俺は目を閉じた。
「何故そんなことを言った」
「当然であろう! 女性の身体を神聖なものとして捉えることは、僕の思想体系において重要な意味を持つのだ。敬意を示すための呼称として、女神という表現が不適切であるとは思わん」
「普通に名前で呼べばいいだろう」
「……それも言われた」
クロウリーは沈痛な面持ちで答えた。
「僕は彼女を尊重するつもりだったのだ。しかし先生は、名前で呼んでくださいと仰った。神聖なる存在として扱われることよりも、一人の人間として接することを望んでいたのである」
彼はそこまで言うと長く息を吐いた。
「……僕は何と愚かだったのだろうな」
クロウリーは再び涙を零した。
もはや俺は何も言うことはなかった。
彼が相手の女性をどう扱っていたのかは詳しく聞く気にもならなかったが、少なくとも普通の接客を受けに来た人間として振る舞っていなかったことは確かだった。
「……ところで」
俺は話題を変えることにした。
「その先生は実際に何歳くらいだったんだ」
「二十代後半といったところか。落ち着いた物腰の女性だったよ。年齢に比して実に優れた見識を備えており、指導者として申し分のない人物だった」
「ずいぶん若いな」
「年齢は問題ではない。真理を理解する者の前では、経験の長短など些細な違いに過ぎない」
「そうか」
クロウリーは頷いた。
その顔には奇妙なほど真剣な敬意が浮かんでいた。彼は自分の思想を否定されたことを屈辱と感じている一方で、その相手に対して深い尊敬を抱いているらしい。
「……僕は最後に彼女へ尋ねたのだ」
「何を」
「自分には才能があると思うか、とね」
クロウリーは目を伏せた。
「先生は少し考えてから答えた。才能の有無よりも相手の気持ちを考えることが大切です、と」
「そうだな」
「その通りなのだよ!」
彼は拳を握った。
「僕はその瞬間、己の愚かさを痛感した。才能という言葉によって自分を正当化しようとしていたことさえ、彼女には見抜かれていたのだ。全く恐るべき洞察力ではないか!」
「普通のことを言っただけだと思うが」
「君は随分と容易く言うものだな!」
クロウリーはまた泣き始めた。
俺は時計を確認した。午後八時を少し過ぎていた。
そろそろ帰ってもよさそうだったが、彼の様子を見る限りまだ話は終わらないらしい。俺は二杯目のジントニックを注文し、店主が運んできた水をクロウリーの前へ押し出した。
「少し飲め」
「……あぁ。すまない」
クロウリーは水を一口飲んだ。
その間に俺は皿に残っていたチーズを食べ終え、ナプキンで指先を拭った。料理人として働いていれば他人の評価を受ける機会はいくらでもあるし、その度に自尊心を傷つけていては仕事にならない。少なくとも客の口に合わなかった料理を出したからといって、自分の思想まで否定されたとは考えない。
「……イグナス」
「何だ」
「君は自分の技術を否定されたことがあるかね」
「ある」
「……そうか」
「珍しいことじゃない」
クロウリーはしばらく黙った。その後ゆっくり顔を上げ、何かを確認するように俺を見つめた。
「……君はそのとき、どうしたのだ」
「直せるところは直した」
「それだけか」
「それだけだ」
クロウリーは深く息を吐いた。
「……君は実に強靭な精神を持っているのだな」
「普通だと思うが」
「謙遜する必要はない。己の技術を否定されてもなお、その事実を受け入れて前進するとは立派な態度ではないか。僕は今ほど君という人間を尊敬したことはない」
俺は返事をしなかった。
彼は再び手帳を開き、何かを書き込み始めた。どうやら俺の発言まで研究資料へ取り込むつもりらしい。
「……しかし、僕は本当に二十四点だったのだろうか」
「先生が採点したんだろう」
「無論だ。だが採点基準そのものに再検討の余地がある可能性は否定できない。講師が厳格さを重んじるあまり、必要以上に低い評価を下したということも考えられる」
「だったら先生に聞けばいい」
「そのような行為は評価者への不当な圧力となりかねん!」
クロウリーは強い口調で言った。
「評価とは客観的でなければならない。被評価者の意向によって点数が変動するようでは、そもそも採点する意味など存在しないではないか!」
「なら二十四点でいいだろう」
彼は口を閉じた。
しばらく俺を見つめていたが、やがて両手で顔を覆ってしまった。
「……二十四点なのだぞ」
また涙が落ちた。
俺は深く息を吐いた。この男に数字を扱わせるとろくなことにならないらしい。
クロウリーはしばらく沈黙していたが、やがて手帳の別のページを開き始めた。先ほどまでの記録とは異なり、そこには今後の研究計画らしきものが箇条書きで記されている。
「……実はな」
「何だ」
「再受講の案内も受け取っている」
「そうか」
「僕はこのまま敗北を受け入れるつもりなどない。技術を改善し、もう一度評価を受ける必要があると考えているのだ」
「行けばいいだろう」
クロウリーは顔を上げた。
目元にはまだ涙が残っていたが、その奥に少しだけ光が戻った。
「……本当にそう思うか」
「あぁ」
「なるほど。確かに一度の敗北をもって全てを断ずるのは早計であるな。人間は失敗から学ぶ生き物だ。偉大なる思想も、時として惨めな挫折の中から生まれるものではないか」
クロウリーはゆっくり背筋を伸ばした。
先ほどまで死にかけていた男が、今では何かの儀式を執り行う司祭のような顔つきをしている。彼は手帳を閉じて胸に当て、低い声で宣言した。
「よろしい。僕はこの敗北を受け入れよう。そして己の技術を根本から見直すこととする。観察と配慮を重んじ、これまでの理論をさらに高次の段階へ昇華させるのだ!」
「良かったな」
「次回こそ必ずや汚名を返上してみせようではないか! 僕が今日受けた屈辱は、やがて新たな体系の礎となるであろう!」
クロウリーは勢いよくウイスキーを飲み干した。
ようやく顔色が戻ったらしく、ハンカチを丁寧に折り畳んで胸ポケットにしまっている。俺はもう一口ジントニックを飲み、時計を確認した。
午後八時半を過ぎていた。
「そろそろ帰る」
「もうそんな時間か」
「あぁ。妻が待っている」
「……そうか」
クロウリーは少し寂しそうな顔をした。
俺が財布を取り出すと、彼は慌てて札入れを開きカウンターに紙幣を置いた。
「今日は僕が払おう。君には随分と付き合わせてしまったからな。何より君のおかげで僕は再び前を向くことができたのだ」
「自分の分は払う」
「遠慮する必要はない。僕の人生における重大な転機に立ち会ってくれた礼だよ。これくらいはさせたまえ」
俺はそれ以上断らなかった。
クロウリーは採点用紙を丁寧に鞄へしまい、その上に研究資料を重ねた。ようやく落ち着いた様子だったので、俺は外套を手に取って椅子から立ち上がった。
「……イグナス」
「何だ」
「一つだけ聞いてもよいかね」
「手短に頼む」
クロウリーは真剣な顔をした。
「……君は結婚しているな」
「あぁ」
「夫婦生活は順調か」
俺は外套を羽織った。
「帰るぞ」
「待ちたまえ!」
クロウリーが慌てて身を乗り出した。
「誤解しないでほしい。僕は君の私生活を詮索しようというのではない! ただ君のように長く一人の女性と生活を共にする人間には、僕のような者が学ぶべき知見があるのではないかと考えたのだ!」
「何も教えるつもりはない」
「無論、具体的な事情を語れなどとは言わん。僕はそこまで無作法な男ではないからな」
「今のは十分無作法だろう」
クロウリーは傷ついた顔をした。しかし今度は反論しなかった。ゆっくりと椅子へ座り直し、両手を膝の上に置いたまま視線を落とした。
「……そうかもしれんな」
俺は出口へ向かった。
背後からクロウリーの声が聞こえたが、振り返らなかった。店の扉を開ける直前にもう一度だけ足を止めると、彼は採点用紙を再び開いて何かを書き込んでいた。
日暮里の夜風は思ったより冷たかった。
地下に籠もっていた煙草の匂いは地上へ出るにつれて薄れ、代わりに車の排気ガスと飲食店の油の匂いが混じった空気が流れ込んできた。俺は外套の襟を立て、駅へ向かって歩き始めた。
途中で携帯電話が震えた。妻からのメールだった。
『帰りに牛乳を買ってきて』
俺は了解と返し、駅前のコンビニに立ち寄った。
牛乳を一本取り、レジに並ぶ。店内には明るい音楽が流れており、雑誌棚の前では若い男が立ち読みをしていた。何の変哲もない夜だった。
会計を済ませたところで、再び携帯電話が震えた。
『そういえば、クロウリーさん元気だった?』
『塾に通うらしい』
間もなく返事が来た。
『偉いわね。何のお勉強?』
俺は画面を見つめた。しばらく考えたが、適切な説明が思いつかなかった。
『専門的な技術の勉強らしい』
『そうなのね。熱心な人ね』
俺は携帯電話をポケットにしまった。
その直後、また通知が届いた。クロウリーからだった。
『イグナス。先ほどの件について改めて検討を重ねた結果、一つの重大な疑念に至った。そもそも人間の快楽という極めて複雑な現象を、百点満点という単純な尺度で評価すること自体が方法論として不完全ではないかね? 僕の理論と実践を鑑みれば二十四点という評価は到底承服し難い。君の見解を聞きたい』
俺は通知を消した。
牛乳の入った袋を持ち直し、改札へ向かった。




