22話 開襟シャツの男
その日の晩。
翠はベッドで眠っていた。
背後では、かたかたと石堂がキーボードをたたく音が聞こえている。
この音が今では安眠剤代わりだ。
部屋にひとりではない。
誰かがいる。
自分はひとりじゃないと実感できた。
自宅では真っ暗じゃないと眠れないのに、室内灯さえ気にならない。
明るいせいで眠りは浅くなるのだろう。
時折目が覚める。
だが日中動き回ってたせいか、すぐにまた、とろんとした眠気にからめとられて意識を手放す。
この日も。
ふとしたことで、翠は目を覚ました。
キーボードを叩く音が止んだのだ。
ぎしり、とマットレスの音がし、小さく石堂の欠伸が聞こえた。伸びをしたのか、うう、とそのあと声が続いた。
石堂は足音を忍ばせるようにして移動した。
どこに行くのか、と思ったが。
静かに扉が開く音がする。
(トイレなのかな……)
何時なのかはわからないが、石堂も作業を終えて眠るのかもしれない。
翠も欠伸を漏らした。
ふと、腰に痛みを覚える。寝返りをしなかったのだろうか。
(よいしょ)
翠は、横向きから仰向けになろうとしたのだが。
びくりとも身体が動かない。
(え……?)
一気に思考が覚醒した。
足を動かそうとするが、重い。
身体が動かないというよりは、粘着質な液体の中に放り込まれた気分だ。ゆっくりとしか動かない。
「……あ……、う」
声を上げようにも、喉の奥で言葉がつぶれて出てこない。
翠は必死に手足をばたつかせた。
ベッドの上で暴れているぐらいに動いているつもりなのに、実際にはゆっくりと仰向けになっただけだ。
視線を動かす。
そして、ぎょっとした。
自分の腹の上に、男が乗っている。
「あ………」
白い開襟シャツの男だ。
馬乗りになり、前かがみに翠の顔を覗き込んでくる。
男は、翠の胴体に両手をついている。
だから、男が翠の顔を見ようとすると、圧迫されて肋骨が痛んだ。
「うう」
呻くとともに、目を固くつむった。拍子に目から涙があふれ出る。痛い。
圧迫されるから肺も大きく膨らまない。苦しい。
「どいて」
翠はかすれた声で言う。もつれながらも舌は動いた。
実際は怒鳴ったのに、喉から搾り出たのはか細い声だった。
しかし発声機能は徐々に戻りつつある。そのことが翠に安堵をもたらした。
「いやだ」
男は嗤う。
短い。それだけの返事なのに、そこには翠に対する嘲りと、侮蔑があった。
「寄こせ」
不意に痛みから解放される。
ようやく大きく息が吸えたのに。
男の両腕が自分に向かって伸びてくる。
顔を、首を。
翠ごとつかみ取ろうとして来る。
「か、風が吹くわよ!」
口をついてでたのは、おまじない。
幼いころ聞いた伯母の声が耳に蘇る。
怖いものがいる、と泣く翠に伯母はゆったりと微笑む。
『風が吹く、と言ってやりなさい。きっと逃げていくから』
ぎゅ、っと手を握られた記憶。
「……風が……」
「布士さん?」
ぐい、と肩を掴まれて翠は目を開いた。
「ふく……」
涙目のまま、翠は声を漏らした。
ベッドに腰掛け、真上から覗き込んでいるのは石堂だ。
自分は今「副社長」と言いかけたのか。それとも「吹く」と言いたかったのか。
「ひぅ……っ」
わからぬまま、翠は腹筋を使って上半身を起こすと、そのまま石堂の首に抱き着いた。
「どうしました。なにかありましたか」
背を撫でられながら、翠は泣く。
恥も外聞もなかった。
きつく石堂にしがみつき、子どものように声を上げて泣く。
「大丈夫です。ここには、なにも入ってこれませんよ」
何度も言われたが、翠は泣きながら首を横に振った。
嘘だ。
あれは、入ってきた。
今もきっとどこかにいる。
そして、自分を狙っているのだ。
「大丈夫、大丈夫。わたしもそばにいますから」
「ざ……、ざっぎ、いながっだ……」
えぐえぐと嗚咽交じりになじると、石堂は苦笑したものの、素直に詫びてくれる。
「ごめんなさい。そうでしたね。もう大丈夫です。もう、ずっとここにいますから」
石堂は翠を腕に抱えたまま、ゆっくりと倒れ込んでくる。
背中にベッドを感じる。
石堂がまだ翠を離さないから、彼の重みがのしかかる。
だけど、さっきのような圧迫感ではない。
石堂も加減はしている。
「あとは、もう一緒の部屋です。大丈夫」
耳元で囁かれ、ようやく翠は頷き、洟をすすりながら石堂の首から両腕を解く。
「一緒のベッドで眠った方がいいですか?」
上半身を起こした石堂がからかうように笑うから、翠は耳まで真っ赤になって掛布団の中にもぐりこんだ。
「おやすみなさい」
ぽすぽす、とその布団を軽く叩いて石堂は言う。
翠は目を閉じた。
石堂の優しい手つきはそのままだ。
そうやって。
うとうとと眠り始めた頃。
ようやく、石堂はベッドの端から立ち上がったようだ。
深い眠りに入る前。
ぎしりとベッドが軋んだ音を、翠は聞いた。




